朱熹

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 父が、旧制の県立中学に合格した理由を、「俺は、口頭試験の時、試験官の前で、『教育勅語』を諳(そら)んじたのだ。試験は駄目だったが、それで入学が許されたよ!」と、こう謙遜に話してくれました。そして時々、その「教育勅語」を私の前で語ってくれたのです。

 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美 ・・・・」

 小学生だった私には、「朕(ちん)」は、「わたし」ということだろうとは分かったのですが、あとは聞いただけではチンプンカンプンでした。これは、明治政府が道徳教育を推進していく必要を覚えて作成されたものです、天皇が、国民に語りかける口調でできており、1890年(明治23年)10月30日に公布されています。それ以来、「元旦」、「紀元節」、「天長節」、「明治節」の〈四大節〉の祝祭日には、学生生徒児童の前で、校長先生が厳粛に読み上げたのです。小学生の父は、それを聞いて覚えたのでしょうか。この「教育勅語」を記した写しは、箱に入れられて、「御真影(天皇皇后の写真。当時の森有礼文部大臣の発案により、講堂の正面に掲出されていました)」とともに、学校の中にあった「奉安所」に納められていました。金日成と金正日の写真が、朝鮮民主主義共和国の中で、そこかしこに掲げられているように、写真や書写文書への拝礼が義務付けられていたのです。

 天皇を頭(かしら)にした家族、国民は臣民であることが求められていた時代でした。終戦と共に、1948年6月19日に廃止されました。「教育勅語」には、「朱子学」の影響が大きいと言われております。明治期に、日本人の道徳心を涵養するために用いられた、道徳律に強く影響を与え、それ以前、徳川幕府の「正学」とされていた、この「朱子学」とは、どういう教えなのでしょうか。

 福建省福州の北の三明市に「尤渓 」という場所がありますが、ここで生まれた「朱熹(しゅき/日本では〈朱子〉と呼びます)1130年10月~1200年4月、宋代の人) 」が、「朱子学」のは開祖です。儒教が、多くの学説、多くの著作にって、まとまりを失っていたのを体系化したのが朱熹で、その功績が高く評価されています。幼い日から、「孟子」、「論語」を読み学んできた彼は、良き師と出会って、19歳で「科挙」に合格したほどの逸材、儒教の教えに精通していました。ひとことで言うと、「自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれていて、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした(ウィキペヂアより)。」彼は、田舎での官吏の道を選び、昇進や出世の野心を持たない人でしたから、故郷の難民の救済のために働くのですが、50代には、教育に専念します。


 この「科挙」という制度ですが、これは、「高等官資格試験制度」で、現代の日本での「公務員試験」に似ているでしょうか。この「科挙」の予備校が、福建省の〈、武夷山(ユネスコの世界遺産にされた観光地です)」の近くにあって、毎年多数の合格者を輩出していたそうです。そうしますと、福建省は昔から教育省だったことになりますね。この学校を開いたのが、朱熹でした。この「科挙」は、一代きりで、世襲することのできない制度でした。親の家督を〈世襲〉で受け継いで、藩の身分も職をも受け継いできた幕藩下の日本とは、ずいぶんと違うものですね。今でも日本は、俳優や歌手の子が、「親の七光り」で、親と同じ道を歩み、芸能界にデビューする傾向が多いようですが、有名になるのは極めて低い確率だと何かに書いてありましたが。最近の国会議員の紹介欄に、「世襲」かどうかの記述があるのは、世襲反対の論調の表れで、なにか面白いものを感じてしまいます。私の父親には、猫の額ほどの土地があっただけで、身分も職も階級もない〈野の人〉で、子が世襲できる何ものをも持たなかった明治人でした。ですから自分で自分の人生の道を見つけなければいけなかったのは、男子として何と幸いなことだったでしょうか。

 徳川250年の精神的支柱が、「朱子学」だったのですが、この教えが明治時代にも脚光を浴び、富国強兵のバックボーンとしても、この教えがあったようです。中国大陸に満蒙開拓者を送り込み、兵を進め、南方に物資を求めさせ、米英と開戦に至る動きの中に、この教えがあったと指摘される学者もおいでです。何か、複雑なものを感じてなりません。一度、武夷山に行かなくては!

