「精力善用」

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 「武芸百般」とか「武芸十八般」とか言われて、古来、日本には多くの「武道」がありました。平時、武士は日夜鍛錬して、一朝事あるときに、主君のために戦う備えとして、「武芸」に励んでいました。つまり、究極の目的は、「戦場」での武闘に勝つことでした。人を打ち倒し、立ち上がれないほどに打撃を与え、殺そうとしてきたものです。それは、「死ぬか生きるか」の戦いでした。その中に「柔術」もありました。明治になってから、嘉納治五郎が「柔術」を改良して、「講道館柔道」を始めており、一般的には「柔道」と呼ばれています。それを「近代スポーツ」にするために、嘉納治五郎は、「柔術」の中にあった「禁じ手(打ち身、拳を急所に当てる技などです)」の使用を禁じる「ルール作り」をしたのです。

 この「柔道」のほかに、「剣道」、「弓道」、「合気道」、「空手」、「テコンドー」、「「カンフー」などが、「格闘技」として、一括りでいわれているものがあります。この試合で対戦するときに、『ヤア―!』、『トゥー!』、『ソリャッ!』などの「掛け声」が発せられます。それを聞くと、「戦場」で戦った戦国武将などが、死闘を戦わせた光景を思い起こさせるのです。私は、「松濤館流空手」というのを少しかじったことがありました。ボール競技を中・高でしていましたが、社会人になってから、運動不足の解消のためにでした。「柔道」は、上の兄と弟がしていましたが、私はしたことがなかったのです。

 ただ、「柔道」の開祖である、この嘉納治五郎という方は、実に高潔な人格者であったと聞いております。「柔術家」、「柔道家」だけではなく、東京第一中学校(現・都立日比谷高校)、学習院、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務めた方で、「教育者」でした。また貴族院議員、国際オリンピック委員にも推挙され、その務めを果たされています。この方は、「弘文(宏文)学院」を開き、中国人留学生の世話をされており、中国文学者の魯迅も、嘉納治五郎に師事した一人でした。

 『なぜ柔道をしなかったのか?』には、単純な理由が私にはありました。「がに股(蟹股,、O脚のことです)」になりたくなかったからなのです。まあ柔道をしても「がに股」でない人も多くおいでですが、子どもころにそう思って決心したので、結局はしなかったのです。でも、「嘉納治五郎の精神」には、傾倒すべきものを感じてきております。

 嘉納治五郎は、子どの頃から虚弱体質だったので、体を強くするために、東京大学に入学した頃に、「柔術」を習い始めました。「武芸」の時代ではなくなった明治の御代に、近代的な考えをもって「柔道」を始めたのです。この嘉納治五郎の「講道館柔道」は、「精力善用」、「自他共栄」を精神としていました。この方が亡くなる前にお弟子たちに、『私を棺に収めるときに、白帯を締めてください!』と頼んという逸話を聞いたことがあります。「白帯」というのは、無段位者のことで、「初心者」が、腰に締めたものでしたから、この方は、「紅(赤)帯」を占める最高段位を得ていたのですが、「生涯白帯」で生きられたのです。きっと、『私はまだ学び始めたばかりの者に過ぎません!』という生き方をされた方だったことになります。21世紀のスポーツ選手、いえ日本人は、こういった精神や生き方に学ばなければならないのかも知れません。

(写真は、講道館柔道を始めた「嘉納治五郎」の二十代のものです)

『やり直せるなら!』

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 「羨望」を、goo辞書で調べますと、『[名](スル)うらやむこと。「―の的となる」「他人の栄達を―する」 』とありました。では、「羨む」とは何か、同じく調べてみますと、『[動マ五(四)]《「心(うら)病(や)む」の意》1 他の人が恵まれていたり、自分よりもすぐれていたりするのを見て、自分もそうありたいと思う。「人も―・む仲」2 他人のすぐれた才能や恵まれた状態を不満に思う。「同輩の出世を―・む」』とありました。否定的な意味だけではないようです。

 自分が、「羨ましく思っていること」を、思いの中に探ってみますと、いくつかあります。たとえば、友人や同級生たちが、国立大学に進学したり、上場企業に就職したり、東京の山の手に家を持っていたり、馬主であったりすることは、羨ましくは感じません。それが一人ひとりの前に開かれてきた祝福の扉の向こうにあることだから、お祝いしてあげたい気持だけです。また、「ノーベル賞」を昨年とられた山中伸弥教授も、『凄い!』と思いましたが、羨ましいとは感じていません。彼が一生懸命に研究してきた「IPS」が、最大限に評価され、今後に期待されたのでありますから、賞賛すべきことです。

