『心を治めよ!』

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 アメリカの東海岸のコネチカット州で、18人の小学校低学年の生徒と、大人が9人が、20歳の青年の手にした銃で打たれて亡くなりました。その現場の凄惨さは言葉にできないほどだったと、ニュースが報じていました。犯人は、警察官に包囲されているの知って、自らの命を断ちました。さらに小学校を襲撃する前に、自分の母親も銃を発砲して殺害しているのです。日本でも、この中国でも、これに類似する、刃物によって不特定の人を襲う殺傷事件が頻発しております。

 私たちの孫のいるオレゴン州の街から、車で2時間ほどのところにある、ポートランドの商業施設でも、この事件の数日前に、銃の乱射事件があったばかりだと、娘がメールしてきています。こういった事件を、自分の幼い子どもたちに、どう伝えるのか、どのように説明するのか、そのことを避けていられない状況下で、母として娘も苦慮している様子でした。きっと子どもたちの耳にも、被害にあった子どもたちの悲劇の死、その現場にいて目撃してしまった子どもたちの衝撃などを伝え聞くことになるわけです。アメリカの子育て中の母親は、大変な時を過ごしていることになります。また、子どもたちの心のケア-を、どうするかも大きな課題なのです。

 数年前に起きた、大阪の池田小の刃物による事件で、被害に遭わなかったのですが、心を深く傷つけられた子どもちの、その後の様子が気がかりでなりません。私の長男が、小学生の時に、「豊田商事」という会社に乱入して、人を刺殺した事件のテレビニュースを、見てしまって、その衝撃で倒れてしまったことがありました。事件の現場をテレビで放映したのは、ふさわしいことではなかったのです。正しいことと邪なこと、善と悪、光と闇、命と死、そういった間(はざま)で、私たちは生きているですが、幼い子どもたちの心を守っていく責任が、私たちにはあるのです。

 マスコミは事実を伝える使命がありますが、その伝達に伴う影響力も考えて、抑制力のある報道をしていかなければならない、それが情報報道に課せられたもう一つの義務だと思うのです。報道写真に、怯えている子供の目が写っていました。あるニュースは、『言葉が出ないほどの衝撃を受けていました!』と伝えていました。

 心が統御できない時代、心を治めることのできない時代が来ているのでしょうか。衝動的に、事を起してしまい、終わった後で、『ハッ!』と気付くのでしょうか。よく殴ったり蹴ったりするゲームがありますが、倒れてもまた起き上がり、また起き上がりを繰り返すゲームの相手は、不死身のようです。強烈な殴打によってノックダウンしないのです。ところが実際には、人は一撃で倒せるのです。先日、東京の大学で、空手部の高齢の先輩に、回し蹴りを打って死なせてしまった事件がありました。主将の彼は、このことを知っていたのに、〈怒り〉を治めることができずに、凶器となる足を用いてしまったわけです。ゲームも倶楽部も、いつでも〈遊びの枠〉を超えてしまうことができるのです。

 兄たちに蹴られたり、殴られたりして育った私は、その訓練のかいあって、喧嘩が強かったのです。打たれた痛さを知っていたので、体格の差があっても、どれほどの力で、どこを打てば相手を倒せるかを心得ていました。しかし、どんなに激しても、その一手を超えないわけです。ところが今の若者は、怒り心頭してしまったら、その抑止力が効かないのです。大変な時代におります。兎にも角にも、幼い子共たちを、その暴力と、暴力への恐怖とから守りたいものです。そして『心を治めよ!』と叫びたいのです。そんな思いで誕生日を迎えました。

(写真は、コネチカット州の州の花の「アメリカシャクナゲ」です)

ジョブズ@スタンフォード大学・2005年

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    スティーブ・ジョブズ『2005年スタンフォード大学卒業式祝辞』

本日は、世界でも指折りの大学の卒業式に同席できて大変に光栄です。私は大学を卒業したことがないものですから、正直なところ、今回がこれまでで卒業にもっとも近い体験なんです。
 きょうは、みなさんに、私の人生から得た3つのお話をします。

