東映の時代劇で、山形勲や薄田研二や進藤英太郎は、どの映画を観ても、同じように「腹黒い」悪役を演じていました。彼らは、子どもであった私にとって、心憎い役者だったのです。主人公に切られると歓声が上がったのを、昨日のように覚えています。役を終えて、普通の小父さんに戻ると、優しい方たちだったのを、大人になってから知ったのです。映画館が暗いのと、圧倒的な音量と光で、異次元の空間に入り込んで、まるで主人公になり切ってしまった〈感情移入〉のせいで、現実とフィクションの境目がなくなってしまったからだったのでしょうか。
この「腹黒い」をgoo辞書で調べてみますと、『[形][文]はらぐろ・し[ク]心に何か悪だくみをもっている。陰険で意地が悪い。「―・いやり方」 』とあります。おなじ「腹」のつく「腹積もり」は、『あらかじめ考えておく大体の予定や計画。また、心の用意。心づもり。「息子に後をまかせる―だ」 』とあります。また、「胸算用」は、『[名](スル)《「むなさんよう」とも》心の中で見積もりを立てること。胸勘定(むなかんじょう)。むなづもり。むなざん。むねざんよう。「謝恩セールの売り上げを―する」 』とあります。「胸くそが悪い」は、『胸がむかむかするほど不快である。いまいましい。「考えただけでも―・い」」とあります。
どうも昔の人間、例えば江戸時代の悪代官や、闇夜の盗賊たちが活躍していた頃は、「腹」の中で考えたり、思ったり、計画していたようですし、そうでなければ「胸」の中で考えていたような言葉が多いのに驚かされます。今日読んでいました本の中に、北里大学の名誉教授で「病理史」の専門家の立川昭二さんが、『日本人が「頭」つまり「脳」で考えるようになったのは、明治以降のことである・・・・その第一走者の一人が夏目漱石である。』と書いてありました。「坊ちゃん」で有名な、近代日本語の基礎を作った人物と言われている方ですが。欧米の人たちは、はるか昔から、「脳」で考えていたのです。
「脳」は、体のてっぺんにあるのですが、「腹」とか「胸」は、体の中心に位置しています。何かの本に書いてあったのですが、人間の一番深いところというのは、「腎臓」なのだそうです。私たちが、「心」というのは、「腹」か「胸」か「腎臓」当たりにあるのではないでしょうか。『あの人は心根の優しい人だ!』とか、『私の先生に人格や学識に心服しております!』とか、『最近は、心胆を寒からしむる凶悪な犯罪が頻発しています!』という言葉を見てみますと、人が感じているのは、「脳」ではなく、やはり「心」のようです。ヘブル語では、『leb[(レーブ)とは、日本語の「心」に一致している点が多い。イスラエル人にとっても、lebは心臓を意味するだけでなく、感情、記憶、考え、判断などの座とされた 』と言っているそうです。
『心はどこか?』には、論争がありますが、だれにもあることだけは事実です。今日は暦の上で、「冬至」です。明日から、「夏至」に至るまで、太陽が傾斜状態から頭上高くに戻っていきます。中国語の辞書を見ていましたら、「心花怒放」という言葉を見つけました。『心の中に花が咲いたようになり、嬉しくてたまらない!』との意味なのです。太陽の恢復は、ヨーロッパ人だけではなく、極東に生まれ、そして、そこに住んでいる私にとっても、心の中が灯されて、「希望」が沸き上がってくるようで、実に、「脳楽しい」ではなく、心楽しいことであります。母が沸かしてくれた「冬至のゆず湯」が懐かしいのですが、今宵はミカンを代用に、風呂でもたてましょうか。
(絵は、冬至に入いると健康になると言い伝えられた「ゆず湯」の案内です)