女三界に家なし

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 大正6年(1917年)春、母は島根県の出雲市で生まれていますから、この3月31日で、94歳になりました。ロシアで共産革命が起こった翌月で、中国では、この年、孫文が広東軍政府を樹立しています。日本では、味の素、明治牛乳、森永牛乳が創業していますた。この母の故郷に旅行したのが、小学校1年の時で、当時の小学生としては、こんな長旅をするのは実に珍しいことだったのではないでしょうか。東海道線から福知山をへて山陰本線に乗りいれての鈍行列車の旅だったのでしょうか、まだ当時は、蒸気機関車でした。その頃の記念写真が残っていますが、若くてきれいな母がそこに写っております。

 私たち男兄弟4人を産んでくれた母は、これまで二度大病を患い、長期にわたって入院生活をしました。私たち4人の子どもたちのために、少しでも援助をと願って、中央線の日野駅の近くにあった和菓子製造所でパートの仕事をしていました。仕事の帰りだったと思いますが、大型ダンプカーが接近して来たので、自転車から降りて路側によって、やり過ごそうとしていたとき、ダンプのタイヤのボルトで両足に大怪我を負ったのです。駅の近くの医者で応急処置をしたのですが、その処置が悪かったのでしょうか化膿してしまい、立川の大きな病院に転送されたのです。100%、両足切断のところでしたが、奇跡的に化膿が止まりました。それから十一カ月ほど入院をすることになったんもですが、母は四十代半ばだったでしょうか。

 そのとき、一番あわてたのが父でした。何日も、会社を休んで、母のために「野菜スープ」を作ったのです。明治生まれの男が、こんなに慌ててしまって、いつもと違う男を演じていたのが不思議でした。ああいった行動が、明治男の愛情表現だったのでしょうか。その父に、『雅、これをお母さんの所に持って行け!』と言われた私は、駅前からバスに乗って、日野橋を渡って立川病院に運んだのです。当時、上の兄は大学に行っていましたし、次兄は千葉で仕事をしながら東京の大学に通っていました。家にいたのは私と弟だけだったのです。もう一度は、子宮筋腫で、いざ摘出手術をしましたら、筋腫ではなく、「子宮癌」だったのです。まだ当時は、開腹してみないとわからないほどの医療水準だったようです。担当医が家族を呼んだのですが、父は、臆して行けなかったのです。告知だと分かったからでしょうか、『雅、お前が行って聞いてきてくれ!』と言われて、私は医師のところに行きました。上の兄は福岡県の久留米で仕事をしており、次兄は、東京に住んでいたからです。24才でした。

 
 摘出した卵巣を見せてくれながら、 『お母様は癌です。あと半年ほどの命です!』と、一瞬、躊躇しながら、担当医は、若い私に語ったのです。家に帰って、父に報告したら、『雅、覚悟しような!』と憔悴しきった顔で、そう言っただけでした。それから、一年近く入院生活を続けたのです。私は八王子で仕事をしていましたので、二日に一度くらいのペースで母を、武蔵境の病院に見舞いました。行く度に、母の体を拭く手伝いをしたのですが、内科病棟の大部屋でしたから、〈病室名主〉がいて、妬みでいじめがありました。病室の社会病理です。そんな行為を、何食わぬ顔で、母は見過ごしていました。いじけたり、取り入ったりしないで毅然としている母の強さを感じたほどでした。

 このような大病をしましたが、気遣っていた父は61歳で、脳溢血であっけなく召され、残された母は、年を重ねて、今は長兄の家におります。父の死後、家に戻ってきた次兄と一緒に昨年まで、父の購入した家(その後次兄が改築しましたが)で、40年近く、次兄の扶養家族として生活をしてきました。昨年、兄たちが話をして、母が転居することになったのです。高齢になってからの転居は、母には受け入れるのが難しいのでしょうか、父と共に過ごした家に、『帰りたい!』、『いつ帰れるのか?』と、ひっきり無しにに聞くのだそうです。〈誤嚥(ごえん)〉も始まり、脚も弱くなって来ています。そんな中で、〈帰巣心理(きそう)〉が母の心の中に起っているのでしょうか、自分の〈本拠地〉に、どうしても戻りたいのです。長年連れ添った父との思い出の家ですから、当然でしょうか。婚外子として生を受け、養父母に育てられたのですが、17歳の時に、奈良に嫁いでいた生母を訪ねたのだそうです。実の母がいることを親戚の人が知らせてくれて、訪ねるのです。しかし、『帰ってくれ!』と言われて、出雲に泣く泣く戻ったそうです。うら若き母の十代の悲しい思い出ですが、直接母から聞いた話です。

 諺に、『女、三界に家なし!』とありますが、女も男も、人はだれもが、旅人であり、寄留者なのでしょうか。母には、帰ることのできる永遠不変の〈天の故郷〉がありますから、安心ですが。それでも、人の情でしょうか、孝養心でしょうか、寂しそうにしている母が、切々深々として気になる、蝉声のけたたましい大陸の七月であります。

(写真上は、母が通った「出雲市立今市小学校の後輩たち」、下は、母の生母の嫁いだ寺の隣にある「奈良公園」です)