●生みの親と育ての親、そしてリード大学入学と中退
 最初の話は、点と点を結ぶということです。
 私は、リード大学をたった半年で中退しています。もっとも、正式に退学するまで、その後1年半も授業を受けていましたけどね。
 まずは、その中退のいきさつから話したいのですが、それには私が誕生する前のエピソードからはじめなくてはなりません。
 私の生みの親は、未婚の大学院生でした。生まれたらすぐに私を養子に出すこと、そしてその相手は大卒の夫婦と決めていたそうです。
 現に、弁護士夫婦が私を引き取ることになっていたのですが、出産直前になって、女の子が欲しいと言い出したのだとか。
 そこで、キャンセル待ちリストに載っていた別の夫婦に、真夜中に電話がかかってきたというわけです。これが私の今の両親です。
 ところが、母親は大学を出ていないし、父親に至っては高校も卒業していませんでした。生みの母親は、あとでそれを知り、養子縁組の書類にサインを拒否してしまいます。
 結局、2、3ヵ月ほどして、育ての親が、将来私を大学に行かせると約束。やっと生みの母親も折れたのだそうです。
 その17年後、確かに私は大学に入学できました。
 ところが、世間知らずなものだから、選んだリード大学というのはスタンフォード並みに学費が高い。労働者階級である親の貯えは、みるみるうちに学費に消えていきました。
 私はといえば、半年も過ぎると、大学にいる意義を感じなくなっていました。人生で何がやりたいのかもわからず、大学がどう役に立つのかもわからない。ただ、親がこれまで貯めてきた金を浪費するだけ。
 それで中退を決めたんです。すべてがうまく行くと信じて。
 もちろん、そのときは不安でした。でも、いま思うと、人生で最良の決断でしたね。なにしろ、興味のない科目はもう受ける必要がないし、おもしろそうな科目だけ聞くことができるのですから。
 もっとも、「ロマン」とはほど遠い生活でした。寮に自分の部屋がないから、寝るのは友人の部屋の床。返却したコーラの瓶代5セントを食費にあてた り、毎週日曜の夜に10kmも離れたハレクリシュナ寺院まで歩いて、やっとウマい食事にありついたりといった日々が続きました。
 とはいえ、このころ好奇心と直感にしたがって行動したことは、金銭に代えられないほど貴重な経験となって、のちに生きてきます。

●点と点が結ばれていることを信じれば、人生に失望することはない
 実例を1つあげてみましょう。
 当時、リード大学のカリグラフィ(書道)教育は、国内最高水準のものでした。キャンパスを見ても、ポスターから引き出しのラベルまで、美しい手書きの飾り文字で飾られていたんです。
 そこで、試しにカリグラフィの授業をとってみようと思い立ちました。どうせ私は退学したんですから、通常のクラスに出る必要はないですし。
 私は、さまざまな書体を学び、文字の違いによって間隔を調整する方法を学び、活字を美しく表現する方法を学びました。まさにそれは、科学ではとらえることのできない芸術の世界。すっかり私は魅せられてしまいました。
 確かに、こんなことは、生きる上で役立ちそうもないように思うでしょう。でも、その10年後、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計するときになって、すべてがよみがえってきたのです。
 私は、かつて学んだカリグラフィを応用して、美しい書体を備えた世界初のコンピュータ、マックを完成させたのです。
 もし、私が大学であのコースに出なかったら、マックには複数のフォントもプロポーショナルフォントも入っていなかったでしょう。ウィンドウズがマックの真似であることを考えると、おそらくいまだにそんな機能を持つパソコンは1台も現れなかったに違いありません。
 中退しなければ、カリグラフィの授業には出なかった。そして、カリグラフィの授業に出なければ、美しい書体のパソコンはできなかった。
 もちろん当時の私には、未来に先回りして、そうした点と点を結ぶことなど、できるわけがありません。でも、10年たってから過去を振り返ってみると、点と点のつながりは明らかです。
 みなさんも、未来を先取りして点と点を結ぶことはできないでしょう。でも、過去を振り返って点と点を結ぶことはできるはずです。
 ですから、いまはつながりがないことがらであっても、将来は結ぶことができるかもしれない──それを信じてほしいんです。
 勇気、運命、人生、宿命……何でもいい。とにかく信じることです。点と点が結ばれていくことを信じれば、人生に失望することなんかありません。それどころか、人生がまるで見違えるものになることでしょう。

