自戒

 

    「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。 」
 
 「十日天下」、明智光秀よりも七日間長かったのが、復興相。私の愛読書には、上のように書いてありました。応接室で自分の来訪を迎えなかった非礼に対して、「長幼の序」が欠けていると非難して、マグマのように湧き上がる怒りを抑えられないで、小爆発させてしまったのだと、ニュースが伝えていました。被災地の知事の忙しさを、もし理解できたら、政府の高官である自分のほうこそが待つべきだったに違いないんです。そういった理解がなかったのは残念ですね。辞任されるのだそうです。どうして、こんなに脇が甘いのでしょうか?

 彼は福岡県人だそうで、私の知っている友人たちは、穏やかで親切で紳士で、相手の立場に配慮してくれるのに、同じ九州人でも人によって違うのですね。子供の頃に、『実るほど、頭の垂れる稲穂かな!』という諺を教えられましたが、彼は教えられなかったのでしょうか。身分や地位が高くなるにつけ、身を低くしたほうが、徳が高いと評価されて、尊敬されるのですが。

 福岡が生んだ政治家で、外務畑を歩んでこられ、南京事変の頃に総理大臣をされておられた広田弘毅は、実に謙遜な器だったと聞いております。自分を追い越して出世していく後輩たちに、煩わされないで、悠々として、昼寝をするように見せかけて、本を読み、資料を調べ、世界の動きに関心を向けていたのです。時到って、国政を担われたのです。戦国の武将たちの中で、人心収攬に長けていた指導者たちは、上手に部下の才能、やる気を引き出したようです。私は将棋は嫌いで、できないのです。相手の駒の何手も先を考えて考えて、自分の駒を動かしていくあの待っている時間、考えている時間の長さに耐えられないのです。自分は短気なのだとつくづく思い知らされています。悠長なのがダメなおっちょこちょいなのです。どうも将棋好きから聞きますと、「飛車」や「角」よりも、「歩」を上手に展開させると勝てるのだそうですね。小兵を動かして、日本を復興させて欲しかったのですが、残念至極、ちょっと〈高飛車〉だったようです。

 この方は、この5月に60歳になられたようです。世の企業ですと、役員でない限り定年退職されているのです。一仕事終えて、悠々自適な生活をされている年齢なのに、なぜか小僧っ子のように見えて仕方がありません。先ず、〈心の復興〉をなさってから、〈被災された人と土地の復興〉に取り組んで欲しいものです。政治家の世界でしたら、捲土重来、セカンドチャンスだってありますから。私の愛読書には、
   
   「あなたは、立ち直ったら、《国民》を力づけてやりなさい。」

と書いてありました。まだまだ短気に悩まされている私ですが、聞くところによりますと、加齢によって、切れてしまう老人が多いのだそうですね。老成は、昔のことになってしまったのかと思って、自戒しております。

ギブ・ミィー・チョコレート世代

                                                          .

 昭和16年12月8日、真珠湾を奇襲攻撃して、あの太平洋戦争が始まります。この戦争に反対したのが、後に連合軍最高司令長官となる山本五十六でした。彼は若き将校として、まだ親しく国交のあったアメリカを訪問したことがあったのです。その時、テキサスの大油田と五大湖周辺の大工業地帯を見て、その規模の大きさに圧倒されていました。物量の多さと工業技術水準の高さは目を見張るものがあったからでした。それを思い返して、『このアメリカには勝てない!』と結論していたのです。ですから日米戦争の開戦には大いに反対したわけです。ところが、ひとたび開戦が決まってしまったとき、海軍の軍人として彼もまた戦わざるを得なくなりました。アメリカ軍は、山本五十六の動きを徹底的にマークし、ついいには無線の暗号傍受と解読に成功して、彼の乗る飛行機を撃墜したのです。その死を悲しんだ日本は、山本五十六の「国葬」を行い、その死を悼んだのでした。アメリカ軍にとっては、怖い敵将の死で、戦争の勝利の確信を、さらに強めたのだそうです。