(写真上は、中国の誇る名所「武夷山」、下は、廬山の白鹿洞書院にある「朱熹」の像です)

中興の祖

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 デンマークは、人口が5510000人、43000平方km(九州より少し大きいくらい)の国土、一人あたりのGDP(Gross Domestic Product /国内総生産)が56000ドル(日本が45600ドル)、首都はコペンハーゲン、ユトランド半島と446の島からなる国で、正式には、〈デンマーク王国〉と呼ばれます。童話作家のアンゼルセンを生んだ国、世界最高水準の社会福祉国家、チーズとバターの産出で有名です。女子テニスのキャロライン・ウオズニアッキの祖国でもあります。

 この国を、明治の著述家の内村鑑三が、「デンマルク国の話」という本を刊行して、日本に紹介しています。これは、1911(明治44)年10月22日、東京柏木の今井館で行われた講演を文章化にしたもので、ちょうど100年前の作品になります。この本は、インターネット・http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/233_43563.html
で読むことができます。この本に出てまいります、エンリコ・ミリウス・ダルガス(Enrico Mylius Dalgas、1828~1894) について紹介いたしましょう。

 ダルカスは、デンマークの〈中興の祖〉といったらいいのではないでしょうか。内村の時代、デンマークは、世界一の豊な国でした。人口一人の富は、驚くことにイギリスやアメリカよりも多く、何と日本の十倍も多かったのです。その理由は、鉱山や世界の船舶が停留する貿易港があったのでも、海外に植民地を持っているのではなく、良質な牛乳やバターを産する土地が、その富の原因だったのです。牧場と家畜、樅(もみ)と白樺(しらかば)との森林と、その沿海の漁業 によって立つ国でした。もともとは、そうではなかったのですが、どうしてこのようなな国になったのでしょうか。36歳の工兵士官だったダルガスが、デンマークの3分の1以上のユトランドの不毛の土地を改良したからでした。


 デンマークは、1864年に、ドイツとオーストリアと戦争をしましたが、戦いに破れて、賠償として国の南部にある最良のシュレスウィヒとホルスタインのニ州を割譲されて失ってしまいます。人は少なく、残ったユトランドは荒漠とした原野が広がり、財政も逼迫(ひっぱく)していたのです。あの戦いの中、ダルガスは、工兵として働きながら、「・・・、橋を架し、道路を築き、溝(みぞ)を掘るの際、彼は細(こま)かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復(かいふく)の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連(つら)なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒(よくにょう)の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。 」と内村は記しています。ダルガスは、報復の戦いの代わりに、剣に替えて鋤を手にして国土を開墾していくのです。そのために、ユトランドに群生する〈ヒース〉という植物を駆逐する必要がありました。

 最初に手がけたのは、樅(もみ)の木の植林でした。植林には成功したのですが、ある程度の高さに成長すると枯れてしまうという問題に直面したのです。彼は考えに考えて、「アルプス産の小樅の木と一緒に植えよう!」との思いがひらめきます。そうすると両者はともに成長して行きます。しかし、樅の木はある程度で生育をやめてしまったのです。また失敗でした。この問題を解決したのが、彼の長男のフレデリックに与えられた啓示の知恵でした。「大樅がある程度以上に成長しないのは、小樅をいつまでも大樅のそばに生(はや)しておくからである。もしある時期に達して、小樅を斫(き)り払ってしまうならば大樅は独(ひと)り土地を占領してその成長を続けるであろう !」とお父さんに語り、それを実行しました。するとその難問題は解決されたのです。親子の連繋によって、1860年には、ユトランドの山林はわずかに157000エーカーに過ぎませんでしたが、47年後の1907年にいたりましては476000エーカーに拡大したのです。この植林によって、気候も変わっていきます。灼熱の夏の夜には、霜が降りていたのが止んでしまって、ヒースは失せて、理想的な田園が、ユトランドに広げられてれていったのです。

 このダルガス親子は、鋤と樅の木でもって、窮状にあったデンマークを救ったのであります。下の備えをなし、上から知恵を得て、見違えるような国となったわけです。我が国・日本も、デンマークに倣って、剣ではなく、鋤を手にして、この困難な状況を打開していきたいものです。その様な備えと知恵の〈人〉の起こらんことを、〈平成の中興の祖〉の出現を心から切望してやまない、八月の末であります。

(写真上は、エンリコ・ミリウス・ダルガスの切手、下は、ユトランドの自然です)

失いしところのもの

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 〈火中の栗を拾う〉、語源由来辞典によりますと、「17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌが、イソップ物語を基にした寓話に由来する。その寓話とは、猿におだてられた猫が、囲炉裏の中の栗を拾って大やけどし、猿がその栗を食べてしまったという話である。 」とあります。狡猾な猿の術中に、猫が落ちてしまうのですが、この猿でさえも、たまには木から落ちことがあるのです。ところが、猫だって、知恵がないわけではありません。〈猫が熾(おき)をいらうよう〉と言います。猫は炭火に手を出しては、さっと引っ込めるように、ちょっかいを出すのです(「熾」は炭火、「いらう」はいじる、という意味です)から、猿に唆(そそのか)されても、火の中の栗を、「いらう」に違いありません。フォンテーヌが言うように、やすやすと手を突っ込むことは考えられませんが。もちろん、自然観察をして作りだされた寓話ではないのですから、そのような習性にこだわることはないのかも知れません。

