父の涙


 1964年に開業した新幹線に《ビュッフェ(フランス語で食堂車)》という食堂車が付いていて、それを運営する「帝国ホテル」が、アルバイトを募集しました。東京駅で、入線してくる食堂に食材を積み込む仕事でした。バイト料の高い、とても良い仕事だったのです。仕事の合間には、高級なハムなども食べさせてくれましたから、人気のバイトでした。新幹線のプラットホームで逆立ちをしたり、地上転回をしたり、相撲をとって暇つぶしができました。残念ながら、新幹線に初めて乗った日のことは覚えていませんが、もっぱら学生が鉄道に乗るには、安い鈍行を利用するのが常でした。

 この新幹線ですが、開発を担当された技術者の中に、三木忠直(1909年12月15日~205年4月20日)がいました。戦争中に、「銀河」という高性能爆撃機、また「桜花」という特攻の戦闘機の機体を設計された方でした。初めて東京駅で、新幹線の勇姿を目にしたときに、『あっ、何かに似てる!』と思ったのは、やはり飛行機でした。箱型の電車やくすんだ色の汽車しか見ていなかった私には、その斬新なデザインを見誤らなかったのです。戦争が終わって、三木忠直は、戦時中、自分が設計した専用機で、多くの若者を死なせたことを悔いるのです。「銀河」は1100機も作ったと記録が残されています。罪責感のます中で、平和を考え始めていたようです。ちょうど、「三公社」の一つであった旧日本国有鉄道(現在のJRです)が、戦時中の陸軍や海軍で、技術研究をしていた研究者たちを、国分寺にあった「鉄道技術研究所」に雇入れたのです。その中に、三木忠直もいて、こう考えていました。『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ。』とです。


 三木忠直が、ある機関誌に、次のような証言を残しています。『私は戦前海軍で飛行機の設計に従事していました。戦闘機なみの速度を持ち、急降下爆撃可能な長距離爆撃機は「銀河」と命名されて1,100余機製造され、戦線に送られました。戦勢が我方に厳しくなってくると「特攻作戦」が行われるようになり、その一つとして双発の爆撃機の下に懸吊し、先頭に1トン爆弾をつけた一人乗り のロケット機が考案されました。我々技術者の反対にもかかわらず、この機は前線の要望と中央本省の命令により設計されることになりました。「桜花」と命名され、前線に送られましたが、米軍の制空権下では大きな戦果もなく、多くの若者が戦死していきました。

 そして敗戦。命令とはいえ、私の設計した飛行機で多くの若人が国のために散っていったことに深く心が痛む日々でした。その折、信仰者であった母と妻の勧めもあり、渡辺善太先生の門を叩きました。私の訴えに対し、聖書の教えとして

     「凡て重荷を負ひて労苦せる者我に来たれ。我汝等を休ません(マタイ伝11:28)」

との御言葉を示されたことが未だに胸に残っています。そして終戦の年の私の誕生日に先生から中渋谷教会で洗礼を受けました。なお、戦後米軍が「銀河」とそっくりの飛行機で直線長距離飛行の世界記録を出しましたが、平和だったら「銀河」で果たせたのにと残念でした。また、「桜花」とよく似たロケット機で、B29から発進し、航空機として初めて音速を突破する記録を作った機があります。私の設計が航空界のために役立ったのではないかと、技術者としていささか慰めともなりました。』 (鎌倉雪ノ下通信より)

とです。この方は、父と同学年で、同じ戦闘機の製造に携わった仲になるわけですから、同じ時代の嵐の中を駆け抜けて、生きてきたことになります。旧軍人だった彼の戦後の姿を、「NHKプロジェクトX~終焉が生んだ新幹線~」で見たことがあります。三木忠直のような脚光をあびる大事業に比べれば、名もない市井(しせい)の人でしたが、歯を食いしばりながら、男の子四人を、母とともに育て上げてくれたのですから、これだって大事業に違いありません。出典を覚えていませんが、私が好きな言葉は、

   父は父なるが故に、父として遇する。

です。『たった一人のかけがいのない父親なのだから、たとえ自分の父親は、栄光も賞賛も勲章がないにしても、ただ父であるという一点で、父として敬い、感謝し、労いなさい!』と言った意味でしょう。今朝、一人のお父さんの涙をみました。息子を殴ったことがあって、それを悔いて泣いておられたのです。そこに息子も夫人も居られました。そういえば、今日は「父の日」でしたね。『お父さんありがとう!』、嬉しい言葉でした。


(写真上は、鉄道博物館に保存されている「初代・新幹線」、中は、三木忠直が設計した戦闘機「桜花」、下は、父の「故郷」です)

ごめんなさい!


父が生まれたのが、1910年(明治43年)3月23日です。晩婚の父の三男として、中部山岳地方の山村で生を受けた私でした。兄たちは島根県出雲市で生まれ、弟と私は、父の仕事の関係で、奥深い山と山の沢の部落で生まれています。母は、三番目にも四番目にも、女の子が欲しかったようですが、人生ままなならないものですね。父は生きていれば、今年101歳になっているのですが、残念ながら61歳で召されてしまいました。通勤で小田急線の電車に乗っていて、急停車したときにクモ膜下に異常を覚え、入院治療をしていたのです。今日は退院という日の朝、あっけなく召されてしまいました。『雅、いつか浅草にドジョウを食べに行こうな! 』との約束を果たさないままだったのです。食べ物は、どうでもいいのですが、《親孝行》ができなかったのが、心残りで口惜しいのです。