 オレゴンで、次女の学校の卒業式に出席した後、上の娘と三人で、そこからワシントン州、アイダホからモンタナ、そしてワイオミングと、5つの州を車で旅行したのです。その道々感じたのは、大きなアメリカの農村部が、実に近代的な大規模・機械化農法で農業が行われていることに、いまさらの驚きを覚えたのです。すでに映画やニュースや写真で見て知ってはいましたが、この目で見たその大きさは圧倒的でした。日本のような農法のこじんまりして細密なものと違って、トラックターの大きさも、巨大なスプリンクラー設備も眼を見張るものがありました。ここで生産された豊かな生産物が、工業地帯や都市部の必要を十二分に満たしていることがわかったのです。食糧の自給ができる国でありつつも、工業生産も脅威的なものであるこを知らされたわけです。山本五十六は工業の立地国としてのアメリカに驚かされたのですが、私は農業立地に目を見張ったのです。


 このアメリカにも、多くの問題があります。しかし世界で最も祝福された国であり、その祝福を世界中に分かち合ってきているのです。若い頃に、一緒に働いたアメリカ人実業家が教えてくれた、「アメリカが崩壊しない3つの理由」を、その時、思い出したのです。1つは、建国の父たちの愛国心、その愛国心を受け継いでいる現在のアメリカ国民の存在、2つは、莫大な財政をささげて多くの国を支援していること、3つは、アメリカの使命や存続のために海外からの応援と支持と感謝と執り成しだそうです。そのアメリカで、私の四人の子どもたちが学ばせていただいたことに、心から感謝するのです。なぜなら、偏狭なものの考え方から解放されて、広く世界をみ、世界と交われる資質を養い育てられ、異質の文化や習慣や人種との接触が与えられたことは素晴らしい機会だったと思います。

 ある日、アメリカの友人の家に、多くの若者が来ていて、私たちも、そこに同席していました。その家のご主人が、『雅、何か話てくれないか!』ということで、OKしたことがありました。その時、私は《自分の今とアメリカとの関連について》話をしたのです。私は、アメリカから来日された実業家の働きの手伝いをさせて頂きながら、彼から多くのことを学んだこと、妻の愛し方でさえも教えられたのですから。また小学校時代、アメリカから送られた「Lala物資」の粉ミルクを飲ませていただいたこと。家内は、スカートやブラウスを貰って、それを着て学校に行きましたから、うらやましがられて大変だったと聞いています。もう1つは、この国で作られた映画を観て、夢が育まれたこと、とくにジェームス・ディーンの主演した映画は、中学生の私にとって衝撃的だったことでした。敗戦国の子どもが、戦勝国の援助や感化を受けたのは感謝でしたが、そのことを思い返しながら、その過去を恥じた心の内で、激しく葛藤した青年期もあったのですが、それには触れませんでした。


 『お父さん、《ギブ・ミィー・チョコレート世代》だったんだよね!』と、先日、息子に言われました。立川基地の隣町に住んでいましたから、アメリカ兵との接触の機会が多かったので、甘いものに飢えていた私たちは、アメリカ兵を見つけるとそう連呼したのです。青年期に達した私は、そんな子どもころの自分が赦せませんでした。その反動でしょうか、軍歌を歌ったり、日の丸を愛したり、〈日本精神〉に立って、危なっかしい歩みにいこうとしたのです。そんな偏狭さに潜り込もうとしたとき、このアメリカ人実業家と出会いました。彼を訪ねてくる友人たちが持っている、〈高潔な人格〉に触れるのです。民族や国籍を超えたところにある交わりによって、私はバランスされ、変えられたのです。憎むべき国と敵から、親しい友人の国と国民とにです。そう変えられて、『よかった!』と、今も感謝しております。中国語で「我已経改変了」と言うようです。

(写真上は、モンタナを舞台にした映画の「リバー・ランズ・スルー・イット 」、中は、「ジェームス・ディーン」下は、アメリカ製の「チョコレート」です)