生きよ

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今、大韓民国の平昌で、「冬季パラリンピック」が開催中です。体が不自由なみなさんが、とくにスポーツの世界で活躍する姿を見るのは、素晴らしい感動を覚えます。この「パラリンピック」について思い出す事があります。

1964年10月、「東京オリンピック大会」の最終日に、マラソンが行われました。主会場の東京陸上競技場から、「国道20号線(甲州街道)」の調布の折り返し点を往復して行われたレースで、ローマ大会に次いで二連覇で優勝を果したのが、エチオピアのアベベ・ビキラ選手でした。そして3位に入ったのが、自衛隊体育学校の円谷幸吉選手(二等陸尉)でした。両者とも素晴らしい走りを見せ、その盛り上がりは素晴らしいものでした。

この両選手は、次の「メキシコ大会」に向けて準備に余念ありませんでした。ところが体調が思わしくなく、過重な期待感とで精神的に押しつぶされた円谷選手は、メキシコオリンピックの直前に自死してしまいます。私の兄と同年の生まれでしたが、彼の書き残した遺書には泣かされてしまいました。死なないで、後進の指導をして欲しかったので、残念で仕方がありませんでした。

一方、アベベ選手は、メキシコ大会のマラソンに出場しましたが、途中で棄権してしまい、三連覇は果たせませんでした。この大会の半年後に、自動車運転中に事故に遭って、頚椎損傷の重傷を負って、選手生命を奪われてしまいます。親衛隊の衛士であった彼は、8ヶもの入院治療とリハビリから立ち上がり、1971年に、ノルウェーで開催された、「身障者スポーツ週間」の《犬ぞりレース》に参加して優勝を果たしたのです。ところが、1973年10月に、脳出血により病死してしまいます。まだ41歳の若さでした。

この障害を負うという願わない経験の中で、不屈の魂、スポーツ魂が、アベベ選手にあった様に、円谷選手にもあったらと思ってしまうのです。必ず人は死ぬのですから、死に急ぐ必要はないのです。水野源三は、《瞬きの詩人》と言われ、生きている人を激励する多くの詩を残しました。お母さんが、お母さん亡き後は義姉が、五十音表の文字を指すと、《瞬き》で源三が告げて書くと言った方法で詩作したのです。

『死にたい!』と願ってしまう辛い経験は、誰にでもあるのです。『死ぬな!』と、私の愛読書にあります。障碍や失敗、そして恥でさえ負いながらでも、人は生きなければならないのです。失ったものを数える思いから、残された素晴らしきものを数えたら、そこには結構あるのではないでしょうか。『生きよ!』とも愛読書にあります。

ピョンチャン冬季パラリンピックで、参加選手の精一杯の活躍を、地続きの大陸の南方から、願って応援しています。加油(jiayou/頑張って)!

(アルペンスキースーパー複合女子座位で銅メダルを獲得した村岡桃佳選手、円谷幸吉選手の出身地の福島県須賀川市の市花の「牡丹(ぼたん)」です)
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どこかで

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作詞が百田宗治、作曲が草川信で、「どこかで春が」という童謡が、1923年に発表されました。作曲家の草川伸は、「夕焼け小焼け」や「揺籃(ゆりかごの歌)」を作曲しています。

どこかで春がうまれてる
どこかで水が流れ出す

どこかでひばりがないている
どこかで芽のでる音がする

山の三月  東風(こち/春風の事です)吹いて
どこかで春がうまれてる

真冬に大陸から吹いて来る季節風は、シベリヤ上空の寒波を、日本に運んで、人々を震え上がらせたのですが、東寄りの風に変わる頃に、春が到来するのでしょうか。百田宗治(ももたそうじ)は、大阪の出身ですから、水や木の芽や雲雀(ひばり)を眺められ、「東風」を頬にな感じられる、どこかの山村で迎えた、「春」を思い出していたのでしょうか。

この方が、「民衆」と言う雑誌を発刊させたのですが、その創刊号に、次のように寄稿しています。

君達に送るー新しい民衆の精神
ー雑誌『民衆』の創刊号にー

いま僕は君達に書く、
最も新しい名で君達をよび、
僕のあらゆる精神をこめて。

君達は知っているか、
いま僕等がどんな時代にいるかと云うことを、
いま時代がどんな方に動いているかと云うことを、
おお君達の生誕を待っていた世界、
君達はあの声をきくだろう、
澎湃(ほうはい)として起ってくる声、
いまや世界のあらゆる隅々から、
あらゆる国土を充して、
すべてのものの胸を開かしめる、
新しい民衆の精神を。

おおいま君達を求めてきたこの声、
君達の窓の外に一杯になっているこの声、
あらゆる国語で、
あらゆる個々の発想で、
いまや世界を領有しにゆく声、
六合を一切の迷蒙(めいもう)から救いにゆく声、
あらゆる文化の偶像を根本から転つがえすこの声、
自由と新しいこの声。

おお君達は耳傾ける、
おお君達が求めつつあったものは之れだ、
君達の精神のうちに鬱積しつつあったものは之れだ、
おお既に君達はこの声を叫んでいたのだ、
君達の生命は既にこの精神のうちに目ざめていたのだ、
ここに生きつつあったのだ、
新しい生命に充されていたのだ。
民衆!
何と力強い人間の言葉だ、
一切の誤った文化の迷蒙から剥脱した真人、
宏大なるマッス、
めざめた精神、
それは深く開かれた人間の眼だ、
新しい精神だ、
鬱積していた久しい土上の爆発だ、
埋れていた真の人類の覚醒だ、
新しい相互扶助の世界だ、
正しい人類の意志だ、
正しい針路だ。