その父は、秋田の「秋田鉱専(現在の秋田大学鉱山学部)」という学校で学んで、鉱山技師として働いていました。戦争中は、防弾ガラスのための「石英」を掘削する軍需工場に勤務していました。日の丸を鉢巻した従業員たちと、いっしょに写っている記念写真が、母のところに残っています。何年か前に、「ホタル」と「俺は、君のためにこそ死にいく 」という、鹿児島県知覧を舞台にした神風特攻隊の映画がありました。片道の燃料で爆弾を搭載して、沖縄に侵攻していたアメリカ太平洋艦隊の戦艦に体当たり攻撃をした青年たちの物語で、涙を禁じえませんでした。ある方は、前途有為の青年たちの特攻の死を、『無駄な犬死だった!』と言われますが、本当にそうでしょうか。多くの従軍された方々の死を無駄にするかどうかは、平和な時代がやって来たときに、焼土となった国土を立て直し、戦死者を出した家族を慰め、世界平和のために寄与するかどうかだったのではないでしょうか。同じように訓練を受けていながら、戦争が終わって、突撃できなかった方の手記を読んだことがあります。『生き残った私は、戦友たちの死を無駄にしないために、戦後を生きようと堅く心にきめました!』と言っておられました。どうすることもできない戦時下で、ある方は召集で、ある方は志願で、あの戦争に参戦したのですが、銃をとり、特攻機や人間魚雷を駆り、戦わざるをえない立場に立たされた彼らの苦悩や逡巡は、実に過酷なものがあったようです。父のいた私と違って、何人もの級友は母子家庭の子でした。彼らの家に行くと、軍帽、軍服姿のお父さんの写真が掲げられていたのを、何度か見たのです。


私の父の掘り出した鉱石で作られた戦闘機は、きっと私が今住んでいます華南の街にも飛来して、爆弾を投下したことでしょうか。この街に住み始めて、この夏で満四年になりますが、2007年の暮になってからでしょうか、「日本語文化研究会」を開講しました。学生や社会人の方が集って、一緒に日本語を学び始めましたら、16歳ほどの一人の青年が、友人の紹介でやって来たのです。アニメで学んだとかで、大変流暢に日本語を話すではありませんか。その彼の祖父母が食事に招いてくれ、家内とおじゃましました。お二人は、この街の高台にある閑静な「干休所(退役の軍幹部の宿舎)」に住んでおられたのです。事情があって、彼は祖父母と一緒に住んでいたのです。お話しによるとお二人とも江蘇省の村の出身で、十代の頃から人民解放軍兵士として兵役についてこられ、高級軍人として退役して、今は悠々自適な生活をされていました。話しが進む間に、日中戦争のことが話題になって、『何でもお話していただけますか!』と願ったところ、おばあさまは躊躇しながらぽつりぽつりと話し始められたのです。


上海から北の方に、だいぶ離れた村にお生まれでしたが、旧日本軍が来襲し、家々に火を放ったのだそうです。その火で多くの家が焼かれたのですが、おばあさまは、その火で火傷を負いました。話が、そこまでいきますと、おじいちゃんが制しなさったのですが、『いえ、ぜひ事実をお話しください!』と、私が願ったので、もう少し詳しくお話下さったのです。それで私は、『真抱歉!(本当に御免なさい)』と謝りました。彼女は私を責めたのではありませんが、私は咄嗟に謝罪をしたのです。『いいえ、あなたが謝る必要ありません!』と、意外と強く言われたのです。その日、その家を辞します時に、おばあちゃんと私は固い握手をし、家内とは強く抱き合っていました。『あっ、赦されたんだ!』と思ったのです。その時、私の肩から、そっと重荷が下ろされるような感じがいたしました。

この街の南側を流れる河川の岸に、この街の長い歴史が石版に彫り刻まれて、掲出されてあります。おばあちゃんとの交わりの後だったと思いますが、中国人の友人の案内で上流からずっと案内してもらいました。やはり戦時中には、日本軍の空爆があり、300人ほどの死者があったとありました(ごめんなさい、はっきり覚えていません)。『うわーっ、父の作った飛行機から投下されたのだ!』と思わされ、そういった街に、時代が移り、加害者の子である私が住み始めているのだという、厳粛さをも覚えたのです。この7月で、在住五年目に入ります。9月からは、また大学で授業を担当することになっており、何か目的とか務めがあるのだとの思いで、今、準備中であります。あのおばあちゃんの孫の彼は、この4月から日本に留学のために行き、四国に滞在中であります。

(写真上は、「開聞岳」特攻機はこの山を見ながら出撃、中は、「特攻花」、下は、江蘇省の風景です)

山歩き

 

「山男の歌」があります。神保信雄の作詞、作曲者は不詳ですが、歌詞は次のようです。

       娘さんよく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ
       山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ 山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ
       娘さんよく聞けよ 山男の好物はよ
       山の便りとよ 飯合のめしだよ 山の便りとよ 飯合のめしだよ
       山男よく聞けよ 娘さんにゃ惚れるなよ
       娘心はよ 山の天気よ 娘心はよ 山の天気よ
       山男同志の 心意気はよ
       山できたえてよ 共に学ぶよ 山できたえてよ 共に学ぶよ
       娘さんよく聞けよ 山男に惚れたらよ
       むすこ達だけはよ 山にやるなよ むすこ達だけはよ 山にやるなよ