 日本は、これからどうなっていくのでしょうか。国旗を掲げることも、国家を歌うこともできないような、このような国民が世界にあるでしょうか。星条旗を掲げたアメリカの黒船が来航したのは、日本を植民地化しようとしてでした。星条旗の星を機体につけた爆撃機が、広島や長崎や主要都市を爆撃して、多くのいのちを奪いました。ユニオンジャックの旗を掲げて、イギリスは、代価の代わりにアヘンを中国に持ち込みました。どの国旗にも忌まわしい過去の出来事を裏面に隠し持っています。それなのにアメリカ人もイギリス人も、自分が生まれ育った国の旗として、自らの国の旗を誇り高く掲げて、敬礼でさえもしています。どうして日本人は、してはいけないのでしょうか。どうしてある人たちは、罪悪感を覚えて、やましさだけを感じてしまうのでしょうか。自分の国を愛せないで、隣国への愛も互いの平和もありえません。

 山梨県の大和村に、裂石山雲峰寺があります。ここに皇室から甲斐武田氏に与えられた日本最古の「日章旗」が残されているのです。この土地の歴史に詳しい方とキノコ採りに山に入ったときに、案内されて見ることができました。それを見たとき、日中戦争や太平洋戦争の時に用いられた軍用旗のことを思い浮かべることはありませんでした。その旗に、日本の歴史の流れを感じて、感銘を受けたのを覚えております。「日の丸」を軍用旗としてだけ思い描くことを、だれが教えたのでしょうか。私は誇りを持って、私の生まれ育った国の「旗印」としてだけ意識しております。

 国を愛する宰相、子や孫の世代に素晴らしい国を継承させられる首長、夢を次の世代に繋げられる頭領、四海の隣国と正しい関係を築き程々の距離をおいて国交することができる首相が、選ばれて就任されることを切に願っております。時期を考えますと、東北大震災で被災された地域の復興、その影響で冷え込み落ち込んだ経済産業界の再生、生きる意欲を失ったかに見える国民の心の高揚など、大変な時局での舵取りをしなければなりません。誰もが臆して手を出さない、火中の栗を拾う様な大変な仕事を、真正面から立ち向かうことのできる知恵を与えられて、対処される宰相の出現を、心から願っております。救国の大事業は、売名ではできない国家的な仕事なのですから。


 デンマークの歴史の中に一人の「人」がいました。敗戦と困窮と荒漠とした原野、そして意気消沈した国民の前に、立ち上がったのがダルガス(Enrico Mylius Dalgas、1828~1894) でした。多くの人が、「今やデンマークにとって悪しき日なり」と言う中で、彼は、「まことにしかり」と、国家の窮状に同意したのです。「しかしながら、われらは外に失いしところのものを内において取り返すを得べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇の花咲くところとなすを得べし」と、遥かに将来の可能性を信じて告白し、立ち、国民の先頭にたったのです。彼が言ったように、デンマークのユトランドの痩せこけ、アイスランドの土地は、肥沃の大地に変わって、美しい薔薇の花を咲かせる土地に改良されたのです。

 私たちの愛する国は、地震と津波と原発事故の放射線の影響下で、人も家畜も土地も作物も海も汚染され、壊れ崩れました。「内に失いしところのもの」は甚大です。そして、残念なことに諸外国からの評価も落してしまいました。しかし、再び美しい花を、人の心と東北の地に咲かせることを信じて立つ、「人」を、この国は欲しているのです。その指導力のもと、勤勉で忍耐強い私たち日本人は、国土の再生、産業の隆盛、消沈した魂に活力を得ることができるに違いありません。今日のアジアの裕福な商都シンガポールを、ここまで建て上げたのは、広東省の貧農の子孫・客家の李光耀 (リ・クワンユー)でした。

 多くのものを津浪にさらわれ、地震で砕け落とされましたが、必ず「失いしところのもの」を取り返すことができます。誇り高き祖国日本の再建を果たすことができますから。大丈夫、日本!

(写真上は、デンマークの「地図」、下は、「農村風景」です)

人気

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 サッカーは、FW(forward、フォワード)5人とDF(defence、デフェンス)5人とGK(goalkeeper、ゴールキーパー)1人の11人制の球技です。やはり花形は、攻撃陣のFWであって、得点ゴールを上げるのです。テレビのカメラは、90%は攻撃選手に向けられ、その攻撃を防御するデフェンスは、刺身のツマのように、脚光をあびることは極めて少ないのです。もちろん、近年はデフェンスに優れた選手がいて、果敢に攻撃してくる相手方を、巧みにかわす花形選手も出てきています。それでも、何時でも騒がれるのは、フォワード選手なのです。

