ゴムorガラス

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 私の友、彼が私を他の人に、『彼は僕の友人!』と紹介してくれるので、『ウエインは僕の友人なんだ!』と言います。この彼が、最近、新しい本を上梓(じょうし)し、邦訳もされております。その本の中で、彼はたくさんの例話を引いているのです。その中に、1996年、ジョージア工科大学の卒業式に招かれた、コカコーラ社・元社長ブライアン・ダイソン氏の祝辞がありましたので、ご紹介いたしましょう。彼は、人生を〈ボール〉に例えて、次のように語ります。

 『人生は、5つのボールをジャグリングしているようなものです。それぞれのボールが何を表すかは、一人一人で違いますが、例えば、「仕事」、「家族」、「健康」、「友人」、「精神」としましょう。あなたは、それを空中で繰っています。「仕事」のボールは、ゴムで出来ていて、落としてもまた跳ね返ってきます。しかし、その他の4つ、「家族」、「健康」、「友人」、そして「精神」のボールはガラス製です。一度落としてしまえば傷がつき、ヒビが入り、ひどい時には割れてしまって、二度と再び元の姿には戻りません。みなさんは、これを理解した上で、バランスのとれた生き方を模索していっていただきたいと思います。』

 学窓を巣立って、これから激しい競争社会を、技術者として実業界の一線を生きて行こうとしている青年たちに、実に的確なアドバイスを語りました。彼が例として取り上げた5つは、どれも大切な人生の部分ですが、落しても弾んで返ってくる「仕事」は、やり直すことができ、替えることもできますが、人生の主要な部分ではないと思われます。かえって、後の4つの部分のほうが、根幹の部分なのではないでしょうか。落としても弾むことのない「家族」、「健康」、「友人」、「精神」を、どう大切に扱っていくかによって、一人一人が人生の成功者になるか、そうでないかが20年後、30年後に結果をみることになるのです。仕事の成功よりも大切に違いありません。


 私は、これまで日本で、3つの職場を渡り歩きました。そして今は、中国の大学で日本語教師をさせていただいていますから、4つの職場で、実に貴重な体験をさせていただていることになります。私は中国行きを決断して、家内の手をとって、2006年8月に、日本を後にしましたときに、中国でのこれからの時こそ、自分の〈人生の仕上げの場〉、〈人生の総決算の時〉であるとの覚悟をもったのです。決して余暇を楽しもうとは思いませんでした。しょうしょう大仰な決心に聞こえてしまうかも知れませんが、日本で老後を生きるよりは、意味も醍醐味もあると確信したからです。ジョージョア工科大学を出て空軍の将校だった、私の恩師が、『あなた方は新しい地に出ていくべきです!』と語ったことばに押し出されたのです。私の若い友人が、『行ってください、中国には、あなたを待っている人たちが大勢いらっしゃいますから!』と勧めてくれたことばも、私の背中を、そっと押しました。この方は長年中国の大学で日本語教師をされ、英語教師のアメリカ人青年と出会って結婚され、中国で四人のお子さんを出産された方です。今も、『また中国に帰りたいのです!』との思いを心に秘めながら、ご夫婦でアメリカにお住まいで、私たちを応援していてくれます。


 私の大きな感謝は、どこででも素晴らしい〈出会い〉があったことです。若い時には、長い経歴を持つ方々から、「家族」、「健康」、「友人」、「精神」について、有言無言の教えを受けたことは宝石だと思っています。もう大部分の方が召されておりますが、ときどき思い出しては、大きな感謝を覚えております。今は、子どもたちの世代より少し上の世代の中国のみなさんから、父や母に対するような愛を頂きながら、相談にのらせていただいたり、交わりを楽しんでおります。また若い世代のみなさんとの出会いは、心踊るような気持ちを覚えさせられています。『うーむ!』と感心させられる実に素晴らしい青年たちと出会っているのです。こういった若い世代のいる、この国の将来に、素晴らしい光を見ているかのようです。ひとたび友好関係が築き上げられた中日の関係でしたが、1993年頃から再び、困難な状況に入って、そんな時代に教育を受けられたみなさんですが、実に心の通った交わりを持たせていただいております。『自分の子ども(孫?)にしたい!』というような青年が何人かおります。もちろん親御さんは離さないでしょうけど。

 教え子たちの卒業式が6月にありました。〈贈る言葉〉の機会はなかったのですが、 落としても弾むことのない「家族」、「健康」、「友人」、「精神」を大切に、バランスのとれた人生設計をされて、今は「仕事」に精出してください。これからを素晴らしく輝いて生きていって欲しいと願っております。生きるって素晴らしいことなのですから!