 標高2999メートルの「剣岳」、北アルプス・飛騨山脈の難所の一つで、日本の数ある山の中でも、登山が最も危険だと言われています。この山を題材に、新田次郎が、「劒岳 点の記」として著し、文芸春秋社から1977年に刊行されました。私は、地図を見ることや「時刻表」を見ることが好きでしたし、もちろん山登りも大好きでした。国土地理院の「白地図」を、大きな本屋で買っては、地図上の等高線やさまざまな記号を眺めては、自分がどこにいるのか、自分の関心を寄せている地域の様子を、地図の上で探したりしました。新田次郎の作品に触れて、こう言った地図作りに、命がけで取り組んだ人がいたことを知って、とても感動したことでした。明治40年ころには、地図の作成は、陸軍が国土防衛上の理由から、測量を行っていたようで、「劒岳 点の記」の主人公も、陸軍省の測量部の測量士なのです。

 きっと教育など受けたことのない道案内の山男・宇治長次郎と、軍人として軍の学校で学んだ測量士・柴崎芳太郎の篤い友情、山を愛する者同志の共感と信頼、互いの仕事に対する真摯な姿勢への敬愛、そういったものが感じら、二人の心の動きなどが、山を愛する筆者の手で描かれ、実に面白いのです。なんとなく明治生まれの鉱山技師(青年期)で、秋田、山形、山梨、朝鮮などで仕事をした父の姿を髣髴とさせてくれるのです。
 
 最初の職場の上司が、山好きで、日曜日によく山歩きに連れていってもらいました。当時、土曜日は休日ではありませんでしたから、日曜日の朝に集合しては、奥多摩や中央線沿線の山を歩いていました。日曜日の過ごし方が、その後、大きく変わるのですが、あの時期の山歩きは、創造の世界の厳かさを、小さな人間の脚で踏み歩き、眼でその様子を眺め、天気の移り変わりに心を動かえ慌てたりした、そんな週末を過ごしたのです。その山仲間も、数年のうちにバラバラと、他の職場に移っていってしまい、誰も、その職場に残らなかったのは、何だか不思議な感じがしております。『山に行きましょう!』と誘ってくれたのが、南信の高遠の出身の課長で、私が招聘されて勤めた学校の短大の教授になって、転職してきました。まあ一見したら、どなたも大学教授とは思わないでしょうね。あの「劔岳 点の記」の長次郎然としていましたから、ガニ股の山男そのものでした。国文学を先行されて、俳句や和歌を読み、歌人・古泉千樫 の研究書などを残しておいでです。


 先日、広西壮族自治区に行く機会がありました。広東省の広州からバスに乗って着いたのが、「梧州(Wu zhou)」という街でした。ここに、「白雲山」という小高い山があって、麓から歩いて登りました。ちょうど「儿童节(こどもの日)」で、学校の休みの子どもたちが大変多かったのです。ちょっと息が弾んで休みながら登ったのですが、土地の老若男女、赤ちゃんを抱いたお母さん、初老の夫妻が、黙々と山登りをしていました。驚いたことに、ハイヒールをはいた若い女性がいたのです。たくましいのでしょうか、運動靴がないのでしょうか、オシャレなのでしょうか、日本では、登山者のほとんどは装束をピシッと決めていますから、びっくりしてしまうのです。ちょっと残念だったのは、山頂から四方を見渡すような展望台がないのです。登ってきた道を見下ろす楽しみがないのは、酢を入れない醤油で水餃子を食べるようなものでした。そう云えば、明治の登山者は「草鞋(わらじ)」履きでしたが、私は山好きの弟の勧めで、「地下足袋(じかたび)」で歩くのを常としていました。みなさんは運動具店で買ったキャラバンシューズや登山靴でしたから、ちょっと一線を画した身として、少々得意だったのです。いつか、四川省と貴州省の間の山岳地帯に、連れていってもらいたいのですが、脚力がちょっと心配で躊躇しています。みなさんの足を引っ張ってしまって、手を引いてもらっては申し訳ありませんので。でも、ここには地下足袋はないのでしょうね。

(写真上は、奥多摩・御前山の登山道、中は、梧州の「白雲山」の入り口、下は、「雲海」です)

ミヨちゃん


 「三億円事件」が、1968年12月10日、東京の府中市の「府中刑務所」の北側の塀と住宅地を挟んだ道路上で起きました。この刑務所の道路を挟んだ西側にあった東芝府中工場の従業員のための年末賞与が奪われた窃盗事件でした。 学校を出て、八王子にあった職場に勤務して2年目のことでした。その事件の後、間もなくして、黒塗りの乗用車に乗った、地味な色の服を着た刑事たちが、私たちの職場にも聞き取り捜査にやってきたのです。私の初任給が、国家公務員並みの2万5千円だった時のことです。私も年末手当をもらいましたが、やはり3億円とは、途方もない金額だったので、大変驚いたのを思い出します。どうして、事件現場を、よく知っているのかといいますと、私が犯人だからではありません。事件のあった暮れの10日には、しっかりと勤務していた出勤記録が残っていますし、お金に困ってもいませんでしたから。

 事件現場は、国分寺駅から府中駅に抜ける道路と、西国分寺駅から川崎方面に抜けていく道路を結んだ、府中刑務所の塀際を走っていた道路だったのです。この道は、冬場、霜柱が溶けて使えなくなったグラウンドでの練習に代わって、筋トレとかマラソンをしていたのですが、そのマラソンのコースが、この府中刑務所の壁際だったのです。今年の1月に帰国した折にも、兄の運転する車で、この現場付近を通ったのですが、くすんだ灰色だった塀が、きれいなペンキの模様が描かれて、中に入るのが抵抗なく感じられるような変化が見られて驚いてしまいました。高2の時に、八王子から通学していた一級上の先輩が、前を走っていました。塀の角を曲がったところで、急に消えていなくなるのが話題になっていたのです。一周だけ走って、あとは藪の中に潜んで、忍びの術をやっていたのです。気のいい上級生でしたが、八王子のアーケードのある店で、店番をしていたのを見たことがありましたが、今、どうしているでしょうか。この人がタバコを吸っていて、それが見つかって、わが部は廃部寸前の風前の灯だったのですが、2級上の先輩たちは、国体やインターハイで優勝した実績があって、廃部をまぬがれたのです。この学年と我々の学年の時代が最低迷の時期だったでしょうか、2級下の後輩は、ふたたびインターハイと国体で優勝したのです。