●自分で創業したアップル社から追い出されてしまう
 さて、2番目の話は、愛と喪失についてです。
 私が幸運だったのは、人生の早い段階で、自分が打ち込める仕事を見つけたことでしょう。実家のガレージで、ウォズ(スティーブ・ウォズニアック)といっしょにアップルをはじめたのは、20歳のときでした。
 そして懸命に働いた結果、10年後には従業員4000人以上、売上高20億ドルの企業に成長。最高の作品であるマッキントッシュを発表することになります。しかし、そのたった1年後、30歳になったとたんに、私は会社をクビになってしまいました。
 自分が設立した会社をクビになるなんて、おかしな話でしょう。
 実は、こういうことなんです。アップル社の拡大にともなって、私は会社を任せられる有能な人間を雇いました。確かに、最初の1年ほどはうまくいったのですが、じきに将来のビジョンについて意見が分かれてしまいました。
 結局、取締役会も彼に味方し、私は30歳で会社を追い出され、社会的にも落ちこぼれてしまったわけです。社会人としての人生すべてを賭けたものが、まるでなくなったのですから、それはひどく打ちのめされました。
 2、3ヵ月間は、どうしたらよいのか本当にわかりませんでした。自分のために、前世代の起業家の業績をおとしめてしまった──手渡されたリレーのバトンを落としたように感じたのです。
 ひどいヘマをやらかしたお詫びをしようと、デイヴィッド・パッカード(HPの共同創業者の1人)とボブ・ノイス(インテルの共同創業者の1人)にも会いました。シリコンヴァレーから逃げ出そうとも考えたほどです。
 でも、そんななかに、少しずつ明かりが射してきました。私は、自分が打ち込んできた仕事を、まだまだ愛していることに気づいたのです。
 アップルでの出来事があっても、その気持ちは少しも変わりませんでした。つれなくされても、やっぱり愛しているんです。そこで、もう一度やり直すことに決めました。

●アップルをクビになったことで私が得たもの
 そのときは気がつきませんでしたが、のちになって、アップルをクビになったことは、人生で最良の出来事だとわかってきました。
 成功者としての重圧は消え、再び初心者の気軽さが戻ってきました。
 おかげで、私の人生でも、このうえなく創造的な時代を迎えることができたのです。
 その後の5年間に、ネクスト(NeXT)という会社を立ち上げ、続いてピクサー(Pixer)という会社を設立し、素晴らしい女性にめぐりあいました。それが、今の妻なんですけどね。
 のちにピクサーは、世界初のコンピュータ・アニメ映画「トイ・ストーリー」を制作。世界最高のアニメーション・スタジオになりました。
 その後、事は意外な方向に進み、ネクストはアップルに買収され、私はアップルに戻ることになりました。そして、私たちがネクストで培った技術は、アップル再生の中心的な役割を果たしています。一方、妻ロレーヌと私は、素晴らしい家庭を築いてきたというわけです。
 それにしても確かなのは、アップルをクビになっていなければ、こうした出来事は1つとして起きなかったということです。口に苦い薬でしたが、病人には必要だったんでしょう。
 人生には、時にレンガで頭をガツンとやられることがあるものです。でも、信念を失ってはいけません。私がここまで続けられたのは、自分のやっていることが好きだったからにほかなりません。
 みなさんも、自分が打ち込めるもの──愛するものを見つけ出してほしいのです。これは、仕事でも恋愛でも同じこと。
 みなさんの人生において、仕事は大きな割合を占めることになるでしょう。そこで本当に満足感を味わいたければ、素晴らしいと信じる仕事をする以外にありません。
 そして、素晴らしい仕事をするには、自分の仕事を愛することにつきるのです。
 まだ、そんな仕事は見つかっていないというならば、探し続けてください。妥協は禁物です。見つかればピンとくるはずですよ。
 そして、愛する仕事というのは、素晴らしい人間関係と同じで、年を経るごとに自分を高めてくれるのです。
 ですから、探し続けてください。妥協してはいけません。