(写真上は、「サッカー・ボール」、中は、ジョージア工科大学の「キャンパス」、下は、「コカコーラ」の歴代瓶です)

度量

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 1978年10月、終戦後、初の要人として日本を訪問した鄧小平氏は、23日、夫人同伴で昭和天皇を表敬訪問しました。この裕仁天皇は、中国への罪意識、償いの気持ちをとりわけ強くも持っておられたのです。鄧小平氏の顔をみるなり、『わが国は御国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう!』との気持ちを述べたと言われています。その瞬間、鄧氏は立ちつくし、電気にかけられたようになって、言葉が出なかったのです。しばらくして、鄧小平氏は、『お言葉のとおり、中日の親善に尽くし……』と応じられました。『鄧小平氏の衝撃は、<簡単なあいさつ程度で過去に触れない>という日中外交当局と宮内庁の事前了解と違っていたこともあるが、やはり天皇の率直な語りかけが心を打ったのだろう!』と、この会見の一部始終を見ていた入江相政侍従長が、後に語っておられます。

 これは人間宣言をされた昭和天皇の隠されたエピソードです。侵略戦争に終始反対のお気持ちを持たれていたのですが、軍部に押し出され、押し切られ、不本意な決断を苦渋の中で下さなければならなかったと歴史は伝えます。敗戦後の連合軍最高司令官だった、ダグラス・マッカーサーは、戦犯として戦争責任を問おうとしますが、蒋介石の進言によって、取りやめております。さらに占領政策を進めていく上で、天皇のおられることの意味を評価したからでもあったようです。戦後、〈天皇巡行〉が行われますが、行く先々で、歓喜の声で迎えられて、国民も、誰もが戦争責任を問おうとはしなかったのです。

 一方、鄧小平氏は、四川省に生まれ、本名を「先聖」と言いましたが、身長が高くないこともあり、謙遜さのゆえに「小平」と名乗り、中国の〈解放改革政策〉を推し進めて、世界第二の経済大国へと発展させた貢献者です。若い日には、フランスで学び、〈長征〉、〈抗日〉の戦いに参加した勇士で、1983年以降、主席として、中国の近代化を推し進めてこられました。日本との関係の中では、こんな逸話も聞いたことがあります。1977年10月7日、元陸軍軍人で自衛隊の将官も務めた、自衛隊OBらが中国を訪問しました。中日の軍人の交流の可能性を探るのが目的だったのですが、突如として鄧小平との会見が実現します。

 その時の様子を、2004年12月10日(金) 、萬晩報主宰・伴武澄氏は、『~センチメンタルな反戦主義者ではなかった鄧小平~ 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、鄧小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」というような意味の発言をしたのだから一行はあっけにとられたに違いない。 絶対に見間違ってならないのは、鄧小平はセンチメンタルな反戦主義者ではなかったということである。冷徹な努力家であり、前線で戦ってきた野戦軍人だったのである。

  中国共産党は1930年代に入っても、国民党の蒋介石軍に対して劣勢で、江西省の山岳地である井崗山(せいこうざん)で包囲されていた。共産党軍は井崗山から脱出すべく、長征の途についた。目的地の峡西省北部の延安までは、中国の辺境といわれるチベットとの境界や青海省などの峻険な山岳地帯が選ばれた。この途上、毛沢東が本格的に共産党の主導権を握ったとされる。だが、延安にたどりついたときは気息奄々、共産軍は全滅寸前だった。ところが日中戦争が始まり、西安を訪問中の蒋介石は張学良に捕らわれ、国共合作を余儀なくされ、共産党がかろうじて生き延びる道が開かれたのである・・・』と記しています。

 鄧小平氏の懐の深さ、度量の大きさには、驚くべきものがあります。この会談が人民大会堂で行われたときに出席していたのは、鄧小平、廖承志、王暁雲、孫平化、金黎、単達析の各氏でした。会談の中で、、『日中の交流は、漢の武帝の時に始まったといわれるが、それから約2000年、短くみても1500年になる。100年は喧嘩状態だったが、1400年は友好的 だったのだ。100年の喧嘩は長い間におけるエピソードにすぎないと言えよう。将来も、1500年よりももっと長く前向きの姿勢で友好的にいこう。今後の 長い展望でも当然友好であるべきである。 』と、鄧小平氏は語られたのです。


 中国と日本の友好を志向した鄧小平氏の願いをついで、これからの1500年、更なる友好が実現されていくことを願っている私たちですから、これに呼応していきたいと思っております。今年3月の大震災以降、中国が国を上げて、救助隊を派遣してくださり、物心両面で支えてくださり、応援・激励のメッセージを送ってくださった〈友誼〉には、衷心から感謝を覚えております。[ARIGATO謝謝CHINA!]