 そうですね、この刑務所の周りを走っていて、願っていたのは、『この中に入ることがありませんように!』ということでした。でも、『どんな風になっているのだろうか?』との興味はつきませんで、走りながら色々と想像していたのです。ところが、その願いがかなわないで、一度入ったのです。しかし懲役刑ではなく、この刑務所に入所されている方を訪ねるためでした。私たちの住んでいる街の南に、バスで2時間ほどのところにある街で、レストランを経営している御夫妻から頼まれまれてでした。ここに入獄している息子さんを見舞ったのです(病気をしていたそうですから)。事務所で係官数人で話し合ってくださったのですが、親族以外の許可は前例がないとのことで、『申し訳ありません!』と詫びられて、許可されませんでした。私が待っている間、何人もの家族が黙して座って居られました。とくに府中は、外国人が多くて、南米系の年配の夫婦が私の前を歩いていて、彼らも刑務所にやってきたのです。カメラを持って行って、息子さんを撮った写真をご両親にと思いましたが、これも叶えられませんでした。ただ、こちらで撮ったご両親の写真だけは、「差し入れ」として刑務官に預けましたので、元気そうなご両親の顔を、この青年は見ることができたでしょうか。


 私の子どもたちも、アメリカで生活していた時期がありましたから、この南米人の夫妻のように、息子や娘を刑務所に訪ねることがなかったことだけは、感謝しているのです。そう言えば、あの忍者の先輩は、お父さんが、組関係の仕事をしていたと聞いたことがありますから、もしかしたら、もしかしているかも知れませんね。彼が、よく平尾昌晃の歌を歌っていました。「ミヨちゃん」の三番を替え歌で歌っていたのです。

    ♯今にみていろ ぼくだって 素敵なシュートを 打ってみせる・・・・・♭

とです。この先輩の素敵なシュートは見ないまま、卒業していきました。ただ、素敵に人生を生きていてほしいなと思っています。天然パーマで、日焼けしていた黒い顔が印象的でした。厳しい運動部の中では、けっこう優しい方だったのです。いっしょに走ったこと、練習中に「ミヨちゃん」を口ずさんでいた先輩でしたから、会ってみたいなと思います。6億円は捕まって解決しましたが、あの事件は未解決のままですね。いーえ、この先輩を疑っているのではありませんので、はい。

(写真上は、中学から6年間乗り降りした当時の国分寺駅、下は、「府中刑務所」周辺の略図です)

おめでとう!


 この6月12日の日曜日に、07級生の「卒業式」があって、その祝福の会食が、鳳凰大酒店で行われ、列席させていただきました。この学年の2年次には、「会話」の授業を担当し、3年次には、「作文」と「視聴説」の授業をさせていただきました。4年次の授業も頼まれたのですが、授業数が多かったのでお断りしましたら、外国語系の主任の教授が聞き入れてくれました。今思いますと、担当したほうが良かったと悔やんでおります。教育関係の仕事を、長い間してきましたが、大学生を教えるのは初めてでした。何度か、日本の東京と地方の大学の講師のお話がありましたが、日本では実現しなかったのです。こちらに参りまして、友人となった方の多くが、大学で教えておられて、そんな関係から紹介していただいたのです。

 日本の大学生の実情を知りませんが、中国の学生は一般的に、知的好奇心が旺盛で、授業態度がよく、熱心に学び、応答もいいのです。しかも高校生のような、純な雰囲気を持って接してくれるのです。『一緒に写真をとらせてください!』と、次から次へと、十二分に女性の学生たち(女子の割合が極めて高いのですが)が、ピタっと体を寄せ、しかも胸も押し付けてくるのには弱りました。私が男であるのを忘れているのでしょうか、お父さんのように、おじいさんのように信用しきって近づいてくれるのです。

 これまで、『你们是大学生,所以・・・(君たちは大学生なんだから、・・・!』という気持ちを伝え、彼らを叱ったことは一度もありませんでした。私は性格的にいい加減なところがあるので、自戒し、大きな責任を委ねられたという覚悟で、家内が心配するほどに、一生懸命に授業の準備をして臨んでまいりました。授業が終わってキャンパスの中を歩いて、東門や北門のバス停まで歩くときに、軽い疲労感と共に、『なんて感謝なのだろう、こんなに充実した機会を与えられ、中国の若者たちに接し、しかも教える機会が与えられて!』といった、感動の思いがたびたび湧き上がってきたのです。

 彼らは、高校までの教育の中で、旧日本軍の侵略について徹底的な教育を受けて、「日本鬼子」という思いを培われてきていたのです。それなら、戦時下の日本人への憎悪、その子や孫たちへの反感は、きっと激しい物があるのではないかと思っていました。ところが、日本語を専攻する学生だからだけの理由ではなく、彼らからは敵愾心や復讐心といったものを全く感じなかったのです。極めて好意的で、戦争責任のことを口にしますと、『現在の日本人と過去の日本人間は違います。』、『軍人と民間人は違ったのです。』、『日本人も大きな苦しみを通ってきたことを知っています。』、『先生は優しくて責任感があって違います!』と、実に理解を示してくれます。そういえば、街を歩いていても、今のアパートに住んでいても、家内や私が日本人だと分かっても、特別な思いをぶつけられた経験は、全くというほどありませんでした。ただ、魚釣島の漁船事件の折には、厳しいものがありましたが、総じて中国のみなさんは、私たちに友好的なのです。

