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『心頭滅却すれば、火もまた涼し』、これは私の父が、小さなメモに書き残したことばです。私は、これを大切にファイルの中に、「父の座右の銘」としてしまっております。YAHOO辞書で調べてみますと、『無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。〔補説〕 禅家の公案とされ、1582年甲斐(かい)国の恵林寺が織田信長に焼き打ちされた際、住僧の快川(かいせん)がこの偈(げ)を発して焼死したという話が伝えられる 。』とありました。このことばは、父の世代の人が教えられた処世訓のひとつなのでしょう。
摂氏40.4度、これは日本の観測史上第2位の高温記録を示した2004年7月21日午後4時の甲府市の気温です。父の書き残した言葉によりますと、あの暑さの中でも、心持次第では、涼しさを感じる事ができると言うのです。でも、どんなに私が努力をしてみても、あの日、甲府にいた私が感じた気温は、40.4度でした。しかし、その前日の方が暑かったように感じたのですが。この体感温度というのは、屋外の白いペンキで塗られた百様箱の中の寒暖計温度が標準温度なのですが、それとは違うのです。灼熱の太陽に熱せられたアスファルトの上で、空気のよどんだ中での温度は、ゆうに4~5度は高かったのではないでしょうか。今年も、群馬県の館林では、41.3℃になるとの予想が出ております。
ところで、私たちが住んでいます華南の街は、「竈(かまど)」の様だといわれています。最近の統計によりますと、中国で最も暑い街は、福州、杭州、重庆、长沙だそうで、犬が、道端の溜まり水に横たわってお腹を冷やしている街の光景を目にしたこともあるほどです。今日は、最高位温度37℃、最低温度27℃の予報が出ております。『雅仁、人生には、苦しい事が多い。一人の男、夫、父として、また一人の市民、国民、地球人として生きていく上で、苦しさに負けないで生き抜くんだ!』と言われたように感じています。61年の父の短かった生涯のことを思うことが、私にはしばしばあります。父は、火の様な人生を生きて来て、耐えかねることも、涙を流して泣いたこともあったことでしょう。県立の横須賀中等学校に入学したのですが、家庭の事情で、東京の私立学校に転校し、親戚に身を寄せて通学しなければなりませんでした。十代の前半で、生まれた家や家族から遠く離れて、友人たちとも別れなければならなかったのは、不本意であり、やはり辛い体験だったに違いありません。
「ジョゼフ」ですが、17歳の彼が、母違いの10人の兄たちに妬まれ憎まれ殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまうのです。そのエジプトでも何度も不遇の体験をしますが、30才でエジプトの王パロに継ぐ地位に昇進するのです。「人の悪意」の背後に「至高者の善意」を、ヨセフは発見するのです。その「善意」が、彼の人生に、いつでも、どこでも及んでいたのです。彼の不幸な体験は、父や兄弟たちを大飢饉から救うためであり、やがて、この家系から出る者が、人類に大きく貢献していくのです。私の父も、過酷な人生を耐えて生き抜いてくれたことで、私たちの今があるわけです。ヨセフは、そんな兄たちを赦したのです。その様に、父にも赦すべき人があって、人生の最後の病床で、赦す言葉を私は聞きました。子どもの頃の辛い日々のことではなく、懐かしく楽しかった日を思い出して語っていたのです。『辰江さん(それまでは「あれは・・」としか言いませんでしたが)は、料理が上手だった。シュークリームを作ったり、カツを揚げて食べさせてくれたよ!』と話していました。母から聞いた話ですと、『弟や妹にはおかずがいっぱい入った弁当を持たしたのに、俺のは〈日の丸弁当〉で、梅干だけだったんだ!』、と激白していたようですが。そのように、母は父の語らない子供時代の様子を時々話してくれました。きっと、父のひがみもあったかも知れませんね。産んでくれた母は、家格に合わないとの理由で離縁され、継母に養育されたのです。
そんな死の間際に、継母を赦す父の姿を見ることができたことは、感謝なことであります。私たちの幸いは、このような〈坩堝(るつぼ)〉の中にいることが耐えられるように造られているではないでしょうか。私にも赦されなければならない人、赦していただかなければならない人がいます。みなさんはいかがでしょうか。「心頭滅却すれば」、人を赦せるのかと思いますが、駄目ですね。自分が、今、赦されて生きているという事実に立たない限り、人を赦すことができないのに違いありません。相手よりも先に、『ごめんなさい!』と言いたいものです。
8(写真上は、「枯山水(かれさんすい・恵林寺の庭園)」、中は、「華南の街」、下は、「横須賀の海」です)