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ショパンの美しい詩のようなピアノ演奏曲、「夜想曲」がBGMで流れ、主人公の演奏もあって、その旋律がとても印象的だった映画「戦場のピアニスト(2002年政策)」を観に行ったことがあります。私が生まれる以前のポーランドのワルシャワが舞台でした。ユダヤ人であるがゆえのナチスによる迫害、財産や仕事の没収、収容所送り、家族との離別、追撃を逃れた逃避行、爆撃された廃墟の中での彷徨、ナチス将校との出会いと彼からの善意、終戦といった流れだったでしょうか。ピアノの美しい旋律が、爆撃で破壊された瓦礫の中に伝い流れていくといった対比が、印象的でした。後になって、DVDを借りて何度か見直したこともあり、カンヌ映画祭でも、アメリカのアカデミー賞でも賞を得た秀逸の作品でした。
もう7年も前になるでしょうか、隣町の図書館で、講演会があって聞きに行きました。この映画の主人公、スピルマンの息子さんがお話をされたのです。子スピルマンは1951年生まれのポーランド国籍(現在はイギリス国籍を取得)で、父39才の時の子でした。現在は、九州産業大学教授(講演当時は、拓殖大学客員教授)で、「日本史」を研究されておられます。日本人女性と結婚をされておいでです。
その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が1945年に著わした[戦場のピアニスト]という本を、12才の時に見つけて読みます。そういった父の著書を通して、間接的に、父の体験を知ったのだそうです。彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が、ホロコーストで、犠牲になって、だれもいなかったからでもありました。父スピルマンは、忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていました。そしてそんな父でしたが、年をとるにつけ忙しくなくなると、ポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。
その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。映画監督は、ポランスキー氏でした。この監督については、最近、よくないうわさをきかされています映画化が決まった翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されていきます。
父を『彼は真面目だった!』と、子スピルマンは語っています。1つは音楽に関してです。音楽を〈食べるための道具〉にしなかったのです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けます。ジャズも好きだったようです。そして極限の中で、自分が発狂することなく自殺からも免れることが出来たのは《音楽》だったそうです。もう1つは《人種問題》でした。『人を個人として見るように!』と言い続けたそうです。どの民族にもよい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない。そういった信念の人だったようです。でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。
映画の中に出てきた、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので助かるために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。『あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けた友人たち、そしてあのドイツ人将校だったのです!』と言っていました。一時間半ほどの講演でしたが、ユダヤ人の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。
日本人でも、ユダヤ人の救出に貢献した人の中で、杉原千畝(第二次世界大戦の時のリトアニアのカナウス領事)が有名ですが、その他には、元陸軍中将の樋口季一郎氏 、元陸軍大佐で陸軍の「ユダヤ問題専門家」の安江仙弘氏 、元海軍大佐で海軍の「ユダヤ問題専門家」の犬塚惟重氏 などがおいでです。アメリカのオレゴン大学を苦学しながら卒業し、外務大臣になり、A級戦犯の公判中に病死した松岡大介も、ユダヤ人に好意を示しています。民族の大危機の中にも、愛が動き、愛が示されたのですね。二度とあのような時代がこないように願い、ショパンを聞きたい心境です。
(写真上は、「ショパン」、中は、スピルマンの愛する「家族」、下は、ドイツ将校の前でピアノを弾く「スピルマン」です)