★掲載記事の内容の訂正

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 2011年4月8日に記載しました、「国務」の記事に誤りがありました。吉田茂元首相のことばの引用に関して、2011年7月1日付の「頂門の一針(ブログ)」の記事に、次のようにありました。

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 東日本大震災への自衛隊の大規模な救援出動の関連で、以前に吉田茂元首相が語ったというの言葉がネット上で盛んに引用されている。以下の言葉がそれである。

 「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されり、 歓迎されることなく自衛隊を終わるかも知れない。きっと非難とか誹ぼうばかりの一生かもしれない。 御苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から 歓迎され、 ちゃやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。 言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほう が、国民や日本は幸せなのだ。 堪えて貰いたい。一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。 しっかり頼むよ.」

 ところが気になるのは、ほとんどの引用が出所表現を誤用していることである。「昭和32年2月防衛大第1回卒業式における吉田茂内閣総理大臣の訓示」とか「昭和32年3月防衛大第1回卒業式における吉田茂元内閣総理大臣の祝辞」とかである。

 調べてみると、吉田茂元首相ははたしかに昭和32年3月26日の防衛大第1回卒業式に来賓として出席し祝辞を述べている。ところが、そこに上記に引用した部分は見当たらない。

 引用部分は、正しくは昭和32年2月に大磯の吉田邸を訪れた防衛大1期生の代表3名に吉田元首相が愛念をもって諭した言葉であった。事実、公式の席上で公然と語る性質の言葉ではない。その経緯は代表のひとり平間洋一氏が幸いにも記していた。

「防衛大学校と吉田茂一防衛大生の吉田邸訪問記」

http://www3.ocn.ne.jp/~y.hirama/y h_ronbun_sengoshi_yoshidahoumon.htm

以来56年を経過して、この吉田元首相の言葉が世間で注目されるのは意味のあることだが、自衛隊のいくつかの部隊や国会議員の衆院本会議質問や自衛隊OBの評論家のブログにまで上記のような出所の誤用が見受けられて、今後に出所誤用が定着しかねないので、一筆を執った次第である。(品川 阿生氏)

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お詫びし、訂正します。

摂理

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 『夢を買うんです。当たらないことが分かっているんですけど、やはり年に数回、買うのを楽しんでいるのです!』と言う方がいらっしゃいます。〈宝くじ〉のことです。私は、宝くじを買いません。パチンコも競馬もマージャンも株もしません。中学生の頃に、中央競馬会の調教師の子が、級友や上級生に何人もいましたので、彼らの仲間になって、府中の競馬場に行ったことがありますが、馬券を買ったことはありませんでした。立川の競輪場に行ったこともありますが、中の様子が見たくて、学生のころに一度行ったきりでした。父の家の川向こうに、競艇場がありましたが、そこにも行きませんでした。ただパチンコは、私の育った町に一軒ありましたので、父の後について行って、小学生の私は、拾った玉を入れて遊んで以来、20代の初めまでしていましたが、その後、まったくやめてしまいました。

 株がいけないと言っているのではありません。労働の三要素の1つは、「資本」であり、今日の企業の経営にあたって、株式のシステムは、どうしても必要です。そして、小学生が、これを学ぶのは大切なことです。出資者がいて、企業が運営されるのですからです。ところが、小学生が、お小遣いで、株を買っているというニュースをたびたび聞きます。小額の投機で、多額の利益を上げることに魅力を感じるからなのだそうです。こういった傾向は、社会経験だからと言っても、如何なものでしょうか。

 オランダで首相をしたことのあるアブラハム・カイパーという方が、アメリカの大学に招かれて講演をしました。その1つの講演で、次のようなことを言いました。『カード遊び・・カード自身に悪魔が潜在しているというのでもありません。しかし、この遊び心が心を誘惑して、絶対者より離れさせ、運と〈つき(幸運)〉に依頼させようとする恐ろしい傾向を助長するからです・・絶対者以外のいわゆる偶然、あるいは幸運と称する空想的運命力を軽率に信じる気持ちを養う・・人々は、自分の仕事をこつこつと努力するよりも、幸運の一喜一憂に対して・・心惹かれております・・宇宙の摂理よりも偶然性を強く望むことによって、(感覚の)泉を汚染させてします・・嫌悪せざるを得ません。』と、次のアメリカの時代を担う学生に、いいえ世界中の学生たちに、賭け事が秘めている危険性を知らせ、人間性を不健全にしてしまうものへの信頼に反対して、警告的に語ったのです。


 私たちは、運命の力に弄(もてあそ)ばれるのではなく、摂理に自分を任せるべきなのです。遊び心だと、軽く考えておられても、それが生きる姿勢そのものになってしまい、家族を苦しめてしまい、ある家庭は崩壊してしまう事例も見聞きします。私は〈運〉や〈つき〉に、自分の人生が左右されるこを望んでいませんし、それに任せようとも思いません。状況が悪く感じられるのは、『運に見放され、ついていないのではなく、何かを教えられたり、生き方を注意されているのだ!』と思って、生きることにしているのです。

 将来の結婚や留学の夢の実現のために、また離婚のために貯えられた貯蓄が、他の必要のためにささげられました。夢の実現よりも、公のご計画に賛同し、摂理が理解できたからだったのです。彼女の離婚計画は頓挫してしまいました。しかし自分の良心と社会の前でなされた、その選択と決断は覚えられているのです。人生のどの時期にあっても、『どのようなご計画が、自分の生涯に定められているのだろうか!』と思い巡らして、わくわくと胸を躍らされて今日を、明日を生きていきたいものです。明日がわからないほうが、神秘的でいいのではないでしょうか。人の心は、そのように出来ているからです。もし分かってしまったら、生きるって、随分とつまらないものに成り下がってしまい。『何時、このことが起るのだろう?』と、不安で心を満たしてしまうのです。『明日は明日自身が思い煩うであろう!』、名言です。

(写真上は、スペードの「A(エース)」 、下は、オランダの「チューリップ畑」です)