(写真上は、鄧小平氏が『白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)』と言われた「白猫黒猫」、下は、「謝謝」です)

赦し

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 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』、これは私の父が生前、小さなメモに書き残したことばです。私は、これを《父の遺訓》として、大切にファイルの中にしてしまっております。YAHOO辞書で調べてみますと、『無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。〔補説〕 禅家の公案とされ、1582年甲斐(かい)国の恵林寺が織田信長に焼き打ちされた際、住僧の快川(かいせん)がこの偈(げ)を発して焼死したという話が伝えられる 。』とありました。このことばは、父の世代の人たちが教えられた処世訓のひとつなのでしょう。

 摂氏40.4度、これは日本の観測史上、第2位の高温を記録した、2004年7月21日午後4時の甲府市の気温です。父の書き残した言葉によりますと、あの暑さの中でも、心持ち次第では、涼しさを感じることができると言うのです。でも、どんなに私が努力をしてみても、あの日、甲府にいた私が感じた気温は、40.4度でした。しかし、その前日の方が暑かったように感じたのですが。この体感温度というのは、屋外の白いペンキで塗られた百葉箱(ひゃくようそう)の中の寒暖計の温度が標準温度なのですが、それとは違うのです。灼熱の太陽に熱せられたアスファルトの上で、空気のよどんだ中での温度は、ゆうに4~5度は高かったのではないでしょうか。今年も、群馬県の館林では、41.3℃になるとの予想が出ております。

 ところで、私たちが住んでいます華南の街は、「竈(かまど)」の様だといわれています。最近の統計によりますと、中国で最も暑い街は、福州、杭州、重庆、长沙だそうで、犬が、道端の溜まり水にお腹をつけて、体を冷やしている様子を目にしたこともあえいます。今日は、最高位温度38℃、最低温度27℃の予報が出ております。『雅仁、人生には、苦しい事が多い。一人の男、夫、父として、また一人の市民、国民として生きていく上で、苦しさに負けないで生き抜くんだ!』と言われたように感じています。61年の父の短かった生涯のことを思うことが、しばしばあります。父は、火の様な人生を生きて、地団駄(じだんだ)踏むことも、耐えかねることもあったことでしょう。県立の横須賀中等学校に入学したのですが、家庭の事情で、東京の私立学校に転校し、親戚に身を寄せて通学しなければなりませんでした。十代の前半で、生まれた家や家族から遠く離れて、友人たちとも別れなければならなかったのは、不本意であり、やはり辛い体験だったに違いありません。

 「ジョゼフ」ですが、17歳の彼が、母違いの十人の兄たちに妬まれ憎まれ殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまうのです。そのエジプトでも何度も不遇を喫しますが、30才でエジプト王パロに継ぐ地位に昇進するのです。「人の悪意」の背後に「至高者の善意」を、ヨセフは発見したに違いありません。その「善意」が、彼の人生のあらゆる分野に及んでいたのです。彼の不幸な体験は、父や兄弟たちを大飢饉から救うためであり、やがて、この家系から出る者が、人類に大きく貢献していくのです。私の父が、過酷な人生を耐えて生き抜いてくれたことで、私たちの今があるわけです。ヨセフは、そんな兄たちを赦したのです。その様に、父にも赦すべき人があって、人生の最後の病床で、赦す言葉を私は聞くことができました。子どもの頃の辛い日々のことではなく、懐かしく楽しかった日を思い出して語っていたのです。『辰江さん(それまでは「あれは・・」としか言いませんでしたが)は、料理が上手だった。シュークリームを作ったり、カツを揚げて食べさせてくれたよ!』と話していました。母から聞いた話ですと、『弟や妹にはおかずがいっぱい入った弁当を持たしたのに、俺のは〈日の丸弁当〉で、梅干だけだった!』、と激白していたようですが。そのように、母は父の語らない子供時代の様子を時々話してくれました。きっと、父のひがみもあったかも知れませんね。産んでくれた母は、家格に合わないとの理由で離縁され、継母に養育されたからです。

 そんな死の間際に、継母を赦す父の姿を見ることができたことは、感謝なことであります。私たちの幸いは、このような〈坩堝(るつぼ)〉の中にいることに耐えられるように造られているではないでしょうか。私にも赦されなければならない人、赦していただかなければならない人がいます。みなさんはいかがでしょうか。「心頭滅却すれば」、人を赦せるのかと思いますが、どうしても出来ないいのです。駄目ですね。自分が、今、赦されて生きているという事実に立たない限り、人を赦すことができない、そうに違いありません。相手に機先を制して、『ごめんなさい!』と言いたいものです。

(写真は、原田直次郎1863~1899作「靴屋の親爺」です)