鄭成功

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 近松門左衛門(1653~1724)が、人形浄瑠璃の演目として、「国性爺合戦(こくせんやがっせん、国姓爺が本来の表記ですが)」を書きました。この演目は、近松の最高傑作と言われています。後に、歌舞伎でも上演されていますが、この主人公が、「和藤内(後に〈国姓爺〉に改名」です。1715年に、大阪の竹本座で初演があり、今でも上演されていて、市川團十郎のお家芸の一つなのだそうです。この国姓爺のモデルが、「鄭成功(Zheng Cheng gong 1625~1662)」です。彼の名前の経緯は次のとおりです。『ある日、鄭森(成功)は父の紹介により、隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせると ころだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗っ たが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「老人」を意味するのではなく、「御大」「旦那」といった親近感を伴う敬称)と呼ばれるようになる(Wikipediaによる)』とあります。

 この鄭成功は、中国の国営テレビでは、「大英雄・鄭成功」というタイトルで番組の放映されていますから、国民的英雄の一人で、福建省や台湾での尊敬は格別なものがあります。彼は、1624年、長崎平戸で、中国人の父・鄭芝龍、日本人の母・田川マツの子として誕生しています。お父さんの芝龍は、福建省泉州に生まれ、裕福な貿易商の子供として育てられます。青年期にオランダ船に乗り込んで、長崎の平戸にわたり、そこの内浦に住みます。平戸藩主に気に入られ、藩士・田川七左衛門の娘を妻とし、子が与えられるのです。それが幼名を福松と呼ばれた、鄭成功なのです。彼は、7歳の時に、父の故郷の泉州に帰り、15歳で〈院考(官吏となるための試験)〉に合格し、高級官僚への道が開かれます。15歳で、南京(明朝の副首都、ちなみに首都は北京)で学び、隆武帝に重用された彼は、満州族の「清」に滅ぼされようとする「明」を守るのです。


 この頃の彼の呼び名は、鄭森でしたが、後に、上記のように鄭成功に改めたのです。日本の戦国時代のように、国の興亡、支配者の乱立がみられた時代で、清の台頭、明の滅亡の時期に活躍した軍人、政治家でした。清に滅ぼされようとしている明を擁護し、抵抗運動を続け、台湾にに渡り鄭氏政権の祖となっています。ですから、台湾では、オランダ統治から解放した功績によって、民族的英雄として崇められ、慕われる歴史的人物なのです。

 この鄭成功が馬上ゆたかに、台湾に眼を向けている像が、泉州市の中心の丘の上にあり、日曜の夕方、案内されて見学させていただきました。中国は、何でも大きなものを建造するのですが、これはひと際大きかったので、圧倒されてしまいました。この像の周りは、海から吹いてくる風が心地よく、真夏の宵の夕涼みで、老若男女、大勢の市民の憩いの場、ジョギング・コースとされて賑わっていました。日本では決して見られない物を見て、中国のみなさんの心の大きさや広さが、こういった歴史上の人物への敬慕の情をうかがいつつ知ることができました。4年ほど前に訪ねた、「厦门(Xia men)」にも、この鄭成功の巨像があったのを思い出しましたのです。

 中日の交流は、はるか昔の「遣唐使」や「遣隋使」の時代に遡ってなされていました。それよりも以前から、民族の移住や定住がなされていて、日本人のルーツの一つが中華民族であるとされております。遠い昔から行き来が盛んだったように、中国人と日本人の両民族の血を受け継ぐ、鄭成功のような人物が、明末の時代に活躍し、現代の中国のみなさんから、高く評価されていることは驚くべきことです。日本人の血を受け継いでいる鄭成功への偏見など、中国のみなさんには微塵だにないことを知って、中日の関係の将来には大きな希望が見えてきて、大変感謝なひと時でありました。

 
 教え子のボーイフレンドのお母様が、彼の誕生祝いの食事に、大変豊かな料理を作っていました。私もご家族と一緒に食卓を囲んで、お相伴(しょうばん)にあずからせてくださったのですが、その中に泉州風味の〈唐揚げ〉がありました。美味しくて、お土産にも頂いたのですが、『どこかで食べた味だけど、どこだろう?』と思い巡らしていましたら、私の母が、よく料理してくれた味と、とても似ているのを思い出したのです。もしかして、母の味覚のルーツは、中国、福建省、泉州かも知れませんね!

(写真上は、歌舞伎・市川團十郎の「国性爺合戦」、中は、「鄭成功」、下は、「泉州の港」です)