ごめんなさい!

  .

 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』、これは私の父が、小さなメモに書き残したことばです。私は、これを大切にファイルの中に、「父の座右の銘」としてしまっております。YAHOO辞書で調べてみますと、『無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。〔補説〕 禅家の公案とされ、1582年甲斐(かい)国の恵林寺が織田信長に焼き打ちされた際、住僧の快川(かいせん)がこの偈(げ)を発して焼死したという話が伝えられる 。』とありました。このことばは、父の世代の人が教えられた処世訓のひとつなのでしょう。

 摂氏40.4度、これは日本の観測史上第2位の高温記録を示した2004年7月21日午後4時の甲府市の気温です。父の書き残した言葉によりますと、あの暑さの中でも、心持次第では、涼しさを感じる事ができると言うのです。でも、どんなに私が努力をしてみても、あの日、甲府にいた私が感じた気温は、40.4度でした。しかし、その前日の方が暑かったように感じたのですが。この体感温度というのは、屋外の白いペンキで塗られた百様箱の中の寒暖計温度が標準温度なのですが、それとは違うのです。灼熱の太陽に熱せられたアスファルトの上で、空気のよどんだ中での温度は、ゆうに4~5度は高かったのではないでしょうか。今年も、群馬県の館林では、41.3℃になるとの予想が出ております。


 ところで、私たちが住んでいます華南の街は、「竈(かまど)」の様だといわれています。最近の統計によりますと、中国で最も暑い街は、福州、杭州、重庆、长沙だそうで、犬が、道端の溜まり水に横たわってお腹を冷やしている街の光景を目にしたこともあるほどです。今日は、最高位温度37℃、最低温度27℃の予報が出ております。『雅仁、人生には、苦しい事が多い。一人の男、夫、父として、また一人の市民、国民、地球人として生きていく上で、苦しさに負けないで生き抜くんだ!』と言われたように感じています。61年の父の短かった生涯のことを思うことが、私にはしばしばあります。父は、火の様な人生を生きて来て、耐えかねることも、涙を流して泣いたこともあったことでしょう。県立の横須賀中等学校に入学したのですが、家庭の事情で、東京の私立学校に転校し、親戚に身を寄せて通学しなければなりませんでした。十代の前半で、生まれた家や家族から遠く離れて、友人たちとも別れなければならなかったのは、不本意であり、やはり辛い体験だったに違いありません。

 「ジョゼフ」ですが、17歳の彼が、母違いの10人の兄たちに妬まれ憎まれ殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまうのです。そのエジプトでも何度も不遇の体験をしますが、30才でエジプトの王パロに継ぐ地位に昇進するのです。「人の悪意」の背後に「至高者の善意」を、ヨセフは発見するのです。その「善意」が、彼の人生に、いつでも、どこでも及んでいたのです。彼の不幸な体験は、父や兄弟たちを大飢饉から救うためであり、やがて、この家系から出る者が、人類に大きく貢献していくのです。私の父も、過酷な人生を耐えて生き抜いてくれたことで、私たちの今があるわけです。ヨセフは、そんな兄たちを赦したのです。その様に、父にも赦すべき人があって、人生の最後の病床で、赦す言葉を私は聞きました。子どもの頃の辛い日々のことではなく、懐かしく楽しかった日を思い出して語っていたのです。『辰江さん(それまでは「あれは・・」としか言いませんでしたが)は、料理が上手だった。シュークリームを作ったり、カツを揚げて食べさせてくれたよ!』と話していました。母から聞いた話ですと、『弟や妹にはおかずがいっぱい入った弁当を持たしたのに、俺のは〈日の丸弁当〉で、梅干だけだったんだ!』、と激白していたようですが。そのように、母は父の語らない子供時代の様子を時々話してくれました。きっと、父のひがみもあったかも知れませんね。産んでくれた母は、家格に合わないとの理由で離縁され、継母に養育されたのです。

 
 そんな死の間際に、継母を赦す父の姿を見ることができたことは、感謝なことであります。私たちの幸いは、このような〈坩堝(るつぼ)〉の中にいることが耐えられるように造られているではないでしょうか。私にも赦されなければならない人、赦していただかなければならない人がいます。みなさんはいかがでしょうか。「心頭滅却すれば」、人を赦せるのかと思いますが、駄目ですね。自分が、今、赦されて生きているという事実に立たない限り、人を赦すことができないのに違いありません。相手よりも先に、『ごめんなさい!』と言いたいものです。

8(写真上は、「枯山水(かれさんすい・恵林寺の庭園)」、中は、「華南の街」、下は、「横須賀の海」です)

だって!

                                                .

