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私が勤めていた研究所の本部が、東京の市ヶ谷にありました。仕事で、そこに一週間に何度か出掛ける機会があったのです。ある時、そこから歩いてすぐの九段に、靖国神社がありましたので、同僚を誘って行ったことがありました。歌で歌われていましたし、日本人にとって、とりわけ戦争で亡くなられた方の家族にとっては、格別な思い入れのある特別な場であることは分かっておりました。そこには大きな鳥居があって、厳かな雰囲気がこぼれ出てくるかのような佇(たたず)まいを感じたのです。
生来、神社に参拝したことは一度もありませんでしたが、母に隠れて、育った街の神社の境内で行われていた、伝統的の笛太鼓の踊りをのぞき見にいったことが、たびたびありました。カンテラ(照明器具)に照らされた夜店を徘徊し、あのカーバイトのガスが燃える匂いをかいで、ヨウヨウや金魚を釣ったり、綿アメを食べながら溢れるような人の間を歩いていた記憶があります。また旅芸人の小屋がかかっていて、田舎芝居の時代劇を観劇したこともあります。なんとも言えない芝居小屋の様と匂いと光景は、やはり懐かしいもののひとつです。神社は、私にとって、そういった幼い日の思い出があるだけで、父も母も、神社とかお寺とかとの関係の皆無の人でした。
ところが、二十代の前半に、その靖国神社に行きましたときに、その境内(けいだい)に厳かさとか幽玄さというのでしょうか、独特な雰囲気がたち込めていたのが、実に重く感じ取れたのです。子どもの頃に遊んだ記憶の中の神社とは、それは異質でした。明治2年に始まる、この神社が、どういった意味のものであるかは、よく知っていました。戦没軍人・軍属が祀られていて、とくに戦争に関わった〈英霊〉といわれる死者を祀っていることもです。東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けて、処刑された人たちも、それに含まれていることもです。
だいぶ以前の「毎日新聞」に、A級戦犯の分祀について、同神社の前宮司の湯沢氏が、『一度神様として招いたものを簡単に人間の考えで左右するわけにはいかない。時代が変わっても永久に分祀はあり得ない!』と言われた記事が載っていました。人間である天皇を、神に祀り上げて、それを頭にして戦争を遂行したのです。民意をひとつに結集させるために作為的に行われたのではないでしょうか。人間宣言をされる以前から、ご自分が人であることを認めておられたのが、裕仁天皇だったのです。イギリス人がするように、天皇を一国の王様として、心からの敬意を私はもっております。
しかし、国として幾度となく、被害に合われた国々に、謝罪を表明していることも事実なのです。あの侵略戦争の結果、アジアで多くの犠牲者を出してしまったことは、大変な責任と呵責があります。私の級友たちのお父さんの多くは、徴兵されて戦死しましたし、職業軍人でも、祖国の父や母や兄弟姉妹や子たちのために戦って召されたのです。そういった戦死の責任だって国は負っていることになります。私が靖国に行ったときに、ここに友人たちのお父さんや、私の叔父がいるとは思いませんでした。仏壇の中にも墓の中にもいないこともです。級友たちの記憶、思いの中に残っておれれるに違いありません。
子どもを乳母車に乗せて散歩をしていたとき、近所の小さな祠(ほこら)のある神社を通りました。人通りが少なかったので、好奇心満々の私は、その中を『見たい!』との衝動に駆られたのです。子どもを乳母車に任せて、その祠の扉を開いて中を見ましたら、中くらいの石が置いてあるだけでした。何の変哲もない平凡な石が、ご神体だと分かって、驚いたり納得したりでした。春と秋に祭礼が行われて、そこには近所の人たちが集っていましたが、この中の何人の方が、その事実を知っているのかと思いましたら、日本人の神観や宗教観は、何と貧しいものなのかと感心させられ、父と母の生き方の意味が少し分かるようでした。
「・・死んだ人々が・・御座(大きな御座)の前に立っている」のです。戦没者だけではなく、死んだ全ての人がであります。祀ること、分祀、首相の参拝よりも、人が祀った英霊と言われる神もまた、「至高者」の前に立たなければならないのです。その最後の審判こそが、最も厳粛なことなのですが。
(写真上は、「九段」の周辺図、中は、カーバイトをガス化した「灯」、下は、「乳母車」です)