英雄

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 最近、「草食系男子」という言葉をよく聞きます。かつては「肉食系」だったと思うのですが、女性化でしょうか、中性化していく傾向があるのでしょうか。男の子が、「男」として生きていくためには、その「男性性」を養わなければなりません。そのためには、モデルが必要とされます。幼い日は、「父親」でした。大きくて、力があって、何でもできるし知っていて、たくましかったのです。どんな大人チョリも、『お父さんが一番!』と思っています。ところが、だんだん大きくなるに連れて、お父さんのボロでしょうか、弱さを見るようになるのです。それで、「偶像」が地に堕ちてしまい宇野です。『お父さんって、偉くないじゃないか。◯ちゃんのお父さんは課長で、お父さんは係長・・・・』ということが露呈してしまいます。ここでいけないのが、お母さんの、お父さんへの、『まったく・・・』の愚痴です。しかも、子どもたちの前で、父親の権威を失墜させるような言動が、さらにお父さんの地位を低下させていくのです。

 そこで子どもは、マンガや映画やテレビの「ヒーロー」、「英雄」に心を向けるのです。いわゆる「強い男」、「男性性」がプンプンと匂い立つ映画スターに、「偶像」を換えていくのです。やがて、彼らは「虚構の世界の男」だということが分かり、彼らのスキャンダルを耳にしてしまうと、もうヒーローではなくなってしまうのです。それで今度は、歴史上で、実際に活躍した「偉人たち」に特別な関心を向けていくわけです。しかし、歴史を学んでいくと、彼らも、みな「弱さ」や「欠点」を持っていた事実を知ってしまうのです。それで最後に、再び「お父さん」のところに帰って来るのです。『親爺は弱いところがある普通の男だけど、俺に関心を向けてくれ、懸命になって働いて、養い育ててくれたんだ!』と言って、感謝の念が湧くき上がってくるわけです。もう、同級生の親爺と比べたりしないのです。オナラはするし、ゴロゴロしたり、万年係長でも、「父親像」は健全になっているのです。

 中学の時に、第一次世界大戦の頃のアメリカのカリフォルニアの農村の家庭を舞台にした、「エデンの東」という映画を観ました。両親は離婚。父は、大きな農場を経営し、レタスの栽培をしているのです。母親は列車でだいぶ行った別の町で、いかがわしい水商売をしていました。彼らの二人の青年期の男の子がいるのです。弟は、お父さんや兄に内緒で、何度もお母さんを訪ねていました。彼は兄もまた、母の現実に直面すべきだと思ったのでしょうか、意を決して、嫌がるお兄さんを誘って会いに行くのです。

 お兄さんが、母親に会ったときの衝撃は想像を絶するほど激しいものがありました。母親に触ることが、汚れたものに触るかのように拒むのです。それを傍らでいたずらっぽく眺める弟の表情が微妙で、二人の兄弟の違いの描写が巧みでした。兄は母の現実を受け入れられなくて、発狂したかのように発作的に、ヨーロッパ戦線に従軍して村から出ていってしまいます。

 弟は、野菜の出荷で大損をした父を励まそうとし、父親の愛を求めたのでしょうか、大豆を栽培し、戦争景気で大豆相場が高騰して、大もうけをするのです。その設けで、お父さんの損を補填して渡そうとするのですが、父に受け入れてもらえないのです。そんな時、お父さんが倒れてしまうのです。弟は、かいがいしく父の世話をし、ついに父の愛を得るのです。

 不良っぽい弟と、模範青年の様でも脆い兄、この二人の違いに、『お前はどっちの人間でありたいか?』、そう問われたように感じたのです。弟は、母が何をしていても母として受け入れて遇したのです。母を恥じたりしなかったたわけです。その様な映画でした。何度観たことでしょうか。この弟を演じたのが、ジェームス・ディーンでした。まだ、ジョンスタインベックが、1952年に著した原作を読んだことがないので、今度帰国したら、読んでみようと思っている、年末の夕方であります。

(写真は、「エデンの東」の一場面です)