 『嘘の公約で、政権を奪取しました!』、ラテン語だかイタリア語だか分かりませんが、マジックをかけたような、耳に響きの良い《マニフェスト(「共産党宣言」にこの語が翻訳に当てられています》」という語句を使って、口先の術で、国民を煙に巻いて騙したのだということを、今朝のニュースが伝えていました。政権を掌中にしてから、『財源の見通しが甘くて・・・』と先の選挙時の約束破りを、理由をつけて陳謝したからです。初めから実現性のない約束をしておいて、今になっての謝罪するとは、ただただ呆れ返るばかりです。昨年帰国時に、保守的だった次兄が、一生懸命に民主党(旧社会党)の代議士候補を応援しているのを見て、『どうして?』と驚きました。

 私の政治的背景は、曾祖父がK県の県会議員をし、県会議長もしたと聞いていましたし、国民の総意、いえ天意で長く政権を守り続けた政党を支持するのが一番だと、無言のうちに父にも教えられて来ましたから、保守陣営を私は支持してまいりました。人の集まりですから、完璧ではないことは十二分に承知しておりました。汚職や法からの逸脱など、問題がありましたが、総じて高評価を私は下してきました。吉田茂も、鳩山一郎も、石橋湛山も、田中角栄だって、戦中の名宰相の広田弘毅とともに、好きな政治家でした。ブログを読まれて、もうご承知と思いますが、このように自分の政治の背景を表明するのは、初めてのことです。

 それにしても、今日日、自民党にも、『この人ならば!』という器を見いだせないのが残念でなりません。国会答弁を聞いていて、溜飲の下がる思いをしたことのある亀井静香は、離党してしまいましたし、中川昭一は、急性心筋梗塞で、惜しくも亡くなってしまいました。「昭一さん」には、ぜひ、いつか政権を委ねたいと思っていましたので、その急逝を非常に残念に思ったのです。憂国、愛国、国際平和を願う世界人、『子供たちが日本に生まれたことに誇りを持てる教育を! 』と願う器が育っているのことでしょう。現政権は早期に退陣して、こういった器が担ぎ出されることを、切々として願うのであります。健全な政治信条を掲げて、希望に満ち溢れる国づくりに邁進してくださるリーダの台頭を切望します。


 奴隷として売られた国で、王に次ぐ第二の位について、国政を司った器がかつておられました。この器は、世界が大飢饉に瀕したときに、驚くほどの知恵を用いて、飢饉前の大豊作期に、莫大の量の穀物を備蓄したのでした。長期にわたって世界が大飢饉に陥ったとき、世界中の国々から、この備蓄された食糧を求めて彼のもとにやって来ました。その中に、彼の属した民族の代表がいました。この民族が滅びる事のないように、『天意によって、自分は前もって、この豊かな国に遣わされたのだ!』との告白を残しています。この大災害の後の復興のおぼつかない我が国、将来復興の見えない日本、あらゆる面で低迷している日本、どのように政を司ったらいいのか全く分かっていなくて右往左往している政権に落胆させられている日本、そんな日本に、世界中が激励メッセージを送り続けています。テニス選手のシャラポアが、被災国日本に心を向けてると聞きました。私たちの中国の友人たちも日本の復興を心にかけていてくれます。「なでしこJAPAN」が起死回生の快挙を遂げてくれました。なによりも戦争後の廃墟から立ち上がった父や祖父の時代の根性の〈遺伝子〉を、現代の日本人が確りと受け継いでいるのですから!

 だから、手前味噌な、私利私欲な、小心翼翼な器に代わる、謙遜で国と国民を愛する首長の就任を心から願ってやみません。奴隷として砂を噛むような青年期を過ごし、その才覚を認められて世界を襲った滅亡から救った、「ジョセフ」のような宰相がいたら素晴らしいですね。このところ、そんな事ばかり考えております。日本の現状を憂い、日本を愛するからです。だって!日本には、年老いた母がいて、息子たちがいて、孫たちがいて、兄弟姉妹・友人・知人・同胞がいて、彼らが輝いた明日を生きて行けるように願うからであります。「一家人(yi jia ren)」の幸せを!


(写真上と下は、日本のための「祈り」、中は、王に進言する「ジョセフ」です)

危惧

                                                .

 「七十年安保」に反対した闘争が、1968年頃から激化し始めていました。日本中の高校や大学を席巻し、学業や研究どころではなくなっていました。まるで戦乱の最中(さなか)に、日本が放り込まれたかのような喧騒と怒号があふれていたのです。67年に学校を終えて、JR市ヶ谷駅や九段に近いところに本部があり、研究所と研修センターは、都下の織物の街・八王子にあり、そこに勤めていました。4年目の正月を迎えた頃、中野区内の高等学校からの招聘があって、そちらに卒業証明書などを提出する必要がありました。それで、久しぶりに母校に行ったのです。

 バス停を降りて校門に向かって右に曲がったとき、私の眼に校門が鉄条網で何重にも巻かれているのが目に入りました。安田講堂の占拠、新宿駅の騒乱、多くの大学の閉鎖は、テレビの映像で観ていましたが、自分の出た学校までもが同じだったのです。構内に入るには、人一人が出入りできるだけの隙間があるのみでした。早慶のような知名度はないにしろ、自分の母校の変わり果てた様子は、悲しいというよりは、〈憤り〉を覚えました。授業は行われていませんでしたが、事務室は開いていて、書類の発行をしていただいたのです。

