摂理

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 『夢を買うんです。当たらないことが分かっているんですけど、やはり年に数回、買うのを楽しんでいるのです!』と言う方がいらっしゃいます。〈宝くじ〉のことです。私は、宝くじを買いません。パチンコも競馬もマージャンも株もしません。中学生の頃に、中央競馬会の調教師の子が、級友や上級生に何人もいましたので、彼らの仲間になって、府中の競馬場に行ったことがありますが、馬券を買ったことはありませんでした。立川の競輪場に行ったこともありますが、中の様子が見たくて、学生のころに一度行ったきりでした。父の家の川向こうに、競艇場がありましたが、そこにも行きませんでした。ただパチンコは、私の育った町に一軒ありましたので、父の後について行って、小学生の私は、拾った玉を入れて遊んで以来、20代の初めまでしていましたが、その後、まったくやめてしまいました。

 株がいけないと言っているのではありません。労働の三要素の1つは、「資本」であり、今日の企業の経営にあたって、株式のシステムは、どうしても必要です。そして、小学生が、これを学ぶのは大切なことです。出資者がいて、企業が運営されるのですからです。ところが、小学生が、お小遣いで、株を買っているというニュースをたびたび聞きます。小額の投機で、多額の利益を上げることに魅力を感じるからなのだそうです。こういった傾向は、社会経験だからと言っても、如何なものでしょうか。

 オランダで首相をしたことのあるアブラハム・カイパーという方が、アメリカの大学に招かれて講演をしました。その1つの講演で、次のようなことを言いました。『カード遊び・・カード自身に悪魔が潜在しているというのでもありません。しかし、この遊び心が心を誘惑して、絶対者より離れさせ、運と〈つき(幸運)〉に依頼させようとする恐ろしい傾向を助長するからです・・絶対者以外のいわゆる偶然、あるいは幸運と称する空想的運命力を軽率に信じる気持ちを養う・・人々は、自分の仕事をこつこつと努力するよりも、幸運の一喜一憂に対して・・心惹かれております・・宇宙の摂理よりも偶然性を強く望むことによって、(感覚の)泉を汚染させてします・・嫌悪せざるを得ません。』と、次のアメリカの時代を担う学生に、いいえ世界中の学生たちに、賭け事が秘めている危険性を知らせ、人間性を不健全にしてしまうものへの信頼に反対して、警告的に語ったのです。


 私たちは、運命の力に弄(もてあそ)ばれるのではなく、摂理に自分を任せるべきなのです。遊び心だと、軽く考えておられても、それが生きる姿勢そのものになってしまい、家族を苦しめてしまい、ある家庭は崩壊してしまう事例も見聞きします。私は〈運〉や〈つき〉に、自分の人生が左右されるこを望んでいませんし、それに任せようとも思いません。状況が悪く感じられるのは、『運に見放され、ついていないのではなく、何かを教えられたり、生き方を注意されているのだ!』と思って、生きることにしているのです。

 将来の結婚や留学の夢の実現のために、また離婚のために貯えられた貯蓄が、他の必要のためにささげられました。夢の実現よりも、公のご計画に賛同し、摂理が理解できたからだったのです。彼女の離婚計画は頓挫してしまいました。しかし自分の良心と社会の前でなされた、その選択と決断は覚えられているのです。人生のどの時期にあっても、『どのようなご計画が、自分の生涯に定められているのだろうか!』と思い巡らして、わくわくと胸を躍らされて今日を、明日を生きていきたいものです。明日がわからないほうが、神秘的でいいのではないでしょうか。人の心は、そのように出来ているからです。もし分かってしまったら、生きるって、随分とつまらないものに成り下がってしまい。『何時、このことが起るのだろう?』と、不安で心を満たしてしまうのです。『明日は明日自身が思い煩うであろう!』、名言です。

(写真上は、スペードの「A(エース)」 、下は、オランダの「チューリップ畑」です)

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