1974年夏

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 1974年の夏に、私は韓国で行われた会議に出席のために、ソウルに滞在していました。その滞在中の8月15日に、「文世光事件」が起きたのです。その日は、日本では終戦記念日、韓国では、日本統治からの解放記念の「光復節」で、その記念行事が、私たちの会議場からそう遠くない「国立劇場」で行われていました。その会場で朴大統領が狙撃され、奥様の陸英修夫人が亡くなる事件が起きたのです。私は、この記念大会に出席はしていませんでしたが、会議中に、『日本人が朴大統領を狙撃し、朴大統領夫人が撃たれて亡くなられた!』という知らせが入ったのです。大変なことに遭遇したのです。

 ホテルに帰りましたが、『危険!』とのことで外出を禁止されていました。ホテル支配人は、『大統領は軍人ですから咄嗟に身を避けたのですが、残念ながら令夫人が・・・』と言っておられました。間もなく、『犯人は日本人ではなく、北朝鮮から送り込まれ、日本人になりすました青年だった!』ということがわかって、安堵したのです。日本の植民地から解放された記念の祝賀会で、もし、日本人が狙撃していたとするなら、今回の「竹島」の問題など及びもつかないことになったのですが、驚いたりほっとしたりで、会議を終えて日本に帰国しました。

 長女が誕生した直後の出来事でした。海外旅行中に、自分の身近に起こった事件でしたので、これまで体験した大きな出来事のトップテンに入るほどだったと言えます。一昨日、韓国大統領に当選し、2013年2月25日に、大統領に就任予定の朴槿恩女史は、この朴大統領夫妻の長女で、その事件が起きた時には、フランスの大学に留学中でした。そして、朴大統領も、1989年10月26日に、側近の放った縦断に倒れています。南北分裂の悲しい歴史の中を通って、今回、親子二代で、韓国の舵取りをなさるようで、心からの祝福をしたいと思っております。

 この朴正煕大統領ですが、自分の半生、特に日本との関わりを、次のように述べています。『日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命 令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さ らに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割り と公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 』とです。

 凶弾に倒れたお母様に代わって、父である朴大統領を支え続けてきたのが、朴槿恵女史でした。きっと、日本のことを何度も、父親に聞かされて育ったのではないかと思われます。台湾に参りました時に、ある台湾の方が、こう話しておられました。『日本統治時代は、家の玄関に鍵をしなくても安全でした。物を盗られる心配がなかったほど、町の安全と秩序が守られていたのです。日本の統治が終わってからは・・・』と残念な口ぶりで、朴大統領のお話と一致することを語っておられたのです。

 2012年、国際関係は大変なまま、年を越すことになりますが、「友好」が実現して、互いに嫉(そね)みあったり、憎み合ったりするのではない、平和な関係の到来を願う、年末の土曜の午後であります。そう言えば、あの時は、夜11時以降は、夜間外出禁止令が出ていました。

(写真上は、大韓民国の国花の「ムクゲ」、下は、朴槿恵女史です)