見よ裸の僕達を、
新しき世界魂を、
若き魂を、
自由の僕達を、
一切の哲学的迷蒙から自由な僕達を、
一切の宗教的迷蒙から自由な僕達を、
一切の科学的迷蒙から自由な僕達を、
一切の支配と圧制から自由な僕達を、
一切の伝統的因習から自由な僕達を、
一切の階級、不当の権力、一切の他動意志から解放された精神を、
僕等を圧倒し、押え、
僕達に強いさせられた一切の約束から
いま全く別物の上に立つ精神、
新しい世界の築造。

吾々の胸は開け、
吾々の上には宏大な空があるばかりだ、
吾々は自然に対して生きるのだ、
太陽に対して、
月、そして無限の星斗、
雨、そして暴風、洪水に対して、
稲妻、雷鳴、海嘯
つなみに対して、一切の媒介物を排し、
真裸かで夫等
それらのものに面接するのだ、
彼等のうちに正しい人間を拡大しにゆくのだ、
真の人間の実現
レアリザッシオンだ、
真の人間の幸福と平和と事業をうち立てるのだ、
正しい旗じるしをひるがえすのだ、
共働の精神を生きるのだ。

民衆の声こそは世界の声だ、
一切のものが更新されるのだ、
一切の組織が人間自然の意志に帰るのだ、
人間と自然が抱き合うのだ、
そしてそれを高めてゆく世界、
そこに民衆的文化――正しき人間と自然との結合、
強い意志――永遠の生長。
(1917年11月10日作)

25歳の宗治は、「働く者(労働者/額に汗し、節くれだった指で働く働く者)」への思い入れが強い人だったようです。青年の強い意気込みが溢れていて素晴らしいですね。宗治(実は私の父と同じ名前でペンネームですが)は、多くの学校の「校歌」の作詞をしています。

(土筆です)
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浅葱斑

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『シガッコ(氷柱<つらら>)が溶ける!』と春が来ます。春の一大行事は、入学・入社式、プロ・高校野球の開幕、新年度などがあります。やって来る春で、最も興味深いのは、《生き物の世界》の出来事です。2000kmも移動する「浅葱斑(アサギマダラ)」の事を知って、あの体格(5~10cm、10数g)で、そんなに飛翔できるのが不思議でなりません。

この「浅葱班(アサギ色をした蝶です)」は、春と秋に日本列島を縦断し、春には沖縄・台湾から本州・北海道へ北上 します。そこで秋まで過ごし、秋には北海道・本州から沖縄や台湾まで南下をするのです。マーキングをした「アサギマダラ」が、海を渡って、台湾や香港にも出かけるという事を聞いて、私たちが住む街にも飛来するのかも知れません。自然界の神秘さに驚かされます。

主に"フジバカマ"の花蜜を吸って飛び立つのだそうです。一度、翅で舞い上がると、鷲や鷹のよう羽(翅)をはばたかず、上昇気流にのって、自分を風に任せて移動する様です。うまく風に乗る事で、その長距離の移動を可能にしているのです。ヒマラヤの高い峰の上を、鶴が飛ぶにも驚くのですが、そういった習性は、どこから来ているのでしょうか。
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蝶々では、 「アゲハ」が有名ですが、この「アサギマダラ」 の人気は、とても 高いそうで、飛べない私たちの叶えられない夢を叶えてくれるからかも知れません。"ウイキペディア"に、次の様にありました。

『・・・研究者達によって、夏に日本本土で発生したアサギマダラのうち、多くの個体が秋になると南西諸島や台湾まで南下することが判明したものの、集団越冬の場所や、大量に死んでいる場所も見つかっていない。南西諸島で繁殖、もしくは本土温暖地で幼虫越冬した個体は春の羽化後にその多くが、次の本土冷涼地での繁殖のために北上する傾向にあることが明かになった。』

春三月、散歩しながら、この「アサギマダラ」が飛んでいるかどうか、観察して見たいと思っています。日本で人気があるのですから、きっとこちらにも民間の研究者がいらっしゃるかも知れません。知り合いに農業大学の大学院を終えた方がいますので、聞いて見る事にしましょう。

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早春の花

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「福寿草(ふくじゅそう)」

「雪割イチゲ」

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配信の「里山を歩こう」に掲載されていた花です。藪の中に分け入らないと見つけることができない、早春の花です。広島県福山市・山野峡に咲いていたそうです。

この「福山市」は、学校出たてで、出張を命じられて、「広島県教員セミナー」のお手伝いに行った事がありました。もう半世紀も前の事になります。3年間在職していた間、高校の教師の再教育のセミナーが企画され、熊本や福岡や鹿児島、そして和歌山や鳥取にも行ったでしょうか。福山は、静かな街でした。

日本は、都市開発が行われて、多くの自然が壊されてしまったのですが、地方の街の山や里山には、まだまだ自然が豊かに残されているのすね。奥多摩や甲州路の山々を歩いた事がありました。今頃は、芽吹く前ですから、木々の葉が落ちていて遠望ができるし、山の肌が見えて、とても好い時季でした。
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避難所