 私は、鹿島アントラーズ、名古屋グランパス、京都サンガで活躍し、今は現役を退いた秋田豊のプレイが好きでした。その他にも、ヴィッセル神戸、宮本恒靖のフアンなのです。彼らはDFの名選手でした。サッカーは、守りがあっての攻撃だと信じておりますので、デフェンスの目立たない地味なボールさばき、球出しが攻撃につながるのですから、実に重要なチームの要であるのです。私は、11人制のハンドボールの最後の世代の選手でした。サッカーと同じコートですが、35メートルラインというのがあって、攻撃と守備を6人で行うのです。攻撃陣にデフェンスから一人、守備陣にフォワードから一人が加わって、結局は7人制の競技だったわけです。私たちの時代以降、ハンドボールは〈7人制〉に移行して、バスケットボールと同じ程のコートになりました。サッカーは、DFも攻撃して得点を上げる機会がよくありますが、11人制のハンドボールには、そういった機会は極めて稀だったのです。私はFWをさせていただき、9番を着せていただいてセンターフォワードをしました。ところが私たちの時には、東京都2位で、国体もインターハイも出場することがかないませんでした。大学の運動部に推薦入学をされたのですが、行かず仕舞いでした。走って走って走った高校時代でしたから。

 8月2日、元日本代表で、〈横浜マリノス〉で活躍し、今シーズン、〈松本山雅〉に移籍した松田直樹選手が、練習中に、心筋梗塞を起こし、4日、信州大学・高度医療センターで亡くなれました。34歳でした。私の子どもたちと同世代ですから、亡くなられたニュースを聞いて、驚かされました。秋田豊が41歳、宮本恒靖が34歳ですから、彼らと共に戦った名選手だったのです。それでも、秋田、宮本の陰に隠れたDFでしたが、サッカーフアンにとっては、とても人気のあった選手でした。松田選手の亡くなった後の、フアンの悲しみの大きさや深さが尋常でないことを知って、それにも驚かされました。現役選手の練習中の死亡事故というのが、長年支えてきたフアンには、大きなショックなのでしょうけど、やはり、彼の人柄なのではないでしょうか。

 聞くところによると、怪我などで欠場する同チームの選手の名前を、ユニフォームの下の下着に書きこんで、『お前も一緒に戦っているんだぞ!』とのメッセージを送っていたのだそうです。浪花節の心根が、人を感動させるのでしょうね。グラウンド上の勇姿と、家庭人の彼とにはギャップがあった破天荒な人生だったとも聞いております。わけ合って別れた奥様がおいでです。3人のお子さまの、悲しみを超えて、健やかな成長を心から願っております。惜しい選手を亡くしてしまいました。

(写真は、横浜マリノスの欠番となった、松井田直樹の「3番」ユニフォームです)

あなたを産んだ母を楽しませよ 

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 新聞購読の機会をなくして6年になりますが、「毎日新聞」に、自分の母親を語る欄がありましたし、「文芸春秋」にもオフクロ欄がありました。そこでは著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、結構面白い記事だと感心しました。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りだったのです。年配のお爺ちゃんが、自分の母を語る語り口は実にほほえましいものがあります。とくに男の子にとっての母親は特別な人だと思うのです。至高者が極めて親密な関係に置かれた関係で、9ヶ月間その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者でありました。その記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を支配するほどの重要な意味が母子の関わりの中にあるそうです。生きていくことを学ばさせ、子はそれを習得していくわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいることを知らされております。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それをお許しになられた天意を認めるなら、欠けたるところを、充分に補ってくださるに違いないと信じるのです。60過ぎの知人が、『おかあちゃん会いて-よー!』と泣いているのを、焼き鳥屋の卓を囲んだ隣リの席で見た時、いくつになっても、子にとっての母は母なのだと確信させられました。複雑な家庭環境の中で見失ってしまったお母さんへの愛惜と追慕だったのでしょう。《マザコン!》と非難されたことが、以前、ありました。自分の母を誇って語ったことが、その方にはずいぶんと迷惑だったわけです。人には様々な過去と背景がありますから決して傷つけようとしたのでも、無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、兄弟でも様々に違うわけですから、仕方がなのかも知れませんね。私の愛読書には、

  「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ」

とあります。私の母が86歳の頃、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったり、しっかり者だったのですが、そうだったが故に、弱さを感じて心を病んでしまったのです。二度の大病を超えて、生きてきた母が、ひと回り小さくなって来ていました。その母の通院に付き添い駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母をおんぶしたのです。おぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかったのです。平成の啄木の様に、砂浜ではなくビルの廊下を二百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を、ちょっと気にしながら歩みました。やはり軽いんですね。その時「砂の上の足跡」と言う有名な詩がありますが、その詩を思い出しました。母を86年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、至高者だったことに気付かされた、雨の初冬の夕方でありました。