 『先生乾杯!』と、かわるがわる学生が席に訪ねてきました。コーラやスプライトやビールを注いでは、感謝をあらわしてくれましたので、『おめでとう!』と祝福を返したのです。卒業アルバムを持ってきて、サインをねだられました。様々に祝福のことばを書き贈りました。もう十分に大人となったみなさんは、すでに働いている方、これから省の公務員試験に臨む方、また日本に留学を計画している方と様々に、将来に眼を向けていて、大学生最後の夜を、教室では見せたことにない言動で喜び、別れを惜しんでおりました。ある方が、『先生、抱いてください!』と言ってきました。ちょっと息を飲んで躊躇したのですが、『いいよ、喜んで!』と言って、アメリカ人の男女の間でする《ハグ》をしました。そうしましたら、次から次と、要求されて、《ハグ》をしたのです。他の先生方もいましたが、まあ無礼講で許されることと確信し、別れをいたしました。

 人を教える責任、そして教える喜びは大きいものがあります。この9月からの新学年も、授業を担当する旨、卒業生に話しました。彼らの母校で、彼らの後輩を教える私を、彼らは祝福してくれたのです。『みんな、おめでとう!輝いた人生を精一杯に生きてください!』と、心の中で叫んで会場を辞しました。華南の夏の夜風は生温かく、雨がポツリと降り始めていました。彼らの多くは、これから社会人として自活していくことになりますが、2年生の時のあの初々しい表情ではなく、もう確りと大人の決意を顔に表していました。これから何人の卒業生と再会することができるでしょうか。
 
 ただただ祝福あれ!


(写真上は、向こうに教室を望むキャンパス風景、中は、この町の名物の「カジュマル」、下は、東門から西門へのキャンパス内を学生たちとそぞろ歩いた路です)

「水に流す」


 北上川、岩手と宮城の両県にまたがって流れる東北日本では有名な河川です。「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」を水源としていて、『蛇行しているのが特徴の川だ!』と、中学の地理と歴史で学びました。私の担任が社会科教師で、3年間、歴史や地理や倫理などを教えてもらいました。本当に熱心で、授業準備も半端ではなかったですし、小テスト、ガリ版印刷の資料など盛り沢山でした。朝礼や終礼、授業の初めと終わりに、どの教師も教壇の上から挨拶をしていた中で、この先生は、必ず教壇から降りて、私たちと同じ床の上に立って、頭を下げて居られました。髪の毛が薄かったのですが、眼のキラリとした方で、歯切れのいいい話をされたのです。

 この先生の授業で、「水に流す」という言葉を教えてくれました。goo辞書で調べますと、『過去のいざこざなどを、すべてなかったことにする。「これまでのわだかまりを―・す」 』とあります。私たちもよく使うのですが、『過去のことは水に流して、俺、新しい気持ちで・・・』とか言ってですが。K先生は、国語科の教師ではなかったのですが、この言葉の出典に触れて、この北上川の話をされたのです。江戸時代の盛岡藩、一関藩、仙台藩の領内を南北に流れていた農業上の重要な川でした。この地域をたびたび飢饉が襲うのです。有名な「天明の大飢饉(1782年~1787年) 」は東北地方を大きな困難の中に突き落とします。日照不足の冷害、凶作、飢饉、疫病などで大打撃を被ります。そんな中で、江戸幕府の田沼意次のとった政策によって、米の値段が急騰して、日本全体に影響が広がります。それでなくても貧しかった農村でしたから、被害は甚大でした。今回の東日本大震災の折には、世界中から物心両面での支援を受けることができ、『ガンバレ東北!ガンバレニッポン!』で立ち直りの途上にありますが、当時は、このようなことは全くありませんでした。


 『農村では食料がなくなり、飢餓がひどくなりました。それで田畑を手放したり、子どもを売ったりしたのです。』とK先生は教壇から語りました。さらにひどかったのは、生まれてくる子どもを捨てざるを得なかったのだそうです。それで、自分の手で殺すことのできないの両親は、コモにくるみ、籠に入れて、川に流したのだそうです。これが、「水に流す」という言葉の意味だと、先生は解説してくれたのです。毎日、白いまんまを腹いっぱい食べて、コロッケを肉屋で買い、駄菓子をキヨちゃんで買い、肉屋でアイスボンボンを買って食べていた私にとっては、大ショックでした。東北➪飢饉➪貧乏➪餓死➪子殺し➪「水に流す」で、中学生の私にとって実に印象の悪い地域になってしまったのです。ですから、高2の修学旅行で北海道に行ったときに、列車で通過しただけで、日光から北に行くことを長年避けていたのです。

 『北上川は蛇行していて、その曲がった地点に、《地蔵》があるのが特徴なのです!』とK先生は熱く授業をされました。「水に流す」で、北上川を流れ下っていく、胎児や嬰子は、その曲がった部分の岸に打ち上げられてしまい、それを発見した近くの住民は、地蔵を作って、幼い子たちの死を悼(いた)んだのです。うわー、悲しい日本の歴史、東北の歴史ですね。「わだかまり」どころか、重いいのちに関わることが語源だったことを知った次第です。今回の大震災のニュースを聞き、被害のひどさを観て、第一に思い出したのが、この「水に流す」ということばでした。繰り返し繰り返し、東北は日本の《スケープ・ゴート》のように叩かれ、打たれてきています。