 私は、デモや投石やゲバ棒による社会改革など、全く考えたことがありません。徒党を組んで権力に反抗するような主張にも反対でした。ほとんどの日本人、学生も社会人も、そう考えていたと思います。そういった主張は、中国の紅衛兵運動から始まって世界中の若者を巻き込んでいた時代だったとかと思いますが。日米安全保障条約が自動延長することに、賛成派だったからもあって、極東の緊張の中で、緊密で親密な日米関係は必要不可欠だと、私は思っていました。自衛隊があることも、警察庁に公安部があることも、国の安寧秩序を守るためには、あってしかるべきだとの結論を下していたのです。何よりも、国土も文化も生業も、先達たちが守り残してくれたもので、それらへの感謝が心の中にあるからです。しかし、かつてのような侵略戦争に賛成しているのではありません。国を脅威から守ることは、国の当然の行為であり、平和を願う一人の国民として市民として当然だと考えていたからです。


 私より二回りほど年配のアメリカ人実業家は、『私は、家族を守るためには、家に侵入して害を与えようとするものに向かって、銃をとります!』と言うのを聞きました。彼が日米の太平洋戦争に従軍した兵士だったからではなく、ひとりの市民として家族を守りたいとの心情からの思いなのです。彼は平和を愛する、実に穏健なものの考えを持たれ、人柄はとびっきり柔和な方でした。こういった方の考えの基調は、「義」や「愛」や「平和」なのです。私の愛読書には、『・・・義と・・・愛と平和を追い求めなさい。愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです・・・争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。 』と書いてあります。

 こういった学生運動の中に、現首相、前官房長官などがいました。この二人は、かつては官憲に刃向かってゲバ棒を振り、火炎瓶を投げ、「浅間山荘事件」で内部ゲバでいじめや殺人を犯した赤軍派と、同じようなスタンディングをとっていたものなのです。所属した派や犯行の仕方こそ違っていても、彼らは大同小異、暴力による反抗集団の一味で、目指していたのは国家転覆だったことは間違いありません。ただ彼らの、その頃を知っている方の話ですと、この二人とも、浮腰で小心翼翼として、第四列目に位置していつでも逃げ切れる位置を確保しており、前線で火炎瓶を投げていた学生の弁当運びをしていたのだそうですが。煮え切らない、燃え切らない学生運動家、挫折した中途半端な学生運動家でした。しかし、一国の首長になっても、その〈反抗心・暴力革命の心〉は持ち続けているに違いありません。最近のニュースによりますと、北鮮の拉致に協力した犯罪者の子が所属する政党に、5000万円以上の政治献金をし、彼の属する政党からも1億数千万円の献金をしてきたのが、現首相だと報じています。


 どうしても日本が心配です。一国の政府の首脳が、このような過去を持つというのは、どうしても悲劇で、今後の動向が危惧されて仕方がありません。今こそ、上杉鷹山のような、西郷隆盛のような、広田弘毅のような人材が、国に求められているのではないでしょうか。清廉潔白で、判断力と決断力に富み、愛国の志を持つ、少なくとも五十代前半の政治家の出現を望むものです。そういった器が、備えられていると信じる七月の下旬であります。繰り返して、同じことを申し上げたいのです。

(写真上は、「母校」の玄関脇の様子、中は、「70年安保」の様子〈四列目にカンがいますか?〉、下は、上野の「西郷隆盛像」です)

つけ

                                                     .

 《脱原発》の動きが急加速していますが、経済が冷え込んでしまうことが懸念されています。電力供給が少なくなったり、不安定供給になってしまったら、生産活動が停滞してしまいます。企業の脱日本、失業問題、収入の減少、購買力の低下、税収入の激減による公共事業や公的扶助の減少、犯罪の増加、青少年の生きる意欲の低下、社会不安はますます大きく強くなってしまうのではないでしょうか。

 日本という国を、もう少し《鳥瞰的(goo辞書によりますと『(形動) 鳥が上空から見おろすように全体を広く見渡すさま。”学界の現況を―に論ずる”』》に見なくてはいけないのではないでしょうか。日和見的な小手先だけの〈やっつけ仕事〉では、国力を更に弱めてしまうだけです。目先だけの対策や計画では、戦後60余年の間に築き上げ、獲得してきた国際競争力を低めてしまうからです。


 危険なものは、身の回りにたくさんあります。自動車だって、時として凶器に変貌することだってあります。身近の食べ物や飲み物だって毒性を含んでいる可能性は非常に高いのです。大気だって汚染されていて、吸い込めば肺や内蔵に蓄積されます。火山だって、環太平洋火山帯の上に位置しています我が国ですから、いつ爆発するか分かりません。地下から有毒ガスだって噴出しかねません。世情が不安ですから隣人がいつ牙を向いて襲いかかってくるか分からないのです。子どもたちを外出させなかったら学校にも行けないし社会性だって育ちません。しかし、ダイナマイトが危険だからといって、工事現場で使わなければ、作業時間も人員も経費も莫大なものになってしまいます。X線が危険だからといって使わなかったら、癌などの初期治療や処置の機会を失います。昔、天がいつ落ちてくるか分からなので、外出ができない人に会ったことがあります。百年前に生まれた父たちの時代に比べるなら、地球上の危険度は、考えられないほどに高まってきているのです。