 福沢諭吉が、母親のことを書き残しています(「福翁自伝」にです)。虱(しらみ)だらけの乞食の女性を家に連れてきて、食事と交換に、その虱退治をするのを常にしていたのだそうです。その取った虱を、諭吉が受け取って、石で打ちたたいて潰したのだそうです。実におかしな趣味の女性だったことになりますが、人を乞食だからといって差別したり、軽視したりしないで、相手の必要を満たそうとした人付き合いや生き方を語っているのです。そういった母親の血をひているのが、この福沢諭吉でした。こう言ったことを、17~18歳で知っていたら、私は慶応進学を目指したのですが、残念でなりません。

 正しい価値観に生きる母親から、世に貢献する人が生まれるのでしょうか。教育を受ける受けないは無関係で、21世紀の日本でも、お母さんたちに頑張って子育てをしていただいて、この世紀の必要に届くことのできる、心の確りした人を育て上げて欲しいものです。今では小さくなってしまった母親ですか、その背中をこちらに向けた向う側で、してくれていたことごとを思い出して、心から感謝しております。みなさんのお母様方に、心からの健康と長寿の祝福を心から願っております。

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 結婚したての若かりし頃、「奥さんは、〈首〉なのです。その上に載っている〈頭〉を、その〈首〉が自在に動かしているからです!」という話を、何かの講演会の例話で聞きました。当時は、その意味がまったく分かりませんでした。しかし、やがて結婚生活を重ねて、子どもたちが次々に与えられていく中で、どんなに威張って「俺が・・・!」と意気込んで、主導権を発揮し、亭主関白宣言でやっていこうと思っていたのですが、だめでした。カラ元気ばかりで、実際は弱気だった明治男の父同様、やはり家の中では、女性のほうが上であり、まさに〈首〉であるという現実に直面せざるを得なかったのです。

 ご老人のいる家を訪ねて、いつも感じたことは、好き勝手に生きてきた老主人は、すっかり弱くなってしまい、背中を丸めて隅にいるのですが、家の真ん中で高笑いをして指揮棒を振っているのは老夫人なのです。若いうちは、手綱を手にしながら好きに走らせ、泳がせていましたが、重大事の決定は御台所によるというのが、パターンでしょうか。そうでなければ、お爺さんは、すでに亡くなってしまい、おばあさんはてかてかした脂顔で、家の中のすべてを牛耳っているという型でしょうか。とにかくご婦人のほうが強いのは、日本が、ずっと〈母系社会〉だったことを証ししております。

 最近、現首相の夫人の事を伝え聞くことが何度かありました。経済産業相が、手のひらに「忍」という字を書いて、予算委員会に臨んだのだそうです。このことが閣僚内で話題とされたとき、首相が、「彼は疲れがたまっていたのだろうが、思うところはある。俺だってこらえているんだ。首相執務室に以前から〈忍〉の字を飾っている」と打ち明けたのだそうです。この話に、首相夫人が割り込んできて、即時退陣を迫られた経済産業相が、涙ぐんでしまったことを取り上げて、「泣くような人に大臣は務まらない。私だったら、そんな人はさっさと別れるわ!」と。その人の妻でもないのに豪語したのだそうです。ツマらないことを言ったものです。さらに主人に向かっても、「あなたが泣いたら別かれるわよ!」とダメを押した、いえ脅したのだそうです。

 このことを聞いたときに、現首相の〈弱腰〉、〈煮え切らなさ〉、〈優柔不断さ〉の原因が分かったような気がしました。家にいて、子どもたちが巣立って独立しまった今、二人で話しをしている時、主導権はご婦人が握っていて、あれやこれやと指示を下すのでしょうか。それをメモった首相が、国民とマスコミと閣僚の前で、夫人の考えを自分の意見として述べてきたのだということがでしょうか。そんな想像をかたくしてしまうのですが、真偽の程は。これでは、一国の命運を握って、決断をくださなければならない指導者は、決して務まりませんね。

 「今になって、どうして?」と言われますが、全学連の革マル派にだって親交があり、過激な反政府活動をしてきた人、当時の警察庁にマークされていた人物、日本人が憎んだ拉致犯に関係する政党に献金をして支持するような男、暴力革命を願う思想家に、この掛け替えのない国の舵取りなどさせておけないとかねがね思ってきました。もちろん女性の知恵深い助言は、男を助けますが、助言者の域を超えて、頭になってしまうなら、一国は滅びてしまいます。そんな歴史の顛末を、幾度と無なく聞かされてきていますので、とても心配してきました。「私よりも◯子のほうが能力が高い!」と奥様を褒めるのはいいのですが、その能力に頼っての決定で国が動くとしたら、危険千万なことに違いありません。我が国が、何ともちぐはぐな状態で、軋む音が聞こえている、1つの大きな原因は、ここにあったのではないでしょうか。それが終わろうとしているので、ひと安心しております。はい。

(写真は、菅大臣神社〈菅原道真の「菅」です〉での現首相の姿です)