 では何かと言いますと、一昨日、弟からのメールにあった、『12年間皆勤した卒業生がいた!』と言うことなのです。それは、誰にもできそうではありません。「身体髪膚」を健康なご両親から、『これを受け』、頗る健康であったということになります。彼の努力や決心などの意志の力や、両親や祖父母からの激励や協力があったことも、そうできた理由に違いありません。先生たちからの激励だってあったことでしょう。こういった卒業生が、時おりいらっしゃるということを聞くにつけ、跳んで行って、褒めてあげたい気持ちになり、『ほんとうに羨ましいです!』と言いたいのです。

 なぜかと言いますと、私は小学校入学まえに、肺炎にかかって町の国立病院に入院し、退院後も、発熱や咳に悩まされ、自宅療養をしていましたので、「入学式」に出席していないのです。学校教育の最初から、もうつまずいてしまったのです。小学校1年から3年の低学年は、三分の一ほどの出席しかしていないのです。父や母は、「肺炎」と言っていますが、入院していた大きな病院は、青白い顔の痩せたお兄さんたちが、同じ病室や隣の病室にいましたので、今思いますと、どうも「肺結核」だったのではないかと憶測してみたりしています。それでも、そこは「隔離病棟」ではなかったので、「結核」ではなったのかも知れません。確かめることもなく、父も母も召されてしまいましたので、きく術(すべ)がありませんが。

 小学校の高学年になっても、中学校も高校も、よく休みました。大学の頃は、授業を《サボ》っては、喫茶店や映画館やパチンコ屋などにい、アルバイトに精出していましたから、実に意気地のない、意志薄弱男だったのです。『もし、もう一度、やり直せるなら!』、学校教育を受け直したいのです。あらゆる努力をし、お尻を叩き、這ってでも出席し、「皆勤賞」を取ろうと思うのです。『覆水盆帰らず!』と言いますから、小学校1年に戻ることはかないませんが、それでも、『もう一度、スタートからやり直したいな!』と、心から願うのです。「皆勤」したのは、どんな学生だったのでしょうか、会ってみたい気持が、今朝はしております。

教師冥利

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 いつの間にか、日本の学校では、「仰げば尊し」が「卒業式」で歌われなくなっているようです。この歌は、作詞者、作曲者が定かではないようですが、忘れられない歌の一つであります。1887年(明治17年)に文部省歌となり、多くの学校で学校で歌われてきました。

     1.仰げば 尊し 我が師の恩
       教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
       思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
       今こそ 別れめ いざさらば
     2.互(たがい)に睦し 日ごろの恩
       別るる後(のち)にも やよ 忘るな
       身を立て 名をあげ やよ 励めよ
       今こそ 別れめ いざさらば
     3.朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓
       蛍の灯火 積む白雪
       忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
       今こそ 別れめ いざさらば

 昨日、私の弟からメールがありました。『・・・さて、昨日3/1(金)、本年も例年のように高等学校3年生の卒業式を迎えました。幼稚園からの15年間の生徒も数名おり、12年間の皆勤者も出ました。すごいことです。その後、保護者主催の有名ホテルでの卒業パーテーでした。今年より、来賓としての出席ですが、何人もの保護者・卒業生から個々にお礼のあいさつがあり、残念ながら食事にありつけませんでした(一杯のジュースのみでした)が、教師冥利に尽きるとはこのことでしょう。純粋な高校生、羽ばたきの時と別れを惜しむ涙涙の会でした・・・』と記されてあったのです。

 彼は母校に教師として勤務し、昨年三月をもって、管理職で定年退職しております。15歳で高校に入学していますから、人生の殆どの時を、同じ学び舎で過ごしてきていることになります。幼稚園の園児も教えたことがあり、多くの卒業生を送り出してきたのです。惜しまれて退職したのですが、退職後も、学校法人の理事、週3日、嘱託で、若い教員の相談やのクラブの世話、スキー教室の同行などをし続けているのです。《教師冥利につきる》という感慨は、素敵なものでしょうね。きっと卒業生の心の奥には、「我が師への恩」があればこそ、親も子も、恩師とともに涙を流しつつ、《感恩の情》にむせぶのではないでしょうか。実に羨ましいものです。

(写真は、日本最古の学問所建築(仙台藩)の「有備館」です)

彌生三月

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 三月を「弥生」と言います。これを語源由来辞典でみますと、『「弥生(いやおい」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」、「ますます」などの意味。「生(おい)」は、「生い茂る』と使われるように、草木の芽吹くことを意味する。草木がだんだんに芽吹く月であることから「弥生」となった。』とあります。

 松尾芭蕉が、「奥の細道」の紀行文を記していますが、その「旅立」の書き始めに、

   弥生も末の七日、明ぼのゝ空 朧々(ろうろう)として、月は在明
 (ありあけ)にて光おさまれる物から、不二の峰幽か(かすか)にみえて、
  上野・谷中(やなか)の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
   むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゅと云う所
  にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに
  離別の泪(なみだ)をそゝぐ。
   