●すい臓がんが見つかって余命半年を宣告されたこと
3番目の話は、死についてです。
 17歳のとき、こんな言葉を本で読みました。
「毎日を、人生最後の日だと思って生きなさい。そうすれば、いつか必ずその通りになる日が来るでしょう」
 これには強烈な印象を受けました。それ以来33年間、毎朝私は鏡に向かって自問自答してきました。
「もし今日が人生最後の日だとしたら、本当に今日のスケジュールでいいのか?」
 「ノー」と答える日が長く続くと、私は「何かを変えなくてはならない」と考えはじめます。
 死を目前にした自分を想像することは、人生の大きな選択をする際に、ずいぶんと役に立ちました。
 というのも、他人からの期待、自分のプライド、失敗への恐れなんて、死に直面したらバッと消え去ってしまいます。残るのは、本当に重要なことだけ。
 また、自分もいつかは死ぬんだと想像すれば、「自分には失いたくないものがある」なんていう思い違いをしなくて済みます。
 みなさんには、失うべきものは何もないのです。心のおもむくままに生きて、何も悪いことはありません。
 1年ほど前、私の体にガンが見つかりました。検査の結果、すい臓にはっきりと腫瘍が映っていたんです。それまでは、すい臓が何であるかも知らなかったのに。
 医者の言うには、これは治療ができないガンにほぼ間違いない。余命は3ヵ月から、よくて半年。
 そして、家に帰ってやるべきことを済ませなさいとアドバイスしてくれました。
 つまり、死に支度をしろというわけです。ということは、今後10年間かけて子どもたちに伝えようとしたことを、たったの2、3ヵ月で言えということです。
 家族が心安らかに暮らせるよう、引き継ぎをしろということです。要するに、別れを告げてこいということです。
 その日の夕方、生体検査を受けました。喉から内視鏡を入れ、胃から腸に通し、すい臓に針を刺して腫瘍の細胞をとってきたのです。
 あとで妻から聞いた話によれば、医師が顕微鏡で細胞を覗いたとたん、叫び声を上げたのだとか。というのも、すい臓ガンにしてはごく珍しく、手術で治せるタイプのものだとわかったからなんです。
 こうして私は手術を受け、いまでは元気になりました。
 これまでの生涯のなかで、私がもっとも死に近づいた瞬間といっていいでしょうね。できれば、あと何十年かは、これ以上近づきたくないものです。
 こんな経験をしたもので、以前よりもちょっと自信をもって言えるんですが、死というのは有用でかつ純粋に知的な概念なんです。
 わかりやすく説明しましょう。
 誰も死にたいと思っている人はいません。天国に行きたいと願っている人はいますが、そのために死のうとは思っていないでしょう。
 でも、それでいて、死というのは私たち誰もが向かう終着点でもあります。死を免れた人なんていません。
 それにはわけがあります。「死」というのは、「生」による唯一で最高の発明だからです。死によって、古いものが消え去り、新しいもののために道が開けるのです。
 いまの時点で、新しいものとは、みなさんのことです。でも、遠からず、みなさんもだんだんと古くなり、消え去っていくでしょう。
 ちょっと重苦しい話ですみません。でも、本当のことなんですよ。

●みずからの心と直感に従って行動してほしい
 みなさんの時間には限りがあります。自分らしくない人生を過ごして、ムダにする暇なんかありません。
 決まりきった教義なんかにとらわれてはいけません。それは、ほかの人が考えた結果を生きていくに過ぎないことだからです。他人の意見という騒音に、みなさんの心の声がかき消されないようにしてください。
 もっとも大切なのは、みずからの心や直感に従い、勇気を持って行動することです。心や直感というものは、みなさんが本当に望んでいる姿を、すでに知っているのです。
 私が若かったころ、「The Whole Earth Catalog」(全地球カタログ)という、それはそれはスゴい本がありました。私たちの世代では、バイブルのような扱いでした。
 ステュアート・ブランドという人が、ここから遠くないメンローパークで制作したもので、独特の詩的なタッチで、いきいきとした誌面が展開されていました。
 1960年代の終わりですから、パソコンもDTPもありません。タイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作られていたんです。
 いってみれば、グーグルのペーパーバック版という感じでしょうか。理想に燃えた誌面からは、素敵なツールと高邁な信念があふれていました。
 ステュアートとそのチームは、「The Whole Earth Catalog」の版を数回重ね、一通りのことをやってしまったところで、最終版を発行しました。
 1970年代の半ば。私が、みなさんの年ごろだったときです。
 最終版の裏表紙は、朝早い田舎道の写真。ヒッチハイクの経験がある人ならば、一度は目にしたことのあるような風景です。
 写真の下には、こんな言葉が書かれていました。
「ハングリーであれ、愚かであれ」
 それが、彼らの別れのメッセージだったのです。
 ハングリーであれ、愚かであれ──それ以来、私はいつもそうありたいと願ってきました。そしていま、卒業を迎えて新しい人生に向かうみなさんに、私は望みたい。
 ハングリーであれ、愚かであれ!         (翻訳:二村高史)

(写真は、アップルのコンピューターが誕生したしたガレージです)