なぜ

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 昭和32年(1957年)5月30日、銀座の山葉ホールで「講演会」が開かれました。〈東京~大阪3時間の可能性〉という主題で、「鉄道技術研究所(旧国鉄の研究所で、現在の鉄道技術総合研究所です)」の主催でした。鉄研の篠原武司所長の挨拶についで、「車両について」客貨車研究室長・三木忠直が、 「線路について」軌道研究室長・星野陽一が、「乗り心地と安全について」車両運動研究室長・松平精が、そして「信号保安について」信号研究室長 ・川辺一が、おりからの雨を押して集った500名もの聴取者に向かって、「東海道新幹線」の可能性を訴えたのです。この終戦後、最大の鉄道運輸事業の構想は、大きな反響を呼びました。

 おりから、鉄研創立50周年を迎えていましたから、その年の1月8日に所長に就任した篠原は、これまで地道になされてきた基礎研究の適用や、研究員の志気を高めるために、何かできないかを考えていたのです。戦争が終わって、働き場を失った旧陸海軍の技術者たちを、この研究所は受け入れていました。この新幹線事業の中心的な役割を担ったのが、三木忠直でした。彼は、インタヴューに応えて、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ!』と答えています。戦時中、自分が設計した爆撃機や特攻機で、多くの若者を死なせたことの罪責に苦しんでいた三木は、今度は技術の平和利用を切望していたのです。この事業計画は、国会の承認を受け、昭和34年4月20日に着工されます。

 この講演会が開かれた年の4月に、私は国分寺を下車駅とした中学校に入学したのです。中央線の国立と国分寺とを結ぶ線路の右奥に、この研究所がありました。構想が公にされ、研究や試作や実験がなされていた研究所の脇を、中高と6年間通学したのです。鉄道マニアではなかったので、そんなプロジェクトが静かに着々と、しかも熱烈に行われているのに、全く気づかずにおりました。新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日、そのころ新幹線の帝国ホテルのビュッフェへ、食材の搬入のアルバイトを、東京駅でしていたのです。

 その開業から、今年で47年が経ちますが、この間、乗客の死亡事故が皆無であることは驚嘆のいたりであります。『なぜ?』なのでしょうか。その理念は、『安全神話など存在せず、唯一の神話は、決しておろそかにしない細やかな事前の制御と、いかにリスクを最小限に抑えるかにかかっている!』という、〈安全運転〉への飽くことのない研究、実験、検査、適用、反省、改善の努力の積み重ねを、今日の今日に至るまで積み重ねていることにあるのではないでしょうか。それは、事業の成功よりも、乗客一人のいのちの尊重が基本にあるからです。地震、台風、豪雨に見舞われる日本の気象や地形の条件のもと、決して無理な運行をしないことにも、人身事故の回避に繋がっていると思えます。

 私の父も、戦時中には、飛行機製造の軍需工場の責任者として、戦争に加担した過去がありますが、戦後は、旧国鉄の車両の部品を製造し納品する会社の経営に関わっていましたので、父もまた技術の平和利用に戦後を生きていたことが分かるのです。私は、こちらの大学の授業で、NHKが放映しました番組、「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線~老雄90歳・飛行機が姿を変えた~」のDVDを教材に、授業で使ったことがあります。戦争の被害を受けた過去のある国で生まれ育った学生のみなさんに、日本の「新幹線」が、戦闘機が姿を変えた鉄道車両であって、平和を祈念した技術者たちの血の出るような研鑽と努力の結果、生み出されたものであることを、知っていただきたかったからであります。

 結果には、必ず原因があります。死亡事故のない陰で、地道に頑固に不断に行われてきた事々の積み重ねがあってこそ、好結果が生まれ、《世界で最も安全な乗り物》との評価を受けているのであります。私たちの人生も同じに違いありません。地道な一歩一歩の歩みが、たとえ平々凡々たる生き方の中であっても、確かさや確信をもたらすのであります。『生きてきてよかった!』、そう思う生涯を送りたいものです。

(写真は、最新型のJRの「新幹線」の車両です)

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 「国民栄誉賞」があります。厳格な授与規定があるのではなく、『時の首相の人気取りで、決められるのだそうだ!』という話も、あながち間違っていないのではないでしょうか。今回も、女子サッカーチームが、ワールドカップで優勝したことを愛でて、その賞を授与するのだそうです。その受賞事由は次の通りです。

 『FIFA女子ワールドカップにおいて初優勝し、最後まで諦めないひたむきな姿勢によって国民に爽やかな感動と、東日本大震災など大変困難な中で日本国民がいる中で、困難に立ち向かう勇気を与えた。』

 1983年に、プロ野球・阪急ブレーブス(現オリックス・バッファローズ)の福本豊選手が、世界記録となる盗塁・939を達成したときに、中曽根康弘首相が、この賞の授与を打診しました。『そんなモノもろたら立ちションもでけへんようになる!』と言って断ったことがあります。また、2001年に、シアトル・マリナーズのイチロー選手にも、授与の打診がありました。『国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい !』と、彼もまた辞退をし、2004年、最多安打記録を樹立した時も、同じく断りました。