 でも人は生きていかなければなりません。危険と隣り合わせで生きなければならないのです。そういった社会を作り上げてしまったのですから、後戻りはできません。危険なものをすべて排除するというのは、東京の街に1200万人以上の人が住んでして、狩猟や採取生活を、裸でさせるようなものです。狩猟をする獣も採取する木の実も間に合わないし、21世紀の人間には〈羞恥心〉があって、裸に戻ることなどできません。100%生きられないのです。コンビニだって、スカイツリータワーだってない社会なのですから。危険回避が最終的にもたらす結果が、これです。政権の維持、保身、人気取りでは、日本の今の危機を救うことができないのです。日本を、アジア圏を、世界を、総合的に鳥瞰的に眺めながら、良い案を考えていきたいものです。日本を見舞った「東日本大震災」に対して、世界中から善意が寄せられたことを覚えるとき、世界は協力して、この時代のリスクを共有しながら、より良い世界になる努力を重ねていけると思わされております。

  
 どうしても、我々の世代や父の世代の《つけ》を払わなかれば、もう生きて行けないのです。過大な請求書を、これから生きていく人たちに突き付けられているわけです。無視したり、蓋をすることなどできないのです。体の中に《肝臓がん》を発見して手術を行います。全摘出よりは、部分摘出をして、残った健全な部分を大事にいたわるなら、まだまだ生きていけるます。癌を残して、針で縫っておしまいにはできないのです。ただ死期を待つのみです。地球も全人類も、まだまだ生きていかなければならなのですから。全否定ではなく、上手に危険度を少なくする努力をしながら、人も施設も技術も遺産も、共存社会の中で生きていく以外にないのではないでしょうか。そんなことを、アブラゼミの鳴き声、隣人の大声を聞きながら考えている、引越し10日前の私です。

(写真上は、静岡県の「浜岡原発」、中は、2011年2月1日の「新燃岳」の火山活動、下は、「地球」です)

おめでとう!

                                           .

いやー、すごかったですね、日本がアメリカを下して、「サッカー女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会」で優勝したのです。おめでとう!よく頑張りました。決勝は、ドイツのフランクフルトを会場におこなわれました。日本時間の18日の早朝、北京時間の2時過ぎから、Keyholeテレビで、フジテレビの音声番組を聞いてしまいました。映像がなかったのですが、実況を聞きながら、プレイを思い描いていました。最優秀選手には日本の沢穂希(INAC)が選ばれ ました。よくやりました。


この日本チームで思い出すのは、2007年9月、中国浙江省で行われた試合の後で、強烈なブーイングとやじの中を戦い終わりながら、『ARIGATO 謝謝CHINA』と三ヶ国語で書いた横断幕を掲げて、観衆に頭を下げて感謝していた様子です。『このチームは違う!』と感動を覚えて、応援し続けてきましたから、今回の優勝を、心のそこから祝福したいのです。

(写真上は、横断幕で感謝する「なでしこ日本」、中は、優勝を歓喜する「なでしこジャパン」、下は、今回の大会で大活躍の「沢穂希選手」です)

鄭成功

                                                             .

 近松門左衛門(1653~1724)が、人形浄瑠璃の演目として、「国性爺合戦(こくせんやがっせん、国姓爺が本来の表記ですが)」を書きました。この演目は、近松の最高傑作と言われています。後に、歌舞伎でも上演されていますが、この主人公が、「和藤内(後に〈国姓爺〉に改名」です。1715年に、大阪の竹本座で初演があり、今でも上演されていて、市川團十郎のお家芸の一つなのだそうです。この国姓爺のモデルが、「鄭成功(Zheng Cheng gong 1625~1662)」です。彼の名前の経緯は次のとおりです。『ある日、鄭森(成功)は父の紹介により、隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせると ころだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗っ たが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「老人」を意味するのではなく、「御大」「旦那」といった親近感を伴う敬称)と呼ばれるようになる(Wikipediaによる)』とあります。

 この鄭成功は、中国の国営テレビでは、「大英雄・鄭成功」というタイトルで番組の放映されていますから、国民的英雄の一人で、福建省や台湾での尊敬は格別なものがあります。彼は、1624年、長崎平戸で、中国人の父・鄭芝龍、日本人の母・田川マツの子として誕生しています。お父さんの芝龍は、福建省泉州に生まれ、裕福な貿易商の子供として育てられます。青年期にオランダ船に乗り込んで、長崎の平戸にわたり、そこの内浦に住みます。平戸藩主に気に入られ、藩士・田川七左衛門の娘を妻とし、子が与えられるのです。それが幼名を福松と呼ばれた、鄭成功なのです。彼は、7歳の時に、父の故郷の泉州に帰り、15歳で〈院考(官吏となるための試験)〉に合格し、高級官僚への道が開かれます。15歳で、南京(明朝の副首都、ちなみに首都は北京)で学び、隆武帝に重用された彼は、満州族の「清」に滅ぼされようとする「明」を守るのです。


