「別れ」

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 「別れ」、この2012年に、愛する人との別れが三度ありました。先ず、ブラジルの義兄でした。昨年、発病して手術を受け、回復して、自営の仕事に復帰していたのです。今年の元旦でしょうか、家内に、『電話してみない?』と言って、国際電話をかけたのです。久しぶりの会話を家内は楽しみ、私も懐かしい渋い声を聞くことができて喜んでいたのですが、その後、間もなくして召されたとの連絡が、互いの子どもたち、従兄弟同士の連絡網で、私たちのところにも知らせてきたのです。すぐに、義姉に電話を入れて、告別式には行かれないこと、気を落とさないで過ごして欲しいむね伝えました。

 アルゼンチンの会議の後、私は、サンパウロから車で、1時間半ほどのところにいる、義兄を訪ねたのです。移民した中では、大きな敷地の中に一周するとそうとな時間のかかる池を持つ、そのような「屋敷」に住んでいましたから、農業では成功しませんでしたが、まあ成功の部類に入るのでしょうか。高校を卒えた春ですから18歳で、船でブラジルのサントス港に向い、一度も帰国をしないまま、移民先で召されたわけです。『移民仲間が、あまりの辛さと孤独で自死してしまい、なくなく墓をほって埋めた!』と、話してくれました。義兄の友人で、リンゴ栽培と、貯蔵しての出荷に成功をした親友がいました。お母さんが離婚され、親戚と一緒に、3,4人の子どもを連れてやって来たのだそうです。赤貧水を洗うが如き時を過ごして、林檎栽培を始めたのだそうです。私の訪問時に、日本のものと遜色ない「フジ」を一箱届けてくれたのです。食事をご馳走してくれましたが、食べ切れませんでした。

 そして、3月31日、母が九十五歳の誕生日に、天に帰って行きました。出雲で生まれ、東京に死したのです。母の体が荼毘(だび)にふされた時、自分を妊娠して、十月十日の間いた母の胎が灰になっていくのを目の当たりにして、なんとも言えない寂寞とした思いを感じていました。『人生短し!』、まさのこの実感でした。甲州街道に面していた時計屋の小父さんが、母の通りすぎていく姿を、じーっと見つめて目で追っていた光景を覚えています。ちょっと肌が黒かったのですが、「今市小町」と言われていたと、母の幼馴染に聞いたことがあったのです。母親との死別のコメントを、これまで何度も読んできましたが、自分の母との場合は、格別なものがありました。帰国して、すぐに跳んで行く場を失ったこと、いや話しかけたり、手を引いたりすること、おぶうこともできなくなったことは、言いようもなく寂しいものです。

 さらに、母の死の後すぐに、母の大切な友人で、家内の母も、私の母を後を追うように、天に帰って行きました。筑後川で泳いで、夏は真っ黒になっていたのですが、「久留米小町」と言われていたようです。子供の頃から優しい人で、貧しい人を見ると、家の蔵に跳んでいって、米を分け与えるのを常としていたそうです。そんな義母を、母親は黙ってみていたのでしょう。昭和天皇だったと思いますが、久留米に行幸された時に、選ばれて、お茶の接待役をしたとも聞いています。子育てや夫婦関係で悩んでいるお母さんたちの相談にのり、離婚してしまい、つらい気持ちを聞いて上げて、一緒に泣いて上げた義母でした。私の母とは、甲州街道の路上で、初めて出会って、それから親交し続ける「親しい友」となったのです。6つ年上でしたから、101歳で、義母は召されたことになります。

 この方々との別れは、寂しくも悲しくもありますが、やがて「再会」の望みがあって、『また会えるね!』と思えるので、いつまでも悲しまないことにしましょう。歌の文句に、『会うは別れの始めとは・・・』と言うのがありましたが、生まれた時に、『こんにちは!』でしたが、『さようなら!』が続くのだという人の世の常が、しみじみと感じられた一年でありました。でも、『さようなら!』よりも、中国方式で、『再見!』と言うことにしましょう。

(写真は、陽の光を受けて陰影を見せる雲です)