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今では選ばれることがなくなったのですが、「健康優良児」が、かつていました。体格が良くて健康で、様々な能力に優れた子どもが、選ばれていました。小学校の同級生にも、「頭一つ」誰よりも大きくて、実に健康だった「大野君」がいました。顔色はいいし、頬っぺもふくよかで、性格もよくて《理想的な小学生》でした。その真反対の<病欠児童>の私は、そんな彼の側にいたくなかったのです。今、どんなお爺ちゃんになっているのか、会ってみたいものです。

ですから、そんな貧弱な私には、「健康優良児」を、心の中で喜べなかったのです。スパルタの街やナチス政権下での<優秀でなかった子ども>の気持ちがよく分かるのです。臍曲がりの私は、1930年に、「日本一の桃太郎」を探し始め、人間の価値は、体格や知的や運動能力では測れないと言って、1978年に廃止されるまでに選ばれた、「優良児」を追跡調査してみたら面白いのではと思うのです。桃太郎の晩年も。

大学に入った年の学校で、健康検査が行われた時、上半身裸の私を見た医師が、『君は好い体をしてるなあ!』と言ってくれたのです。それは、《病弱児童》だった私への、《病弱宣告終了》だったのです。転校して来て、欠席の多い私を、授業中に褒めてくれ「内山先生」と、この医師とは、私にとって忘れられない人たちです。

もう一人、親としても、社会人として、時として疲れて意気消沈していた私を、家族ごと呼んでくれ、激励してくれたアメリカ人起業家がいました。この方の5人のお子さんが、私と家内と4人の子どものために、自分たち部屋を提供して、3日ほど、その家で過ごさせてくれたのです。そんなことが3回ほどあったでしょうか。あの方がいて、あの日々があって、そんな「避難所」があったので、今の私たちがあるのだと感謝しているのです。

彼は召されたのですが、奥様はアメリカで、上のお嬢さんの家で過ごされていて、その他のお子さんたちは、お父様の志を継いで、日本やアメリカでお仕事をされておられます。彼らも、時々、私たち夫婦を招いてくれ、親子二代の交流が続いています。もちろん私の子どもたちも、彼らがお世話くださって今日があります。

つくづく思うのですが、「健康優良児」でなくても、《起死回生》で健康が恢復されたり、激励されて生きることができるのだと、心から感謝してるところです。叱ってくれた教師や大人の顔が思い出されます。昨日は、家出をして4日も家を空けている、14歳になる息子の事で、一人のお母さんが、わが家にやって来ました。家内が、かつて流していた涙を、このお母さんも流していました。将来、彼のおばあちゃんが住もうとして購入した家に、彼が避難所として隠れていたと、夕べ夜中に電話がありました。

彼だって、生きる権利、親や社会に反抗する反発力があって好いのでしょう。そうやって、人は大人になっていき、人の一生は多様なのです。親の都合によってではなく、一人一人の子どもの持った個性で生きて行ったら好いのでしょう。私の両親が、もしここにいたら、そんなことを思ったり、彼のお母さんと話をしてるのを見ていたら、<苦笑い>をして、『信じられないなあ!』と言うことでしょう。

(北海道の洞爺湖に昇る日の出です)
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詩一題

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私の周りに、山東省の出身の方が3人います。一人は、遥か遠い昔に、この隣の街に移住して来た一族の末裔、きっと戦乱を避けてだったことでしょう。私たちを何くれとなくお世話をしてくださる大学の先生です。もう一人は、この街の方と結婚した、幼い女の子のお母さんです。”東北人気質”で、巻き舌の様な発音の”儿er”を使うですが、なるべく使わないでいる方。「弁護士」の資格を持っているのに、そんなそぶりを見せません。もう一人は、日本に留学してから帰って来て、この街の大学で教師をしている男性です。故郷から帰って来ると、お土産をくれます。

日本の企業に、戦時中に、こんな事がありました。中国や朝鮮半島から、「強制連行」して、多くの労働者を確保した、悲しい歴史です。男子社員を、兵隊として駆り出された企業が、その穴埋めにとった施策でした。どれほどの人がいたことでしょうか。その未払い賃金についても訴訟が、未だに起こされています。炭鉱や鉱山などで、彼らは日夜働かされて、敗戦でうやむやになってしまったのです。

その山東省の田舎村から、戦争中に強制連行された方のことを、茨木のり子が、「りゅうりぇんれんの物語」という長編の詩で詠んでいます。

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「りゅうりぇんれん物語」

劉連仁(リュウリェンレン) 中国のひと
くやみごとがあって
知りあいの家に赴くところを
日本軍に攫われた
山東省の草泊(ツァオポ)という村で
昭和十九年 九月 或る朝のこと

りゅうりぇんれんが攫われた
六尺もある偉丈夫が
鍬を持たせたらこのあたり一番の百姓が
為すすべもなく攫われた
山東省の男どもは苛酷に使っても持ちがいい
このあたり一帯が
「華人労務者移入方針」のための
日本軍の狩場であることなどはつゆ知らずに

手あたりしだい ばったでも掴まえるように
道々とらえ 数珠につなぎ
高密(カオミー)県に着く頃は八十人を越していた
顔みしりの百姓が何人もいて
手に縄をかけられたまま
沈んだ顔を寄せ合っている
「飛行場を作るために連れて行くっていうが」
「一、二ヶ月すれば帰すっていうが」
「青島だとさ」
「青島?」
「信じられない」
「信じられるものか」
不信の声は波紋のようにひろがり
連れて行かれたまま帰ってこなかった人間の噂が
ようやく繁くなった虫の声にまぎれ
ひそひそと語られる