 この頃の彼の呼び名は、鄭森でしたが、後に、上記のように鄭成功に改めたのです。日本の戦国時代のように、国の興亡、支配者の乱立がみられた時代で、清の台頭、明の滅亡の時期に活躍した軍人、政治家でした。清に滅ぼされようとしている明を擁護し、抵抗運動を続け、台湾にに渡り鄭氏政権の祖となっています。ですから、台湾では、オランダ統治から解放した功績によって、民族的英雄として崇められ、慕われる歴史的人物なのです。

 この鄭成功が馬上ゆたかに、台湾に眼を向けている像が、泉州市の中心の丘の上にあり、日曜の夕方、案内されて見学させていただきました。中国は、何でも大きなものを建造するのですが、これはひと際大きかったので、圧倒されてしまいました。この像の周りは、海から吹いてくる風が心地よく、真夏の宵の夕涼みで、老若男女、大勢の市民の憩いの場、ジョギング・コースとされて賑わっていました。日本では決して見られない物を見て、中国のみなさんの心の大きさや広さが、こういった歴史上の人物への敬慕の情をうかがいつつ知ることができました。4年ほど前に訪ねた、「厦门(Xia men)」にも、この鄭成功の巨像があったのを思い出しましたのです。

 中日の交流は、はるか昔の「遣唐使」や「遣隋使」の時代に遡ってなされていました。それよりも以前から、民族の移住や定住がなされていて、日本人のルーツの一つが中華民族であるとされております。遠い昔から行き来が盛んだったように、中国人と日本人の両民族の血を受け継ぐ、鄭成功のような人物が、明末の時代に活躍し、現代の中国のみなさんから、高く評価されていることは驚くべきことです。日本人の血を受け継いでいる鄭成功への偏見など、中国のみなさんには微塵だにないことを知って、中日の関係の将来には大きな希望が見えてきて、大変感謝なひと時でありました。

 
 教え子のボーイフレンドのお母様が、彼の誕生祝いの食事に、大変豊かな料理を作っていました。私もご家族と一緒に食卓を囲んで、お相伴(しょうばん)にあずからせてくださったのですが、その中に泉州風味の〈唐揚げ〉がありました。美味しくて、お土産にも頂いたのですが、『どこかで食べた味だけど、どこだろう?』と思い巡らしていましたら、私の母が、よく料理してくれた味と、とても似ているのを思い出したのです。もしかして、母の味覚のルーツは、中国、福建省、泉州かも知れませんね!

(写真上は、歌舞伎・市川團十郎の「国性爺合戦」、中は、「鄭成功」、下は、「泉州の港」です)

氷解

                                                     .

 1978年10月、当時の中華人民共和国主席・鄧小平氏が、日本を訪問されたとき、戦争で焼土と化した日本は、「朝鮮戦争」のアメリカ軍からの戦争特需を受け、産業界が勢いを増し、その流れの中で電機や自動車などの重工業部門の躍進、貿易の黒字、当時の世界最速の東海道新幹線の開業、オリンピックの開催があって、戦後、33年の歳月が経過していました。

 中日関係も、1972年9月に、田中首相の訪華によって、長らく途絶えていた国交が恢復しました。9月29日、北京における「日中共同声明」の時に、田中首相は、

 「過去数十年に亙って、日中関係は遺憾ながら、不幸な経過をたどってきた。この間、我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものである 。過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。 」


と謝罪をしました。そのような経緯があっての鄧小平氏の訪日でありました。好奇心の旺盛な鄧氏は、京都・大阪に出かけ、新日鉄の君津製鉄所、松下幸之助の松下電器(現パナソニック)工場などを見学しておられます。その折、東海道新幹線に乗られました。『速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ』、『我々は駆け出す必要に迫られている』と、その乗車の印象の言葉を残しております。


 また松下電器の工場を訪ねた時、電子レンジなどの新製品の展示室を見学されたましたが、電子レンジの機能を説明するために、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せたそうです。すると鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込んで、『なかなかおいしい!』と言います。これには松下の従業員らは驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛したのだそうです。
 東京では、日産自動車の厚木工場の見学をされましたが、圧巻は、昭和天皇との会見でした。その会見の様子を、後になって、当時の侍従長・入江氏は、次のように回顧されています。


 「――(天皇は)中国への贖罪意識がとりわけ強かった。初の要人として、1978年10月、最高実力者の鄧小平副首相が来日、昭和天皇と会見するが、天皇は顔をみるなり、『わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう』との気持ちを述べたという。瞬間、鄧氏は立ちつくす。電気にかけられたようになって、言葉が出なかった。」、「鄧氏は、『お言葉のとおり、中日の親善に尽くし……』と応じた。鄧氏のショックは、<簡単なあいさつ程度で過去に触れない>という日中外交当局と宮内庁の事前了解と違っていたこともあるが、やはり天皇の率直な語りかけが心を打ったのだろう」