 次男の許嫁が、この岩手県の山村で生まれて、東京で育っているのです。かつて、「日本のチベット」と、心無い学者や報道陣に言われていた地域です。彼女のお母さんの父君が、そこに住んでおられますが、今回被害は少なかったそうです。「列車紀行」という番組を、中国のインターネットのサイトで視聴できるので、《山田線・岩泉線》を観ました。実に自然の豊かな美しい地域です。私が感動して読んだ、浅田次郎の「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎が脱藩し、国際連盟事務局次長をした新渡戸稲造の出たのが南部盛岡藩ですから、そこから海岸部に寄った地域であって、興味が津津とつきません。今は、貧しさを克服して、豊かになっている東北です。最近、私は、《終の棲家》を、信州・駒ヶ根から、こちらにと心変わりしているのです。もちろん、住ませてくれるならのことですが。はい。
 ともあれ、再び、東北人は苦境に強いのですから、『ガンバレ東北!』

(写真上は、今は輝いて流れる「北上川」、写真下は、「JR岩泉線」の美しい沿線風景です)

小日本


 日蓮宗の寺院の子で、山梨県立一中、早稲田に学び、毎日新聞記者、東洋経済新報の記者・主幹・社主だった石橋湛山(1884年9月25日~1973年4月25日)は、71歳で第55代の総理大臣に就任します。病気によって、その在任期間は、65日と短かったのですが、名首相として名高い方です。甲府中時代には、札幌バンド出身の大嶋正健校長(クラーク教頭から直接薫陶を受けた第一期生で、内村鑑三や新渡戸稲造らの一級先輩)から大きな感化を受けています。一高(現在の東京大学の教養学部に当たります)の受験に、二度も失敗し、大隈重信の私学・早稲田の気運の中で学んだ人でした。

 政治的な姿勢は、「ハト派」で穏健でした。湛山が親中国の考えを持っていたこと、それが後の中日関係に大きく貢献し、田中角栄首相時代の1972年9月29日に、当時の周恩来総理と、北京において交わされた「日中共同声明」に導かれていくのです。政治家、総理大臣であったことよりも、一人のジャーナリストとして、多くのことを主張した点が、最も石橋湛山が日本の社会に貢献した点だと言えるのではないでしょうか。

 国を挙げて、国力の増強に躍起となっており、欧米の列強に肩を並べるための市場拡大、軍事力強化、食糧問題の解決のためにも、大陸中国、朝鮮半島、台湾、さらには東南アジアへの進出(他国への進出ですから侵略が正しいでしょう)を企てていきます。そういった国威発揚、拡大の考え方の裏で、この石橋湛山は、「小日本主義」を主張したのです。新聞記者として、その考えを、「東洋経済新報」の紙面で表します。


 天津で、2006年の夏から一年を過ごしている間に、中国語を教えてくれた先生が、「五大道(Wu da dao)」に連れて行ってくれました。イギリス(アフリカ系)やブラジル(台湾からの移民の子)から来ていた留学生仲間と一緒でした。私たちの娘と同世代の老師は、実に細かな案内をしてくれたのです。そこは「租界」でした。ヨーロッパのイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリア、ベルギーそしてアメリカ、更に日本が、街の一等地を分割して、「治外法権」の区域を定めていたのです。それは中国人が自由に出入りすることを禁じた、事実上の「外国」でした。上の地図は、1937年当時のものですが、当時、そのままの外観を保って、いわゆる洋館が並んでいました。近くには張学良邸などもあったのが印象的だったでしょうか。世界の先進諸国が、食指を伸ばしていた痕跡の一つです。これって「植民主義」だったのですね。


 この植民主義ですが、たとえば小国イギリスが、一番困ったことは人口が増えて、食物の賄いが足りなくなることでした。そこで軍事力と商業手腕とで、海外に市場と資源を求め、太陽の沈むことのない「大英帝国」を作り上げたのです。そういった動きはヨーロッパ諸国に影響していき、アメリカでさえも、その動きの中にあったのです。そして、わが日本も、それに倣おうとしたわけです。大日本帝国を作り、アジア支配(かつては東洋支配と言いましたね)の野望に燃えるのです。そのような中で、石橋湛山は、軍縮の提案をします。第一次大戦以降、中国の権益・青島支配などの「二十一か条条約」に反対の立場を取ります。また、朝鮮・台湾などに「自由」を与え、中国に存在する日本の特権のすべての放棄を掲げます。それは、「反植民主義」でした。幕末に、危なくアメリカやイギリスやフランスの植民支配からまぬがれたのに、その日本が植民主義をアジアで展開しようとしたのですから、矛盾していたことになります(歴史的にはもうすこし深い意味もありますが)。
 
 あの時代の動きに流されないで、全く別な観点から日本の将来を見ていた石橋湛山の考え方は、勇気あるものだったと言えるでしょうか。仏教徒でありながら、死の床には、「日蓮遺文集」と「聖書」が置かれていたそうです。多感な青年期に、人から受ける影響力、人を形作る書との出会いは甚大なものがあるようですね。あの大嶋正健から、『如何生きるか?』の人生観を学んだことも特筆すべきことであります。

(上の手紙は、石橋湛山が母校・高中学校に送ったもの、下の写真は、右端・大嶋正健で真ん中は内村鑑三です)