りゅうりぇんれんは胸が痛い
結婚したての若い妻 初々しい前髪の妻は
七ヶ月の身重だ
趙玉蘭(チャオユイラン) お前に知らせる方法はないか
たとえ一月 二月でも 俺が居なかったら
家の畑はどうなるんだ
母とまだ幼い五人の兄弟は
麦を蒔き残した一反二畝の畑の仕末は

通る村 通る町
戸をとざし 門をしめ 死に絶えたよう
いくつもの村 いくつもの町 猫の仔一匹見当らぬ
戸の間から覗き見 慄えている者たち
俺の顔を見覚えていたら伝えてくれろ
罠にかかって連れて行かれたと
妻の趙玉蘭に 趙玉蘭に

賄賂を持って請け出しにくる女がいる
趙玉蘭はこない
見張りの傀儡軍に幾ばくかを握らせて
息子を請け出してゆく老婆がいる
趙玉蘭はまだこない
追いついてはみたものの 請け出す金の工面がつかず
遠ざかる夫を凝視し続ける妻もいた
血のいろをして沈む陽
石像のように立ちつくす女の視野のなかを
八百人の男たちは消えた
一行八百人の男たちは
青島の大港埠頭へと追いたてられていった
暗い暗い貨物船の底
りゅうりぇんれんは黒の綿入れを脱がされて
軍服を着せられた
銃剣つきの監視のもとで指紋をとられ
それは労工協会で働く契約を結んだということ
その裏は終身奴隷
そうして門司に着いた時の身分は捕虜だった

六日の船旅
たった一つの蒸パンも涙で食べられはしなかった
あの朝・・・・・・
さつまいもをひょいとつまんで
道々喰いながら歩いて行ったが
もしもゆっくり家で朝めしを喰ってから
出かけたならば 悪魔をやりすごすことができたろうか
いや 妻が縫ってくれた黒の綿入れ
それにはまだ衿がついていなかった

俺はいやだと言ったんだ
あいつは寒いから着ていけと言う
あの他愛ない諍いがもう少し長びいていたら
掴らないで済んだろうか   めいふぁーず
運の悪い男だ俺も・・・・・・
舟底の石炭の山によりかかり
八百人の男たち家畜のように玄海灘を越えた

門司からは二百人の男たち 更に選ばれ
二日も汽車に乗せられた
それから更に四時間の船旅
着いたところはハコダテという町
ダテハコというのであったかな?
日本の町のひとびとも襤褸をまきつけ
からだより大きな荷物を背負い
蟻のように首をのばした難民の群れ 群れ
りゅうりぇんれんらは更にひどい亡者だった
鉄道に働くひとびとは異様な群像を度々見た
そしてかれらに名をつけた「死の部隊」と
死の部隊は更に一日を北へ――
この世の終りのように陰気くさい
雨竜郡の炭坑へと追いたてられていった

飛行場が聞いてあきれる
十月末には雪が降り樹木が裂ける厳寒のなか
かれらは裸で入坑する
九人がかりで一日に五十車分を掘るノルマ
棒クイ 鉄棒 ツルハシ シャベル
殴られて殴られて 傷口に入った炭塵は
刺青のように体を彩り爛れていった
<カレラニ親切心 或イハ愛撫ノ必要ナシ 入浴ノ設備必要ナシ 宿舎ハ坐シテ頭上ニ 二、三アレバ良シトス>
逃亡につぐ逃亡が始った
雪の上の足跡を辿り連れもどされての
烈しい士置
雪の上の足跡を辿り 連れもどされての
目を掩うリンチ
仲間が生きながら殴り殺されてゆくのを
じっと見ているしかない無能さに
りゅうりぇんれんは何度震えだしたことだろう

日本の管理者は言った
「日本は島国である 四面は海に囲まれておる
 逃げようったって逃げきれるものか!」
さっと拡げられた北海道の地図は
凧のような形をしていた
まわりは空か海かともかく青い色が犇めいている
かれらは信じない
日本は大陸の地続きだ
朝鮮の先っぽにくっついている半島だ
いや そうでない そうでない
奉天 吉林 黒竜江の三省と地続きの国だ
西北へ 西北へと歩けば
故郷にいつかは必ず達する
おお おおらかな知識よ! 幸あれ!

空気にかぐわしさがまじり
やがて
花も樹々もいっせいにひらく北海道の夏
逃げるのなら今だ! 雪もきれいに消えている
りゅうりぇんれんは誰にも計画を話さなかった
青島で全員暴動を起す計画も洩れてしまった
炭坑へ来てからも何度も洩れた
煉瓦をしっかり抱きしめて
夜明けの合図を待っていたこともあったのに・・・・・・
りゅうれんれんは一人で逃げた
どこから
便所の汲取口から
汚物にまみれて這い出した
このときほど日本を烈しく憎んだことがあったろうか

小川でからだを洗っていると
闇のなかで水音と 中国語の声がする
やはりその日逃げ出した四人の男たちだった
五人は奇遇を喜びあった
西北へ歩こう! 西北へ!
忌まわしい炭坑の視界から見えなくなるところまで
今夜のうちに
一日の労働で疲れた躰を鞭うって
五人は急いだ