 このような、中国と日本の関係に、氷解の時期があったことを思い返して、鄧小平氏の死去(1997年)を、心のそこから惜しんでしまうのは、私だけではないと思います。次の時代になってから、手のひらを返すように、中日関係は険悪、最悪の事態になったからです。この鄧小平氏の訪日後、中国は未曾有の〈日本ブーム〉が巻き起こります。その象徴的な出来事は、高倉健が主演し、中野良子、原田芳雄が共演した、映画「君よ憤怒の川を渉れ(1976年日本で公開)」が、中国で「追捕(zhui bu)」というタイトルで、1979年以降、上映され、何と3億人が観たと言われています。また、栗原小巻や山口百恵は、中国青年の憧れのスターとして喝采を浴びました。40~50代以上のみなさんの青年期の経験ですから、『映画の「追捕」、「杜丘冬人 (高倉健が演じた主人公)」、中野良子を知っているよ!』と言われて、『 杜丘冬人って、誰ですか?』と聞き返さなければならなかったほどでした。「七人侍」、鶴田浩二や長谷川一夫、京マチ子や山田五十鈴、美空ひばりや菊池章子よりも、「君よ憤怒の川を渉れ」、高倉健や栗原小巻や中野良子や山口百恵のほうが、中国では有名なのです。「君よ憤怒の川を渉れ」って、どんな映画でしょうか?一度は観ないといけないように思わされている私であります。


(写真上は、「鄧小平と胡耀邦(中央)」、中1は、「田中角栄元首相」、中2は、中華料理に定番「シュウマイ」、中3は、「山陽・九州新幹線 N700系「・さくら」、中4は、中国で大人気の女優「中野良子」、下は、「君よ憤怒の河を渉れ」の映画スチール写真です)

泉州旅遊

                                                     .

 先週、この夏に卒業した教え子の招きで、彼女のボーイフレンドと一緒に、〈泉州〉に二泊三日の旅行をしました。彼が、チケット販売所に出向いて、私の旅券を提示して私の分も、前もって買ってくれました。日本のように、その日に乗りたい乗車券を、乗車駅で買えたら、もう少し便利なのですが、数年後には、そういったシステムが導入されるのではないでしょうか。その中国製新幹線(「動車・dong che」)の「和谐号(He xue hao)」に乗り込んだのです。

 日本の新幹線ですが、1964年に開業した東海道新幹線は、この50年あまりの歳月の間に進化して、今は美しい流線型で、まるで地上を飛ぶ飛行機のように感じられますが、中国製は、少しこ小ぶりでしょうか。車内も一様ではなく、様々な客席やコンパートメントがしつらえてあり多様です。ちょっと揺れが大きかったのと、急加減速があり、すれ違い時の風圧の大きさ、またトンネルへの出入り時の耳の詰まりが気になりましたが、これからの更なる改良と工夫が待たれるのではないでしょうか。

 〈改革開放政策〉で中国の経済発展に貢献した鄧小平氏が、1978年10月に、日本を訪問しました。その時、『今回、私が日本を訪問したのは、日本に教えを請うためです。日本は昔から〈蓬莱〉と呼ばれ、不老不死の薬があると聞いています。今回はそれを求めに来ました。不老不死の薬がなかったとしても、私は日本が科学技術を発展させた先進的な経験を持ち帰るつもりです。』と語られたのです。実に謙虚な言葉ではないでしょうか。その時に、東京から京都まで、東海道新幹線を利用しました。その時の乗車は、強烈な感動と印象とを、鄧主席に与えたのです。日本の経済と技術力に、正直に圧倒されておられます。


 中国に帰国された鄧小平氏は、『経済がほかの一切を圧倒する!』という政策を打ち出して、「解放改革政策」を始めます。その代表的な経済政策として、翌年の1979年に、深圳(Shen zhen)、珠海(Zhu hai)、厦门(Xia men)、汕头(Shen tou)を「経済特区」として定め、重点的な経済開発に取り組んだのです。30年経ちました現在、その発展ぶりは天をつくほどのものとなっています。その契機となったのが、鄧小平氏の日本訪問、その日本体験にあることを考えますと、日本の貢献もまんざらではないのかと思って、誇りたい気分がいたしました。今回、乗せていただいた〈動車〉は、鄧小平氏の感動から始まって、全中国の人民が印象づけられ誇っておられるもので、その感動を共有できたことは感謝なことでした。鄧主席がおいででしたら、日本への感謝を、きっと表され、『更に多くの分野で、日本の技術に学びたい!』と、卑下を惜しまなかったのではないでしょうか。流石、大国を大きく好転させた大器であります。

 さて、私が訪問したのは、「泉州」でした。これまで二度訪ねたことがありますが、アジア圏では、過去においては有数の港町で、実に長い歴史を持っている街であることを知りました。香港やマカオ、上海や天津などがまだ小さな海辺の村に過ぎなかった頃に、すでに大貿易港だったのだそうです。「泉州博物館」には、その証拠に、大海に繰り出して航行した帆船が、砂の中から掘り出されて、展示されてありました。その大きさに驚かされてしまったのです。海外交易のゆえでしょうか、この街では、イスラム教やマニ教やネストリウス派が活発に活動をしていたようで、その名残のある街でした。この500万の街の中心に、小高い丘の公園があって、馬にまたがった将軍・鄭成功(Zheng Cheng gong)の像が置かれていました。以前は遠くから見ただけでしたが、この真下に行きましたら、世界で一番大きな馬の像ではないかと思われるほどの大きさだったのです。愛する教え子の博学の父君が、泉州の沿革を細かく説明をしてくださいました。