と記しています。これは、中学の国語の時間に暗記させられたものですが、何となく覚えているというのは、「三つ子の魂百までも」なのでしょうか。「日本歴史」で学んだ時代区分の中に、「縄文時代」の次ぎにくるのが、「弥生時代」です。その時代の住人は、『われわれは弥生時代人であって・・・』と言ったわけではないのです。1884年(明治17年」に、東京の文京区で、土器が発見され、その土器を「弥生土器」と命名し、その土器が使われていた時代を「弥生時代(BC3世紀~AD3世紀ほど)」としたわけです。発見された町が「弥生町」だったからです。もし、「本郷町」で発見されたなら、「本郷時代」になっていたことになりますね。
 
 三月は、私の両親の生まれ月ですから、特別な感慨があります。自分が、「師走」の真冬に生まれていますから、暖かな春に生まれた父や母が羨ましく感じられたのです。これも、生まれる者の願いや、生んでくれた両親の思いでもないのですから、ありのままで受け入れる以外に仕方が無いことになります。父や母は、男の子四人に、「端午の節句(五月五日)」に、鯉幟(こいのぼり)を上げてくれていた時代がありましたが、女の子がいなかったので、「桃の節句(三月三日)」を祝うことはありませんでした。私は、偏屈オヤジでしたので、男二人、女二人の子どもたちのために、「鯉のぼり」を上げたり、「雛壇」を飾ったりしませんでした。それでも四人の子どもたちの無事の成長、人や◯に愛されて生きるようにと、家内と二人で手を合わせて育ててきました。
 
 「春立(たて)る霞みの空に、白河の関こえんと・・・・」と芭蕉が、「序章」に記していますが、「白河の関」の以北は、3.11以降、芭蕉の時代には考えられない状況下にあります。故郷を壊されたみなさんの望郷の思いをヒシと感じます。良き思い出の中で、素晴らしい季節、「弥生」をお過ごしください。

(写真は、春の一つの象徴の野辺の「つくしんぼう」です)

「四殺」

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 愛読している「ブログ」に、漢(後漢)の崔子玉の有名な座右の銘、「四殺」が載っていました。

   嗜欲を以て身を殺すなかれ。
   貨財を以て身を殺すなかれ。
   政事を以て民を殺すなかれ。
   学術を以て天下を殺すなかれ。

 この崔子玉(AD77~142年)と言う人は、後漢の時代の人で、河北に生まれています。洛陽に学んだ学者で政治家だったようです。詳しいことは、資料が少なくわかりませんが、この言葉で有名です。「自分」を殺してしまうものが、4つあると言います。

 一つは、「嗜欲(しよく、嗜好の〈嗜〉です)」です。この「嗜欲」とは、コトバンクによりますと、『思うさま飲んだり、見たり、聞いたりしたいという心。 』とあります。人は欲を持つことで自分を殺してしまうことが多いのでしょう。人間の「安心」が、物を持つことのように錯覚されているのですが、だれも明日のことは分からない今日を生きているのですから、物の豊かさで人の価値や生きがいは測れないことになるのでしょう。

 二つは、「貨財」です。財産の相続での係争の話をよく聞きます。《骨肉の争い》ほど見るに耐えない、聞くに耐えない醜いことはありません。ある時、父の生まれた家の財産が、私たち兄弟四人に相続の権利があると知らせてきました。四人とも、相続権を放棄したのです。よく父が言っていました。《俺は金を残なさないから、自分の人生は自分で生きていけ!》とです。その父の言葉を、四人が守ったことになります。

 三つは、「政事」です。「政(まつりごと)」を間違えると、自分だけではなく、民百姓が苦しい目に遭うというのは、どの国の歴史にも見られることであります。一人の指導者の間違いが、何億という人を苦しめてきた例もあるくらいです。今では、「市民オンブズマン」がいて、勝手な政治をすることができないような、抑止力が市民にある時代には、独裁政治は行えないのです。しかし、こういった抑止力のない国は、実に悲惨ではないでしょうか。

 4つは、「学術」です。学問や教育を誤ると、人も町も国も立ち行かないということなのです。日本が、明治維新以降、欧米に追いつき一等国になり得たことを、社会学者は、「教育」の力をあげていました。すでに江戸時代から、町人たちの識字率は、当時の世界の標準をはるかに超えて高かったのです。駕篭かき人夫や漁師が、字を読み書きでき、計算能力も高かったことを、江戸期に日本を訪れた外国人が驚嘆したそうです。でも、誤った軍国主義教育の結果、多くの優秀な人材を死なせた大きな間違いには、禍根が残ります。今日でも「ゆとり教育」の功罪が再検証されて、週6日も授業を再び行う学校も出始めているようです。

 1800年も前の崔子玉の語った言葉は、21世紀の現代にも、好き忠告となるのではないでしょうか。

(書は、唐で学んだ空海が書いたとされる、崔子玉の「座右の銘」です)