子どものころに、「南十字星」が見られる南半球に、『何時か行ってみたい!』と思っていました。地球が丸くて、「赤道」という帯が地球の中央部についていて、そこから北側が、日本や中国やヨーロッパの国々がある「北半球」で、その南側が、「南半球」だということを、社会科で学んでからでした。自分の足の下に、別の国があって、様々な生活がなされているというのは、「不思議」というのでしょうか、小学生の自分にとっては、まったくの「神秘」であったのです。
17歳の高校生の時に、卒業したらどうするかを考えていました。兄たち二人は、それぞれに進学して行きましたから、自分も同じ道を踏んでいくのだろうと思っていました。しかし、受験勉強に全く身が入らないのです。そうこうしているうちに、小学校で学んだ、「南半球」のことを思い出したのです。それで、気の多い私は、「アルゼンチン協会」という団体が東京にあるということを知って、そこに手紙を出しました。すると、すぐに便覧やパンフレットなどが送られてきたのです。それを興味津々、食い入るようにして見入ったのです。首都が、ブエノスアイレスで、ラプラタ川という川が流れ、アンデス山脈に至るまで、「パンパ」と言われる大平原が広がり、アンデスの麓には、メンドサという街があることを見つけたのです。その山を越えた向こう側に「チリ」という国がありました。これを観ていたら、受験なんて全く小さなことにしか思えなくなってしまって、一生懸命に「スペイン語」の独習をしていたのです。
メンドサは葡萄の産地で、ワインで有名な街でした。葡萄の収穫のもようが、便覧に写真入りで解説されていました。ラテン系の美しい女性が、ニッコリと微笑んでいるではありませんか。まるで『来ませんか!』と呼びかけているようでした。思春期まっただ中の私ですから、すっかり誘惑されてしまったのです。『よし、アルゼンチンに移民するぞ!』と、心深く決めてしまったのです。それもこれも逃げの一手で、受験のプレッシャーから逃れる逃避好でしたし、ちょっとしたハシカのような症状でしたから、すぐに熱は冷めてしまったのです。
仕事の一環で、アルゼンチンで開かれる会議に出席する機会が与えられて、20年ほど前でしょうか、出かけたのです。ブエノスアイレスの街は、かつてはスペイン統治でしたが、イタリア系の移民の多い、気取りのある白人社会でした。日系の移民のみなさんは、沖縄出身者が多くて、花屋かクリーニング屋をしていていたようでした。移民のグループのみなさんが、食事に招いてくれたこともありました。遠い旅先で、日本料理をごちそうになり、実に美味しかったのです。またパンパも大草原の中にある街を訪問したときは、どこまでも続く草原をバスに揺られながら出かけたのですが、コルドバには行く機会がありませんでした。実に広大な国でした。
アルゼンチンの人は、こう言うのだそうです。『日本人がアルゼンチンに住み、われわれが日本に住んだら一番いい!』とです。人口に比べて国土の広大なアルゼンチンと、国土が狭く人口の過剰な日本が、シフトすればいいという考えなのです。たしかにそうかも知れませんね。ブエノスアイレスのレストランで、ウエイターの接客態度が素晴らしかったのが印象的でした。給料は、たいして好くないのかも知れませんが、素晴らしい接客の身のこなしでした。ああいうのを《プロの意識》というのでしょうか。「アルゼンチン・タンゴ」の発祥の港にも連れていってもらいました。ギターの奏でる《ラ・クンパルシータ》とカスタネットと靴を蹴る音が、祖国のスペインから遠い港町の石畳に反響していました。きっと望郷の思いのやまない人々が、踊り歌い聞きながら、その港で祖国を偲んだのでしょう。
でも「南十字星」を見つけることができなかったのは、心残りでした。『あの時、日本から移住していたら、どんな生活をしていただろうか?』と、空港に降り立った時、人生の不思議さを思いながら、不思議な懐かしさがこみ上げてきたのです。
(写真上は、アルゼンチンのメンドサ、下は、アルゼンチン・タンゴの発祥の港街です)