 動車にしろ、泉州の街にしろ、馬上の鄭成功将軍にしろ、意味ある経験をさせていただいた旅でした。10日の日曜日に、日本の東北地方で、大きな地震があったのですが、泊めていただいた彼のお父さまが、『今、日本で地震がありましたよ!』と知らせてくれました。その日のお昼の北京からのテレビニュースでは、2番目のニュース項目として、この地震を速報していました。反日・抗日ばかりではなく、中国が、隣人としての日本に、強い関心を示してくれていることを改めて知って、とても嬉しくなってしまったのです。経済発展の鰻登りの途上にあり、計画以上の隆盛を見せ、すでに日本を追い越してしまい、アメリカに追いつことしている勢いを感じざるを得ませんでした。確かに発展の陰に問題もありますが、これからの解決の課題として、真正面から取り組もとしている息吹も感じられたのです。中国のどの街でも、みなさんの顔の表情が、初めて訪問をした15年前よりも、明るく輝いているの感じさせられました。


 かつて世界が日本を羨ましく妬ましく、その発展ぶりを眺めていたように、今日日、中国の発展はアジアやアフリカの諸国の羨望の的のようです。経済ばかりではなく、様々な分野においても、発展が急加速することを心から願っています。歓待してくださった、お二人のそれぞれのご両親とご家族に感謝し、マンゴウ、鉄観音、茶器、はちみつ、パンなどのお土産を手にイッパイにして、旅を終え、住み慣れた家に帰り着きました。謝謝!

(写真上は、お孫さんと一緒の「鄧小平氏」、中1は、中国製新幹線「動車」、中2は、泉州の丘の上で台湾を見つめる「馬上の将軍」、下は、砂に埋没され発掘された「帆船〉です)

ショパン

                                                     .

 ショパンの美しい詩のようなピアノ演奏曲、「夜想曲」がBGMで流れ、主人公の演奏もあって、その旋律がとても印象的だった映画「戦場のピアニスト(2002年政策)」を観に行ったことがあります。私が生まれる以前のポーランドのワルシャワが舞台でした。ユダヤ人であるがゆえのナチスによる迫害、財産や仕事の没収、収容所送り、家族との離別、追撃を逃れた逃避行、爆撃された廃墟の中での彷徨、ナチス将校との出会いと彼からの善意、終戦といった流れだったでしょうか。ピアノの美しい旋律が、爆撃で破壊された瓦礫の中に伝い流れていくといった対比が、印象的でした。後になって、DVDを借りて何度か見直したこともあり、カンヌ映画祭でも、アメリカのアカデミー賞でも賞を得た秀逸の作品でした。

 もう7年も前になるでしょうか、隣町の図書館で、講演会があって聞きに行きました。この映画の主人公、スピルマンの息子さんがお話をされたのです。子スピルマンは1951年生まれのポーランド国籍(現在はイギリス国籍を取得)で、父39才の時の子でした。現在は、九州産業大学教授(講演当時は、拓殖大学客員教授)で、「日本史」を研究されておられます。日本人女性と結婚をされておいでです。

 その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が1945年に著わした[戦場のピアニスト]という本を、12才の時に見つけて読みます。そういった父の著書を通して、間接的に、父の体験を知ったのだそうです。彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が、ホロコーストで、犠牲になって、だれもいなかったからでもありました。父スピルマンは、忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていました。そしてそんな父でしたが、年をとるにつけ忙しくなくなると、ポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。


 その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。映画監督は、ポランスキー氏でした。この監督については、最近、よくないうわさをきかされています映画化が決まった翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されていきます。

 父を『彼は真面目だった!』と、子スピルマンは語っています。1つは音楽に関してです。音楽を〈食べるための道具〉にしなかったのです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けます。ジャズも好きだったようです。そして極限の中で、自分が発狂することなく自殺からも免れることが出来たのは《音楽》だったそうです。もう1つは《人種問題》でした。『人を個人として見るように!』と言い続けたそうです。どの民族にもよい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない。そういった信念の人だったようです。でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。

 映画の中に出てきた、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので助かるために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。『あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けた友人たち、そしてあのドイツ人将校だったのです!』と言っていました。一時間半ほどの講演でしたが、ユダヤ人の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。


 日本人でも、ユダヤ人の救出に貢献した人の中で、杉原千畝(第二次世界大戦の時のリトアニアのカナウス領事)が有名ですが、その他には、元陸軍中将の樋口季一郎氏 、元陸軍大佐で陸軍の「ユダヤ問題専門家」の安江仙弘氏 、元海軍大佐で海軍の「ユダヤ問題専門家」の犬塚惟重氏 などがおいでです。アメリカのオレゴン大学を苦学しながら卒業し、外務大臣になり、A級戦犯の公判中に病死した松岡大介も、ユダヤ人に好意を示しています。民族の大危機の中にも、愛が動き、愛が示されたのですね。二度とあのような時代がこないように願い、ショパンを聞きたい心境です。

(写真上は、「ショパン」、中は、スピルマンの愛する「家族」、下は、ドイツ将校の前でピアノを弾く「スピルマン」です)

女三界に家なし

                                                      .