☆南十字星

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 子どものころに、「南十字星」が見られる南半球に、『何時か行ってみたい!』と思っていました。地球が丸くて、「赤道」という帯が地球の中央部についていて、そこから北側が、日本や中国やヨーロッパの国々がある「北半球」で、その南側が、「南半球」だということを、社会科で学んでからでした。自分の足の下に、別の国があって、様々な生活がなされているというのは、「不思議」というのでしょうか、小学生の自分にとっては、まったくの「神秘」であったのです。

 17歳の高校生の時に、卒業したらどうするかを考えていました。兄たち二人は、それぞれに進学して行きましたから、自分も同じ道を踏んでいくのだろうと思っていました。しかし、受験勉強に全く身が入らないのです。そうこうしているうちに、小学校で学んだ、「南半球」のことを思い出したのです。それで、気の多い私は、「アルゼンチン協会」という団体が東京にあるということを知って、そこに手紙を出しました。すると、すぐに便覧やパンフレットなどが送られてきたのです。それを興味津々、食い入るようにして見入ったのです。首都が、ブエノスアイレスで、ラプラタ川という川が流れ、アンデス山脈に至るまで、「パンパ」と言われる大平原が広がり、アンデスの麓には、メンドサという街があることを見つけたのです。その山を越えた向こう側に「チリ」という国がありました。これを観ていたら、受験なんて全く小さなことにしか思えなくなってしまって、一生懸命に「スペイン語」の独習をしていたのです。

 メンドサは葡萄の産地で、ワインで有名な街でした。葡萄の収穫のもようが、便覧に写真入りで解説されていました。ラテン系の美しい女性が、ニッコリと微笑んでいるではありませんか。まるで『来ませんか!』と呼びかけているようでした。思春期まっただ中の私ですから、すっかり誘惑されてしまったのです。『よし、アルゼンチンに移民するぞ!』と、心深く決めてしまったのです。それもこれも逃げの一手で、受験のプレッシャーから逃れる逃避好でしたし、ちょっとしたハシカのような症状でしたから、すぐに熱は冷めてしまったのです。

 仕事の一環で、アルゼンチンで開かれる会議に出席する機会が与えられて、20年ほど前でしょうか、出かけたのです。ブエノスアイレスの街は、かつてはスペイン統治でしたが、イタリア系の移民の多い、気取りのある白人社会でした。日系の移民のみなさんは、沖縄出身者が多くて、花屋かクリーニング屋をしていていたようでした。移民のグループのみなさんが、食事に招いてくれたこともありました。遠い旅先で、日本料理をごちそうになり、実に美味しかったのです。またパンパも大草原の中にある街を訪問したときは、どこまでも続く草原をバスに揺られながら出かけたのですが、コルドバには行く機会がありませんでした。実に広大な国でした。

 アルゼンチンの人は、こう言うのだそうです。『日本人がアルゼンチンに住み、われわれが日本に住んだら一番いい!』とです。人口に比べて国土の広大なアルゼンチンと、国土が狭く人口の過剰な日本が、シフトすればいいという考えなのです。たしかにそうかも知れませんね。ブエノスアイレスのレストランで、ウエイターの接客態度が素晴らしかったのが印象的でした。給料は、たいして好くないのかも知れませんが、素晴らしい接客の身のこなしでした。ああいうのを《プロの意識》というのでしょうか。「アルゼンチン・タンゴ」の発祥の港にも連れていってもらいました。ギターの奏でる《ラ・クンパルシータ》とカスタネットと靴を蹴る音が、祖国のスペインから遠い港町の石畳に反響していました。きっと望郷の思いのやまない人々が、踊り歌い聞きながら、その港で祖国を偲んだのでしょう。

 でも「南十字星」を見つけることができなかったのは、心残りでした。『あの時、日本から移住していたら、どんな生活をしていただろうか?』と、空港に降り立った時、人生の不思議さを思いながら、不思議な懐かしさがこみ上げてきたのです。

(写真上は、アルゼンチンのメンドサ、下は、アルゼンチン・タンゴの発祥の港街です)