山また山 峰また峰
野ニラをつまみ 山白菜をたべ 毒茸にのたうち
けものと野鳥の声に脅え
猟師もこない奥深くへと移動した
何ヶ月目かに里に下りた 飢えのあまりに
二人は見つけられ 引きたてられていった
羽幌という町の近くで
らんらんと輝く太陽のした
戦さは数日前に終っていることも知らないで
三人は山へ向って逃げた
脅えきった野兎のように
山の上から見下した畑は一面の白い花
じゃがいもの白い花
りゅうりぇんれんは知らなかった じゃがいものこと
茎をたべた 葉をたべた
喰えたもんじゃない だが待てよ
まずいものを堂々とこんなに沢山作るわけがない
そろそろと土を探ると
幾つもの瘤がつらなっている
土を払って齧る うまさが口一杯にひろがった
じゃがいもは彼らの主食になった
昼は眠り 夜は畑を這う日が続く

「おい 聞えたかい? いまのは汽笛だ!
 いいぞ! 鉄道に沿っていけば朝鮮までゆける」
なぜ気づかなかったのだろう
海に沿って北にのびる鉄道線を
三人は胸はずませて辿っていった
夜の海辺を昆布を拾いながら 齧りながら
何日もかかって 辿りついたところは
鉄道の終点
それはなんと寂しい風景だったろう
鉄道の終点 荒涼たる海がひろがっているばかりだ
稚内という字も読めなかった
ひとに聞くこともできなかった
大粒の星を仰ぎみて 三人は悟った
日本はどうやら島であるらしい
故郷からは更に遠のいたのかも確からしい

三人の男たちは
黙々と冬眠の準備を始めた
短い夏と秋は終っていた ふぶきはじめた空
熊の親戚みてえなつらしてこの冬はやりすごそう
捨てられたスコップを探してきて
穴を掘りぬき堀りぬいてゆく
昆布と馬鈴薯と数の子を貯えられるだけ貯えて
三つの躰を閉じこめた 雪穴のなかに
三人の男たちはふるさとを語る
不幸なふるさとを語る
不幸なふるさとを語ってやまない
石臼の高粱の粉は誰が挽いたろう
あの朝の庭にあった石臼の粉は
母はこしらえたろうか ことしも粟餅を
俺は目に浮ぶ なつめの林
まぼろしの棗林
或る日 日本軍が煙をたててやってきて
伐り倒してしまった二千五百本
いまは切株だけさ 李家荘の部落
じいさんたちが手塩にかけて三十年
毎年街に売りに出た一二〇トンの棗の実
俺は見た
理由(わけ)もなく押切器で殺された男の胴体
生き埋めにされる前 一本の煙草をうまそうに吸った
一人の男の横顔 まだ若く蒼かった・・・・・・
俺は見た 女の首
犯されるのを拒んだ女の首は
切落されて臀部から生えていた
ひきずり出された胎児もいた
趙玉連(チャオユイラン)おまえにもしものことがあったなら
いやな予感 重なりあう映像をふり払い ふり払い
りゅうりぇんれんは膝をかかえた
長い膝をかかえてうつらうつら
三人の男は冬を耐えた 半年あまりの冬を

眩しい太陽を恐れ 痺れきった足をさすり
歩く稽古を始めたとき
ふたたび六月の空 六月の風あまく
三人は網走の近くまでを歩き
雄阿寒 雌阿寒の山々を越えた
出たところはまたしても海!
釧路に近い海だった
三人は呆れて立つ
日本が島なのはほんとうに本当らしい
それなら海を試す以外にどんな方法がある
風が西北へ西北へと吹く夜
三人は一艘の小船を盗んだ
船は飛ぶように進んだが なんということだろう
吹き寄せられたのは同じ浜べ
漕ぎ出した波打際に着いていた
櫓は流れ 積んだ干物は腐っていた
猟師に手真似で頼んでみよう
魚取りの親爺よ 俺たちはひどい目にあっている
送ってくれるわけにはいかないか
朝鮮まででいい 同じ下積みの仲間じゃないか
助けてくれろ 恩にきる
無謀なパントマイムは失敗に終った
老漁夫は無言だったが間もなく返事は返ってきた
大がかりな山狩りとなって
追われ追われて二人の仲間は掴まった
たった一人になってしまった りゅうりぇんれん

りゅうりぇんれんは烈しく泣いた
二人は殺されたに違いない すべての道は閉ざされた
「待ってくれ おれも行く!」
腰の荒縄を木にかけて 全身の重みを輪にかけた
痛かったのは腰だ!
六尺の躰を支えきれず ひよわな縄は脆くも切れた
ぶったまげて きょとんとして
それからめちゃくちゃに下痢をして
数の子が形のまんま現れた
「ばかやろう!」そのつもりなら生きてやる
生きて 生きて 生きのびてみせらあな!
その時だ しっかり肝っ玉ァ坐ったのは

彼の上にそれから十二年の歳月が流れていった
りゅうりぇんれんにとっての生活は
穴に入り 穴から出ることでしかなかった
深い雪におしつぶされず 湧水に悩まされず
冬を過す眠りの穴を
幾冬かのにがい経験のはてに ようやく学び
穴は注意深く年ごとに移動した
ある秋のこと
栗ひろいにやってきた日本の女にばったり会った
女は鋭く一声叫び
折角の栗をまきちらし まきちらし
這うように逃げた
化けものに出会ったような逃げかただ
りゅうりぇんれんは小川に下りて澄んだ水を覗きこんだ
のび放題の乱れた髪
畑の小屋から失敬した女の着物を纏いつけ
妖怪めいて ゆらいでいる
これが自分の姿か?
趙玉蘭 おまえが惚れて嫁いできた
りゅうりぇんれんの姿がこれだ
自嘲といまいましさに火照った顔を
秋の川の流れに浸し
虎のように乱暴に揺る
俺は潔癖なほど綺麗ずきで垢づくことは好まなかった
たとえ長い逃避行 人の暮しと縁がなくても
少しは身だしなみをしなくちゃな!
鎌のかけらを探し出し
りゅうりぇんれんはひっそりと髭を剃った
髪は長い弁髪にまとめ ブヨを払うことをも兼ねしめた