 大正6年(1917年)春、母は島根県の出雲市で生まれていますから、この3月31日で、94歳になりました。ロシアで共産革命が起こった翌月で、中国では、この年、孫文が広東軍政府を樹立しています。日本では、味の素、明治牛乳、森永牛乳が創業していますた。この母の故郷に旅行したのが、小学校1年の時で、当時の小学生としては、こんな長旅をするのは実に珍しいことだったのではないでしょうか。東海道線から福知山をへて山陰本線に乗りいれての鈍行列車の旅だったのでしょうか、まだ当時は、蒸気機関車でした。その頃の記念写真が残っていますが、若くてきれいな母がそこに写っております。

 私たち男兄弟4人を産んでくれた母は、これまで二度大病を患い、長期にわたって入院生活をしました。私たち4人の子どもたちのために、少しでも援助をと願って、中央線の日野駅の近くにあった和菓子製造所でパートの仕事をしていました。仕事の帰りだったと思いますが、大型ダンプカーが接近して来たので、自転車から降りて路側によって、やり過ごそうとしていたとき、ダンプのタイヤのボルトで両足に大怪我を負ったのです。駅の近くの医者で応急処置をしたのですが、その処置が悪かったのでしょうか化膿してしまい、立川の大きな病院に転送されたのです。100%、両足切断のところでしたが、奇跡的に化膿が止まりました。それから十一カ月ほど入院をすることになったんもですが、母は四十代半ばだったでしょうか。

 そのとき、一番あわてたのが父でした。何日も、会社を休んで、母のために「野菜スープ」を作ったのです。明治生まれの男が、こんなに慌ててしまって、いつもと違う男を演じていたのが不思議でした。ああいった行動が、明治男の愛情表現だったのでしょうか。その父に、『雅、これをお母さんの所に持って行け!』と言われた私は、駅前からバスに乗って、日野橋を渡って立川病院に運んだのです。当時、上の兄は大学に行っていましたし、次兄は千葉で仕事をしながら東京の大学に通っていました。家にいたのは私と弟だけだったのです。もう一度は、子宮筋腫で、いざ摘出手術をしましたら、筋腫ではなく、「子宮癌」だったのです。まだ当時は、開腹してみないとわからないほどの医療水準だったようです。担当医が家族を呼んだのですが、父は、臆して行けなかったのです。告知だと分かったからでしょうか、『雅、お前が行って聞いてきてくれ!』と言われて、私は医師のところに行きました。上の兄は福岡県の久留米で仕事をしており、次兄は、東京に住んでいたからです。24才でした。

 
 摘出した卵巣を見せてくれながら、 『お母様は癌です。あと半年ほどの命です!』と、一瞬、躊躇しながら、担当医は、若い私に語ったのです。家に帰って、父に報告したら、『雅、覚悟しような!』と憔悴しきった顔で、そう言っただけでした。それから、一年近く入院生活を続けたのです。私は八王子で仕事をしていましたので、二日に一度くらいのペースで母を、武蔵境の病院に見舞いました。行く度に、母の体を拭く手伝いをしたのですが、内科病棟の大部屋でしたから、〈病室名主〉がいて、妬みでいじめがありました。病室の社会病理です。そんな行為を、何食わぬ顔で、母は見過ごしていました。いじけたり、取り入ったりしないで毅然としている母の強さを感じたほどでした。

 このような大病をしましたが、気遣っていた父は61歳で、脳溢血であっけなく召され、残された母は、年を重ねて、今は長兄の家におります。父の死後、家に戻ってきた次兄と一緒に昨年まで、父の購入した家(その後次兄が改築しましたが)で、40年近く、次兄の扶養家族として生活をしてきました。昨年、兄たちが話をして、母が転居することになったのです。高齢になってからの転居は、母には受け入れるのが難しいのでしょうか、父と共に過ごした家に、『帰りたい!』、『いつ帰れるのか?』と、ひっきり無しにに聞くのだそうです。〈誤嚥(ごえん)〉も始まり、脚も弱くなって来ています。そんな中で、〈帰巣心理(きそう)〉が母の心の中に起っているのでしょうか、自分の〈本拠地〉に、どうしても戻りたいのです。長年連れ添った父との思い出の家ですから、当然でしょうか。婚外子として生を受け、養父母に育てられたのですが、17歳の時に、奈良に嫁いでいた生母を訪ねたのだそうです。実の母がいることを親戚の人が知らせてくれて、訪ねるのです。しかし、『帰ってくれ!』と言われて、出雲に泣く泣く戻ったそうです。うら若き母の十代の悲しい思い出ですが、直接母から聞いた話です。

 諺に、『女、三界に家なし!』とありますが、女も男も、人はだれもが、旅人であり、寄留者なのでしょうか。母には、帰ることのできる永遠不変の〈天の故郷〉がありますから、安心ですが。それでも、人の情でしょうか、孝養心でしょうか、寂しそうにしている母が、切々深々として気になる、蝉声のけたたましい大陸の七月であります。

(写真上は、母が通った「出雲市立今市小学校の後輩たち」、下は、母の生母の嫁いだ寺の隣にある「奈良公園」です)