 貰ってしまった賞の大きさや重さに、受賞者が圧倒されてしまい、これからの歩みがなんとなく心配になるのですが、みなさんは如何お思いでしょうか。最近読んでいます本に、福沢諭吉についての記事がありました。明治維新政府ができた頃に、諭吉の功労に対して、何かの褒賞を贈りたいとの話が起こり、それが諭吉に伝えられたのです。それに対して、彼は、

 『車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐をこしらえ、書生は書を読む。人間当然の仕事をしているのだ。政府が褒めるというのなら、まず隣の豆腐屋から褒めてもらわなければならぬ!』
 
と言って、お断りをしたのだそうです。この辞退の理屈は、何と諭吉らしいのではないでしょうか。東北大震災、原発事故で、国全体が昏迷と不安の只中に投げ込まれている現状で、彼女たちが国民に勇気を与えたことは確かですし、喜ぶことができたことは確かです。この優勝を喜んだ私はブログまで書いてしまいました。嬉しかったからです。それでいいのではないでしょうか。もし国民栄誉賞を授与するのなら、中国人研修生20名を、家族の救出よりも優先し、示された「自己犠牲愛」に爆発的な感謝と感動を中国の国民から受けられた、佐藤充さん(佐藤水産専務)も、その候補としてあげられるべきではないでしょうか。また、福島原発の危険を冒して作業をしてきておられる自衛官、消防士、社員、ボランティアの方々、さらには、被災地で死臭の立ち込める中で作業され続けたみなさんを考慮しないとしたら、何か手落ちがあるのではないかと思うのです。

 こう言った選考をする、現政権、現首相の思惑を考えますと、深沢諭吉だったら、何と言うでしょうか。時を読み、空気を読み、人の心を読むに、実に浅薄なのです。「人気」と「支持」を取り付けるだけが、事の決定要件である限り、正しい選考ではなかったと思えて仕方がありません。「なでしこ」さんたち、ごめんね!

(写真は、「池田豆腐店(下北沢から渋谷へ抜ける途中)」です)

勝海舟

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 最後の幕臣、江戸市民150万の命と財産とを火の海から守って、無血開城した功労者の勝海舟は、諸大名と同位の直参旗本でした。勤王派の志士たちが、テレビや映画の主人公として、現代では脚光を浴びていますので、彼らの陰で脇役を演じているのが、勝海舟だといえるでしょうか。西郷隆盛や坂本龍馬が、外様大名の藩政のもとで下級武士でしたから、比べるなら身分的には雲泥の差があったことになります。それでも英米の外国勢力が日本を干渉し始める頃には、尊皇攘夷が叫ばれ、立場が逆転して、薩摩や長州や土佐の各藩の下級武士の間から、倒幕運動が起こり、大きく日本が変わっていきました。

 この勝海舟が、座右の銘としたことばがあります。中国の明代末の賢人、崔後渠(崔銑の異名)が残したことばですが、劉瑾(りゅうきん)という役人の間違いを諌(いさ)めたのが原因で、投獄されています。その時に、この名言を言い表したのです。

   自處超然(ちょうぜん)・・・自ら処すること超然とする
     世俗的な物事に拘らないで、外側から眺めるような余裕な態度と言えるでしょうか。
   處人藹然(あいぜん)・・・人に処すること藹然(あいぜん)とする
     雲や霞がたなびいているように、穏やかで和やかに眺められるような態度のことでしょうか。
   有事斬然(ざんぜん)・・・ことが起こったときに斬然とする
     一朝、事があるときはグズグズしないで活き活きとし、目的をはっきりさせることでしょうか。
   無事澄然(ちょうぜん)・・・何もことが怒らないときには澄然としている
     事が起こらないときは水のように澄んだ気持ちでいることでしょうか。
   得意澹然(たんぜん)・・・得意なときにはあっさりし、まだ足りなく思う謙虚な気持ち
     調子のよいときは、傲慢になってしまいがちなので、気をつけなくてはいけません。
   失意泰然(たいぜん) ・・・失意のときは泰然自若としている
     望みがかなわなく面白みのないように感じる時でも、物事に動じないで落ち着いてことでしょうか。

 これは、素晴らしい処世訓ではないでしょうか。こんな生き方ができたら、人生は楽しく、意味あるものとされていくのではないでしょうか。テレビの劇中でしか会ったことがありませんが、麟太郎も、その父・勝小勝も、武士でありながらも江戸っ子気質で、飄々とした型破りの人だったようです。それでいて賢いリーダーシップをもっていたのです。徳川幕府の終焉劇のために、必要な人材でした。彼は『なすなかれ天意に違(たが)うことを!』と言い残していますが、確りと〈天意〉を認めることができ、恐れることのできた人あったことになります。大田区の洗足池の廻りを散歩していたときに、『これが勝麟太郎、勝海舟の墓ですよ!』と、友人が教えてくれました。江戸っ子にとって、勝海舟は、江戸火消しの新門辰五郎に並び称される自慢の人物だったようです。