風がアカシヤの匂いを運んでくる
或る夏のこと
林を縫う小さなせせらぎに とっぷり躰を浸し
ああ謝々(シェシェ)   おてんとうさまよ
日本の山野を逃げて逃げて逃げ廻っている俺にも
こんな蓮の花のような美しい一日を
ぽっかり恵んで下されたんだね
木洩れ陽を仰ぎながら
水浴の飛沫をはねとばしているとき
不意に一人の子供が樹々のあいだから
ちょろりと零れた 栗鼠のように
「男のくせに なんしてお下げの髪?」
「ホ   お前 いくつだ」
日本語と中国語は交叉せず いたずらに飛び交うばかり
えらくケロッとした餓鬼だな
開拓村の子供だろうか
俺の子供も生れていればこれ位のかわいい小孫(ショウハイ)
開拓村の小屋からいろんなものを盗んだが
俺は子供のものだけは取らなかった
やわらかい布団は目が眩むほど欲しかったが
赤ん坊の夜具だったからそいつばかりは
手をつけなかったぜ
言葉は通じないまま
幾つかの問いと答えは受けとられぬまま
古く親しい伯父 甥のように
二人は水をはねちらした
りゅうりぇんれんはやっと気づく
いけねえ 子供は禁物 子供の口からすべてはひろがる
俺としたことがなんたる不覚!
それにしても不思議な子供だ
すっぱだかのまま アッという間に木立に消えた

二匹の狼に会った
熊にも会った 兎や雉とも視線があった
かれらは少しも危害を加えず
彼もまた獣を殺すにしのびなかった
りゅうりぇんれんの胃は僧のように清らかになった
恐いのは人間だ!
見るともなしに山の上から里の推移を眺めて暮した
山に入って二年あまり
畑で働いていたのは 女 女 女ばかり
それから少しづつ男もまじった
畑の小屋に置かれるものも豊かになってゆくようだった
米とマッチを見つけたときの喜びは
ガキの頃の正月気分
鉄瓶もろとも攫ってきて
山のなかで細い細い炊煙をあげた
煮たものを食べるのは何年ふりだったろう
じゃがいもは茹でられてこの世のものともおもえぬうまさ

それから更に何年かたち
皮の外套を手に入れた
ビニールの布も手に入れた
だが一年ごとに躰の方は弱ってゆく
十年たつと月日は数えられなくなり
家族の顔もおぼろになった
妻もおそらく他家へ嫁いだことだろう
たとえ生きていてくれても・・・・・・
どの年だったか
この土地もひどい旱魃に見舞われて
作物という作物は首を垂れ
田畑に立って顔を覆う農夫の姿が望まれた
遠く 遠く
りゅうりぇんれんはいい気味だとは思わなかった
日本の農民も苦しいのだ
俺も生れながらの百姓だが
節くれだって衰えたこの手に
鍬を握れる日がくるだろうか
黒く湿った土の上に ぱらぱらと
腰をひねって種を蒔く
そんな日が何時かまたやってくるのだろうか

長い冬眠があけ
春 穴から出るときは
二日も練習すれば歩くことができたものだ
年とともに 歩くための日は
多く多く費され
二ヶ月もかけなければ歩けないほどに
足腰は痛めつけられていった
それはだんだんひどくなり
秋までかかって ようやく歩けるようになった頃
北海道の早い冬はもう
粉雪をちらちら舞わせ
また穴の中へと りゅうりぇんれんを追いたてた
獣のように生き
記憶と思考の世界からは絶縁された
獣のように生き
日本が海のなかの島であることも知らなかった
だが りゅうりぇんれん
あなたにはみずからを生かしめる智慧があった

惨憺たる月日を縫い
あなたの国の河のように悠々と流れた
一つの生命
その智慧もからだも
しかし限度にきたようにみえた
厳しい或る冬の朝のこと
あなたはとうとう発見された
札幌に近い当別の山で
日本人の猟師によって
凍傷にまみれた六尺ゆたかな見事な男
一尺半のお下げ髪の 言葉の通じない変な男
絶望的な表情を滲ませて
「イダイ イダイ」を連発する男
痛い それは
りゅうりぇんれんの覚えていた たった一ツの日本語だった

「中国人らしい」
スキーを穿いた警官は俄に遠慮がちになった
りゅうりぇんれんは訝しむ
何故ぶん殴らないのだろう
何故昔のように引きずっていかないのだろう
麓の雑貨屋で赤い林檎と煙草をくれた
火にもあたらせてくれる「不明日(ブーミンパイ)」「不明日(ブーミンパイ)」
ワガラナイヨなにもかも
背広を着て中国語をしゃべる男が
沢山まわりを取りまいた
背広を着た同朋なんて!
りゅうりぇんれんは認めない
祖国が勝ったことをも認めない
困りぬいた華僑のひとりが言った
「旅館の者を呼んであなたの食べたいものを
注文してごらんなさい
日本人はもう中国人をいじめることは
絶対にできないのだ」
りゅうりぇんれんは熱いうどんを注文した
頬の赤い女中がうやうやしく捧げもってきた
りゅうりぇんれんの固い心が
そのとき初めてやっとほぐれた
ひどい痛めつけられかただ
同朋のひとびとはまぶたを熱くし
湯気のなかの素朴な男を眺めやった