 「いじめ」をgoo辞書で調べますと、『肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって苦しめること。特に、昭和60年(1985)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い。 』とあります。1985年は、第二次ベビー・ブーマーたちが中学に入ったj時期で、私の長男がそうでした。彼らは、急ごしらえのプレハブ校舎で勉強していたのです。漢字ですと、「虐め」とか「苛め」と表記し、英語ですと”bullying”、中国語ですと「欺负(qifu)・・・侮辱すること、ばかにすること」とあります。たしかに昔からありました。近所に一級上のマコっちゃんがいて、女4人姉妹の中の男の子で、ちょっと変わっていました、あっ、私も。ある時、一級違いは体力の違いも相当あって(私は肺炎で小学校4年の始め頃まで、病欠児童だったのです)、彼が私の上にまたがって殴り始めたのです。こちらは、男兄弟4人の中で揉まれていますから、そんなにヤワではありませんでしたので、体力の差を補って、泥を右手で掴んで彼の顔に投げつけてやりました。それで私を放した彼は泣いて家に帰って行きました。それから、二度と私の上をまたぐことはなくなりました。そんな彼でも、今のいじめっ子のような《陰湿さ》はなかったと思います。よく一緒に遊びましたが、我慢のない子でした・・・私も。

 いじめ対策は、経験からすると、綿密な作戦計画があれば、どうにかなります。最近、NHKアナの有働さんが、相当な汗かきであるのが話題になっています。私も、汗かきで、『これって健康だからだよねー!』と思っています。ところが視聴者から、局宛に相当数の苦情ファックスがたびたび入るのだそうです。また、いっしょの番組に出るアナの天然パーマの髪の毛にも、『チャライ、丸刈りにしろ!』と言ってくるのだそうです。これって、目に見えない「いじめ」ですよね。

 何でも思っていること、感じたことを、言葉で表現する自由がだれにもある時代になりました。言論統制のあった戦中や戦前のことを考えると、素晴らしくよい時代になったのですが。ところが今日日、過激、逸脱、暴走が見られるようです。ブログ、ホームページ、ツイッター、コメントなどが荒れているようです。これって、言葉の暴力であって、実に怖いものです。ある主張をすると、それを槍玉に挙げられて、非難される。そうされた方は、自分の発言を撤回したり、消去したり、お詫びや謝罪をするのです。知らん顔をして無視していると、轟々たる非難が上がって収集がつかなくなり、社会的生命や評価を失う方だって出ているそうです。何を言われても、人の口には戸を立てられないのですから、聞き流し、無視し、過剰反応してしまわないのがいい!

 私もブログを始めて、何年にもなりますが、意外と自制しながら書いているつもりでいます。書きたいことって、山のようにありますし、警告も批判も揶揄も, 怒りだって表現したいと思う時があります。でも書きすぎないように、遠慮がちにといつも思っています。幕末の幕臣で、薩長連合と図って江戸を砲火から救った勝海舟の《江戸版のブログ》、随筆が残っています。彼の、明治政府への苦言ですが。『・・・代わりはないサ、・・・角力を取つたこともある位だのにナ 、・・・といふ精神の関係だらうヨ・・・ 』と、「黙々静観」に記されています。語り口が砕けていて気取りがなく、どうしても元旗本の口調ではないのが面白いのです。彼の墓が、大田区の池上にあって、友人に連れられて見学に行ったことがあります。『だからサ、人を励まし、生きていく意欲を高め、幸せにする書き込みをすべきだよネ。そうだろうヨ!』、勝海舟だったら、ネ、サ、ヨで、こう言うでしょうか。


 人の生理的特質の汗もそうですが、一国の総理大臣を、バカ呼ばわりする風潮があります。仮にも、民主的な選挙で、国民の総意として選出された頭領なのです。主義主張、支持政党は違っても、そこまで言ってはいけないのではないかと思います。民主主義をはきちがえているのは、いただけませんヨ!ネッ!子どもころによく言いました、『馬鹿、バカという馬鹿は、おのれのバカを知らぬ馬鹿!』

(写真上は、勝海舟、下は、西郷隆盛と勝海舟の会見の様子です)

ペン

 
 『「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言えり・・』 で有名な福沢諭吉(1835年1月10日~1901年2月3日)が、24歳の時に、アメリカを訪問しますが、その折の逸話が残っています。彼がアメリカ滞在の思い出話として、「福翁自伝」の中に記しているものです。それは、

 『私が不図(ふと)胸に浮かんである人に聞いてみたのは、他でもない、今、華盛頓(ワシントン)の子孫は如何(どう)なって居るかと尋ねた所が、其の人の云うに、華盛頓の子孫には女がある筈だ、今如何なって居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る様子だと、如何にも冷淡な答で、何とも思って居らぬ。是れは不思議だ。勿論私も亜米利加(アメリカ)は共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫と云へば大変な者に違いないと思ふたのは、此方(こっち)の脳中(のうちゅう)には源頼朝、徳川家康と云う様な考があって、ソレから割出して聞いた所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思ふたことは、今でも能く覚えて居る。』

です。人への関心の濃淡が、日本とアメリカでは、これほど違っていることに、諭吉が驚いたわけです。私の父の唯一の自慢話は、『源頼朝から地領を戴いた鎌倉武士の末裔になのだ!』ということでしたから、頼朝の家来と言っても、900年もたった末裔なのに、そんな誇りを覚えている、これが日本人なのでしょうか。諭吉も、『大統領の子、孫、曾孫なら、相当なもので、未だに関心の的に違いない!』と思って質問したのでしょうけど、その《冷淡な答》を不思議がり、驚き、期待を裏切られたのではないでしょうか。今だって、人気のある映画俳優やスポーツ選手などの行動や活動の一挙手一投足に関心を向け、影響されやすい人のことを、《ミーちゃんハーちゃん》というのですが、日本人の《ミーハー》ぶりには、ちょっと恥ずかしく思ってしまいます。実は、『どうでもいいこと!』なのですから。