(写真は、「勝海舟(麟太郎)」です)

一衣帯水

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 中国新幹線が、浙江省温州で事故を起こしました。多くの犠牲者がでましたことをは、大変残念なことでした。犠牲者やご遺族にみなさんの上に、お慰めをお祈りしております。

 33年前の1978年に、時の主席・鄧小平氏の指揮の下、「改革開放政策」が始まり、それまで遅れをとっていた経済やインフラや教育など、すべての面での新たなスタートが切られました。その政策の基本原則は、「先富論(先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよい)」と言う、劃期的(かっきてき)なものでした。 その勢いは、焼土とかした日本が、その壊滅状況から立ち上がって、世界有数の経済大国になった勢いに比べ、遥かに勝るものがありました。もう20年近くなりますが、私が初めて、北京・フフホト・上海・広州を旅したとき、北京でさえ、車が僅かで、信号など数カ所しかありませんでした。道路で幅を効かせていたのは歩行者と自転車でした。ホテルも高級の割には、薄暗かったでしょうか。それが、6年前、久しぶりにやってきた中国は、激変していました。それから6年した今、道路は車で溢れ返っており、高層アパートが林立し、建設中ですし、道路は高架になって、さながら都内を髣髴とさせる光景を、さらに何倍かしたような様を見せております。街は物で溢れ、外資系のスーパーマーケットもあちこちに開店営業し、大きな商業施設(モール)も、そこかしこに建設中です。

 ちょうど日本が、欧米諸国の水準に近づこう、追いつこう、追い越そうとして躍起になっていた頃の、あの高揚する雰囲気と同じものを、今、ここ福州の街にあっても感じております。日本も急ぐあまり、多くの問題を生起していましたし、その問題処理も、高度成長期の躍進の陰で、国土の保全、環境保護、人権の擁護などが求められ、それらを実現していた時代だったと思います。今の中国をみますと、1960年代の日本と同じで、後にされている問題に、大きく焦点が当てられ、関心を寄せ始めております。国際社会から指摘されている問題点を、非難としてではなく、改善点としていくべき今であります。この後手に回された問題の対処こそ、事故や失敗や不都合が改善され、国際社会の水準になっていく、ひとつの大きな動機付けに違いありません。

 ですから、『そら、見たことないじゃあないか!』と、私は非難しません。躍進途上には、やはり何かが後回しにされるのが常なのです。アメリカ然り、韓国しかり、日本然りなのです。露にされた問題を隠さないで、表に出して、一大課題として対処改善していくときに、中国は経済面での一等国となっていくに違いありません。『新幹線の大事故のダメージは実に大きい。しかし、この問題を徹底的に改善していくときに、中国の技術はフランスやドイツや日本を凌駕していくに違いない!』と、私は感じるのです。

 先日、泉州に旅行した際、「和谐号(Hexiehao=『調和された』の意、中国バージョンの新幹線)」に乗りました。50年の開業の歴史のある日本の新幹線と比べて、気づいたことが幾つかありました。横揺れの回数が多かったこと、振動があったこと、トンネルの出入りの際の風圧が大きいこと、トンネル内で耳鳴りがあること、停車時や減速時の振動の大きさなど、幾つかの違いが気になりました。これも経験と時間とによって、きっと改善されていくことと思われます。日本の新幹線の技術の多くが、『優れた戦時中の航空機製造の技術を、どうしても平和利用したい!』という切々たる思いを根底におき、始められていますから、その技術の研究の歴史は70年にも及ぶと思われます。その差は、仕方のないことだと思います。

 しかし、中国の追いつこう、追い越そうという意気込みは、実に素晴らしく凄まじいものがあります。それを脅威と感じて、日本はさらなる技術の躍進に努める必要があると思われます。韓国の「現代製」の乗用車は、日本製を真似し、改善し、今では比肩するほどの優秀な車として好評をはくしております。彼らが「改善」の努力を積み上げてきたからです。日本はアメリカを追って追い越しましたが、今や韓国や中国に追い抜かれようとしているのですから、うかうかしないで、さらなる努力を、持ち前の緻密さに磨きをかけ、技術を高めていよう邁進して欲しいものです。中国、恐るべきであります!持ち前の積極的志向で、この困難を乗り越えていって欲しいと願うのです。だって、中国と日本は、「一衣帯水」の親子のような間柄なのですから!

(写真は、泉州駅のホームに入ろうとしている厦门発の「和谐号」です)