八路軍が天下を取って
俺たちにも住みいい国が出来たらしいこと
少しずつ 少しずつ 呑込んでゆく頃
りゅうりぇんれんにはスパイの嫌疑がかかっていた
いつ来たのか
どこで働いていたのか
北海道の山々をどのように辿ったか
すべては朦朧と 答を出せなかったりゅうりぇんれん
札幌市役所は言った
「道庁の指示がないと何も手をつけるわけにはいかない」
北海道庁は言った
「政府の指示がなければ何も手をつけるわけにはいかない」
札幌警察署は言った
「我々には予算がない 政府の処置すべき問題だ」
政府は この国の代表は
「不法入国者」「不法残留者」としてかたづけようとした

心ある日本人と中国人の手によって
りゅうりぇんれんの記録調査はすみやかに行われた
拉致使役された中国人の数は十万人
それらの名簿を辿り 早く彼の身分を証すことだ
スパイの嫌疑すらかけられている彼のために
尨大な資料から針を見つけ出すような
日に夜をつぐ仕事が始った
「行方不明」
「内地残留」
「事故死亡」
たった一言でかたづけられている

中国名の列 列 列
不屈な生命力をもって生き抜いた
りゅうりぇんれんの名が或る日
くっきりと炙出しのように浮んできた
「劉連仁 山東(シャントン)省諸(チュウチョン)城県第七区紫溝(チャイコウ)の人
 昭和十九年九月 北海道明治鉱業会社
 昭和鉱業所で労働に従事
 昭和二十年無断退去 現在なお内地残留」

昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労務者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ

ぬらりくらりとした政府
言いぬけばかりを考える官僚のくらげども
そして贖罪と友好の意識に燃えた
名もないひとびと
際だつ層の渦まきのなかで
りゅうりぇんれんは悟っていった
おいらが何の役にもたたないうちに
中国はすばらしい変貌を遂げていた
おいらが今 日本で見聞きし怒るものは
かつのての祖国にも在ったもの
おいらの国では歴史のなかに畳みこまれてしまったものが
この国じゃ
これから闘われるものとして
渦まいているんだな

東京で受けた一番すばらしい贈物
それは妻の趙玉蘭(チャオユイラン)と息子とが
生きているという知らせ
しかも妻は東洋風に二夫にまみえず
りゅうりぇんれんだけを抱きしめて生きていてくれた
息子は十四
何時の日か父にあい会うことのあるようにと
尋児(シュンアル)と名づけられていた

尋児(シュンアル) 尋児(シュンアル)
りゅうりぇんれんは誰よりも息子に会いたかった
三十三年四月
白山丸は一路故国に向って進んだ
かつては家畜のように船倉に積まれてきた海を
帰りは特別二等船室の客となって
波を踏んで帰る
飛ぶように
波を踏んで帰る

「拉致被害」の問題の背後に、この「詩」の様に、加害者としての「日本」があった事も、私たちは歴史の中に学び返しておかなければなりません。過去に眼をつぶったり、『仕方がなかった!』」と、父や祖父ヤ曽祖父のの時代を弁護してはいけません。大切なのは、「事実」を、「事実」として歴史的に認識する事です。この方のご子息の「尋児」は、私ち同じ年頃です。どうされておられるでしょうか。

(山東省の主要生産穀物の「玉米yumi/もろこし」、「高粱(こうりゃん)」です)
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咲きてあり

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春雨で煙る中、北側のベランダの棚の上で、「水仙(雨中花って言ってもいいでしょうか)」が、咲き誇っています。『これ何の匂いだろう?』、とクンクンしていたら、水仙の花からでした。家の中の小分けした球根に花をつけ、ほのかな香りを放って、気を和らがせてくれています。

今頃、ポルトガルやスペイン、北アフリカにアルジェリアなどの地中海側の海岸でも、中国の長江の河岸でも、日本海側の海岸でも、同じ様に花を開き、同じ香りを放って、咲いている事でしょう。イギリスでは「国花」になっていて、海外に植民地を作り上げた大英帝国とは、その清楚さと、なにか似合わない様に感じてしまうのですが。

とても好い香りを放っていますから、《自己主張》を忘れないところが、水仙っていいですね。

水仙や白き障子のとも移り 芭蕉
水仙やうき世小路の玉すだれ 暁台
水仙や根岸に住んで薄氷 漱石

多くの俳人に愛されて詠まれた花なのです。そこで二句、

水仙や出雲海岸(ははのふるさと)咲きてあり 準
春雨に故国思いし水仙香 準

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漢字

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漢字文化の中で教育を受けて、そして、ここ漢字誕生の地、中国で、私たちは生活しております。今では、こちらの教育も文書も、「簡体字」で行われ、表記されていますが、みなさんは、台湾や香港、そして日本で使う「繁体字」も、よく知っておいでです。これが読めないと、「古典」を学ぶことができないからです。

一昨日、生まれた知人の赤ちゃんの名前を聞いて、漢字を書いてもらったのです。「忆yi」ちゃんでした。それは繁体字の「憶」だと分かったのです。日本でつけられる名前は、ほとんど名前によって男女別が分かるのですが、中国では、その区別が、あまりなされないで決められている様に思われます。それでも女子には、「美麗」の「美mei」や「丽li(麗)」が、よく使われている様です。その赤ちゃんの「忆」とは、「(懐かしく過去や人や故郷や出来事を)思う事」との意味で、英語ですと"remember, reflect upon; memory"だそうです。記憶、憶測、追憶などの語句があります。