 欧米人は、今の自分が、どのように生きているかが大切なのであって、《親の七光り》の特恵を被って、政治的な、企業的な立場を受け継ぐことが当然視され、学閥、門閥が闊歩している日本社会とは、全く違うことを知って、諭吉は欧米理解を深めたのではないでしょうか。彼が、1887年に著した「学問のすすめ」の冒頭にある、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、《アメリカ独立宣言》からの引用で、こう言った考え方を、日本に紹介した点で、「富国強兵」の当時の国家施策とは違った点で、日本を近代化していく大きな働きをしたことになります。


 聞くところによりますと、諭吉は、豊前中津藩(現大分県)の下級武士の子として大阪で生まれます。相当な剣の使い手(免許皆伝だったそうですが、明治維新の廃刀令の折には、未練なく剣を捨て、ペンに持ち替えたのです。そのペンの力で、日本の近代化を推し進めたわけです。維新政府は、欧米に劣る軍事力の強化、近代化された産業を起こすために躍起になりましたが、諭吉は、教育事業こそ、日本の近代化の要であると見抜いて、それに生涯を捧げていくのです。慶應義塾の校章には《ペン》が描かれているのは、このためです。

 この諭吉が真の教育者であったというのは、26歳で同じ中津藩士・土岐太郎八の次女・錦 と結婚しますが、生涯、妻以外の女性を知らなかったとの生き方から、そう言えるのではないでしょうか。郭遊びや愛妾を持つことは、男の甲斐性のように言われた日本の社会、とくに幕末や明治期では、実に稀な人格高潔な家庭志向の人格者であったことが伺えます。

 うーん、明治人の生き様は、とても魅力がありますね。明治生まれの父には申し訳ないのですが、私には、鎌倉武士の誇りなど、全くないのです。私の誇り、何でしょうか・・・・・・・・・・・・、そう、弱さでしょうか!

(写真下は、鎌倉武士の長谷部信連 以仁王見送りの図(部分)です)

死生

高校生の兄が読み終えた「足摺岬」 を、『待ってました!』とばかりに、中学生の私は読んだのです。『早く大人になりたい!』と願って私は、体だけではなく、心も頭も思いっ切り背伸びして兄のようになりたかったからです。この本は、高知県の南端にある岬で、東尋坊(福音県)、青木ヶ原樹海(山梨県)、白浜(和歌山県)に並ぶ、実は「自殺名所」が舞台なのです。案の定、主人公も死に場所を求めてここを訪ねます。念のため、私はこの本を読んで自殺を誘発されたのではなく、黒潮踊る男っぽい海に突き出た岬に立ってみたかっただけです。この四月に高知に行きましたときに、室戸、大山、そしてこの足摺の岬巡りをしたかったのですが、時間とお金の都合で、高知の東側の室戸と大山だけを訪ねただけで終わってしまいました。室戸岬は、昭和34年に、ペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」の歌詞の中に、

# 故郷(くに)の父さん 室戸の沖で 鯨釣ったという便り・・・♭

と聞いた時から、『行ってみたい!』と思っていましたから、何と50年ぶりに夢が実現したことになります。ただ鯨のカゲはなかったのですが、幕末に、京都四条・近江屋で、龍馬と共に襲撃されて果てた中岡慎太郎の大きな銅像が、海の彼方を眺めるようにして立っているだけでした。

大山岬は、私の恩師の研究対象の一つが「万葉集」で、江戸末期の萬葉研究者・鹿持雅澄についての学術書を著しましたが、その雅澄が大山勤務をしたときに読んだ和歌の碑があるので、どうしても訪ねたかったからです。病弱な妻を高知に残して、単身赴任していた折に、遥かな菊子を詠んだものでした。

あきかぜの 福井の里に いもをおきて 安芸の大山 越えかてぬかも

「福井」とは、高知城下の町の名で、そこに家があったからです。「いも」とは、妹のことではなく愛妻のことです。どの時代も、妻を愛し、夫に仕える夫婦の姿は、その人や家庭の安定や祝福、二人から生まれてくる子たちの将来に希望を持たせるものです。菊子亡き後、四人の子を男手ひとつで育て上げるのです。

さて、この「足摺岬」は、田宮寅彦の青春回顧録でした。宿の主人や家族、四国の霊場を巡る巡礼者との出会い、語らいを通して、自殺を諦めて東京に戻る青年が主人公で、十代前半の私には強烈な印象を与えられたのです。生きることで一杯で、死ぬことなぞついぞ考えたことのなかった私ですから、『十代の後半には、そんな危機だってありうるのだろうか!?』と思わされたのを覚えています。

ところが、足摺岬に死にに行って、死ぬ理由よりも、生きる理由を見出した寅彦だったのですが、77歳の時に、脳梗塞が再発して、『もう書けない!』と悲観して、今度はマンションの11回から投身してしまうのです。書くことが命だったのでしょうけど、失ってしまったものに心を向けるよりも、どうして残されたものに目を向けて生きていこうとしていかなかったのでしょうか。あんなに繊細な青年期の思いを綴ることができる、人間理解の深い人だったのに、残念でなりません。彼の死には、ガンで死別した妻への思いが深く、死んだ妻との間で往復書簡を交わすといった内容の、「愛のかたみ」を、45歳の時に著していますが、ここに彼の自死の伏線があるのではないでしょうか。

雅澄は妻亡き後、子育てと萬葉研究に励みます。寅彦も、妻と死別しますが、《人が人であることへの絶望感 》といった彼の考えが災いになって、死を選ぶのです。同じ高知、《土佐っぽ》なのに、愛する者との死別をどう捉え、どう超えていくーどう生きていくかの方法が違ったのは残念なことであります。しかし、この本は、読むべき一冊かと思います、日本人の心を理解し、その上で生きていくために。

(写真は、「足摺岬」です)