こちらで新生児につける名前は、最近、漢字二字ではなく、一字が多い様な気がしています。ご両親は、自分の子への名前を決めるのに、あれもこれもとの思いの中にあって、みなさんが最前を選んで決めるのでしょう。私たちには四人の子どもがいて、四人とも独断で(もちろん家内の同意を得ましたが)、私が命名してしまいました。それらしく、みんな育ってくれたのです。

この「漢字」は、表語文字(象形や表意や会意など)によって、古代中国で作られたものですが、 偏(へん) · 旁(つくり) · 冠((かんむり) · 脚(あし))· 構(かまえ) · 垂(たれ)· 繞(にょう)などによって構成されています。「木偏」の漢字の多さには驚かされてしまい、実に興味が尽きません。目で見た物や出来事を、直感的に感じ、絵文字で表した古代人の秀でた感覚に驚かされてしまいます。

「木偏」には、春には「椿(つばき)」、夏には「榎(えのき)」、秋には「楸(ひさぎ/ 画像にある花を咲かせ"ササゲ<大角豆>"に似てるので"キササゲ"とも言うそうです)」 、冬には「柊(ひいらぎ)」と、季節季節の「木」があるのです。私たちが子育てを下町の家の近くに、「榎」という地名とバス停がありました。地名の様に、そこには大きな「榎」が茂っていたのを思い出します。

ここは、私の過ごした日本とは違う季節感のする中国の南方ですが、「春節」や「桃の節句」が過ぎて、三月になった今、すっかり春の佇まいがしてまいりました。今日は「春雨」で、濡れるには、ちょっと寒い感じもしております。「魚偏」に「春」の旁のついた「鰆」は、「さわら(狭<さ>)(腹<はら>)」と読みます。成長に応じて名前が変わる「出世魚(しゅっせうお)」で、結婚式などのお祝いの席の膳に供される様です。中国には、見目麗しい女性を、「媋chun」と表す文字もあります。「漢字」は、実に面白いですね。

(楸の木に咲く花です)
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初恋

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島崎藤村の「若菜集」に、「初恋」があります。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

女性を意識し始めたのは、『何時頃だろうか?』と思い巡らしてみました。男ばかりの兄弟で、従姉妹もいなかった私にとって、兄の同級生で、「お姉さん」の様に接してくれた方が、その方でしょうか。耳が痛くなった私を、街の北の方にあった耳鼻科に、このお姉さんが、母に代わって連れて行ってくれたのです。自転車の荷台に、またがらせて乗せてくれ、お姉さんの運転ででした。

このお姉さんの腰に手を回して、しっかりとつかまっていたのです。自分の手で、<女性の体>に触れた最初の経験で、それを鮮明に覚えているのです。耳が痛いのに、その<痛み>を忘れさせてしまうほど、"いい気持ち" を感じていた、ちょっとオマセな小一の私でした。この歳になっても、あの時の感情と手の感触を思い出させてくれる、淡くて幼く、ちょっと怪しい《恋心》です。と言うか、お姉さんを求める《願望》だったのでしょうか。

その後、《ジェンダー(性意識への願いのことでしょうか)》の時期に入って、女性への関心は、性的なものに変化して行くのですが。藤村が詠む、「恋の盃」と言うには幼な過ぎる時から、心理的にも社会的にも成長して思春期に突入するのでしょう。中学の時に、女子部の高三の先輩に(中高と別学でしたが、バスケットボール部は大会参戦の遠征などで交流があったのです)、声を掛けられて、"いい気持ち"になって、憧れたのは、まさに思春期に突入の頃、「人こひ初めしはじめなり」でした。

大人になるのに、《失うもの》が沢山ありますが、《得るもの》もまた多くあるわけです。娘から時々、孫たちの写真が送られてきますが、もう子どもではなくなりつつある様です。そろそろ<思春期>に入るのでしょうか。正常に突入して、大人への階段を正しく昇って欲しいものだと願わされております。

(弘前市のりんご園の林檎の花です)
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開花

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この花は、「ノハラムラサキ(野原紫)」という、「勿忘草(ワスレナグサ)」の一種だそうです。広島県呉市の郊外に咲いていた花だと、週に何度か配信してくださる"里山を歩こう"にありました。

この季節になると、子どもたちが、『春を探しに行ってきまーす!」と出掛けて行った日々を思い出します。周りが山々の盆地の中に住んで、彼らが大きくなりましたので、そこは一歩街を外れると、農村地帯で、自然は溢れるほどでした。

白雪の山から吹き降ろす寒風が、身を縮めさせていた冬が、陽の力が強くなるに連れて追いやられて、冬は敗走していきました。一日一日、一歩一歩と「春」がやって来る様な街でしたから、子どもたちは、春を見つけに出掛けたのです。野花を摘んでは、彼らは嬉々として帰って来ました。
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先週遊びに来られたご婦人が、水仙の苗を持って来てくれたのですが、昨日今日と夏の様な気温、28℃もあって、北側のベランダに置いた水仙が開いてくれました。垣根の凌霄花も、河岸の木蓮も咲き誇って、百花繚乱の春の始まりです。創造の美、傑作に目を見晴らせている日曜日の午後です。
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