一衣帯水

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 中国新幹線が、浙江省温州で事故を起こしました。多くの犠牲者がでましたことをは、大変残念なことでした。犠牲者やご遺族にみなさんの上に、お慰めをお祈りしております。

 33年前の1978年に、時の主席・鄧小平氏の指揮の下、「改革開放政策」が始まり、それまで遅れをとっていた経済やインフラや教育など、すべての面での新たなスタートが切られました。その政策の基本原則は、「先富論(先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよい)」と言う、劃期的(かっきてき)なものでした。 その勢いは、焼土とかした日本が、その壊滅状況から立ち上がって、世界有数の経済大国になった勢いに比べ、遥かに勝るものがありました。もう20年近くなりますが、私が初めて、北京・フフホト・上海・広州を旅したとき、北京でさえ、車が僅かで、信号など数カ所しかありませんでした。道路で幅を効かせていたのは歩行者と自転車でした。ホテルも高級の割には、薄暗かったでしょうか。それが、6年前、久しぶりにやってきた中国は、激変していました。それから6年した今、道路は車で溢れ返っており、高層アパートが林立し、建設中ですし、道路は高架になって、さながら都内を髣髴とさせる光景を、さらに何倍かしたような様を見せております。街は物で溢れ、外資系のスーパーマーケットもあちこちに開店営業し、大きな商業施設(モール)も、そこかしこに建設中です。

 ちょうど日本が、欧米諸国の水準に近づこう、追いつこう、追い越そうとして躍起になっていた頃の、あの高揚する雰囲気と同じものを、今、ここ福州の街にあっても感じております。日本も急ぐあまり、多くの問題を生起していましたし、その問題処理も、高度成長期の躍進の陰で、国土の保全、環境保護、人権の擁護などが求められ、それらを実現していた時代だったと思います。今の中国をみますと、1960年代の日本と同じで、後にされている問題に、大きく焦点が当てられ、関心を寄せ始めております。国際社会から指摘されている問題点を、非難としてではなく、改善点としていくべき今であります。この後手に回された問題の対処こそ、事故や失敗や不都合が改善され、国際社会の水準になっていく、ひとつの大きな動機付けに違いありません。

 ですから、『そら、見たことないじゃあないか!』と、私は非難しません。躍進途上には、やはり何かが後回しにされるのが常なのです。アメリカ然り、韓国しかり、日本然りなのです。露にされた問題を隠さないで、表に出して、一大課題として対処改善していくときに、中国は経済面での一等国となっていくに違いありません。『新幹線の大事故のダメージは実に大きい。しかし、この問題を徹底的に改善していくときに、中国の技術はフランスやドイツや日本を凌駕していくに違いない!』と、私は感じるのです。

 先日、泉州に旅行した際、「和谐号(Hexiehao=『調和された』の意、中国バージョンの新幹線)」に乗りました。50年の開業の歴史のある日本の新幹線と比べて、気づいたことが幾つかありました。横揺れの回数が多かったこと、振動があったこと、トンネルの出入りの際の風圧が大きいこと、トンネル内で耳鳴りがあること、停車時や減速時の振動の大きさなど、幾つかの違いが気になりました。これも経験と時間とによって、きっと改善されていくことと思われます。日本の新幹線の技術の多くが、『優れた戦時中の航空機製造の技術を、どうしても平和利用したい!』という切々たる思いを根底におき、始められていますから、その技術の研究の歴史は70年にも及ぶと思われます。その差は、仕方のないことだと思います。

 しかし、中国の追いつこう、追い越そうという意気込みは、実に素晴らしく凄まじいものがあります。それを脅威と感じて、日本はさらなる技術の躍進に努める必要があると思われます。韓国の「現代製」の乗用車は、日本製を真似し、改善し、今では比肩するほどの優秀な車として好評をはくしております。彼らが「改善」の努力を積み上げてきたからです。日本はアメリカを追って追い越しましたが、今や韓国や中国に追い抜かれようとしているのですから、うかうかしないで、さらなる努力を、持ち前の緻密さに磨きをかけ、技術を高めていよう邁進して欲しいものです。中国、恐るべきであります!持ち前の積極的志向で、この困難を乗り越えていって欲しいと願うのです。だって、中国と日本は、「一衣帯水」の親子のような間柄なのですから!

(写真は、泉州駅のホームに入ろうとしている厦门発の「和谐号」です)

敬慕

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 代議士の西村眞悟氏が、次のような記事を投稿されていました。その一部を引用してみましょう。『・・・そこで、店舗を各国に展開するコンビニのセブン・イレブンが各国の店舗内に設置した義援金箱に入れられた金額を公表しているので、それをご紹介したい。言うまでもなく、コンビニは子供から大人までの普通の庶民が、大金を持たずに日常の買い物をする場所である。従って、一店舗当たりの義援金額は、その国の国民の素朴な対日感情を表していると思われる。これは、我が国の友好国は何処なのかという我が国の国家戦略にも影響を与えるべき要因である。次が、各国内のセブン・イレブン店舗内の義援金箱に入れられた一店舗当りの金額である。
   第1位、インドネシア   108519円
   第2位、台湾        63892円
   第3位、シンガポール    20491円    2011.08.08 Monday name : kajikablog 』

 親日家のインドネシアのスカルの大統領が、大変好んだ日本の歌があるようです。「愛国の花(昭和13年、作詩・福田正夫、作曲・古関裕而で、渡辺はま子が歌いました)」です。彼自身もよく口ずさんだと言われています。

     1 真白き富士のけだかさを こころの強い楯として
       御国につくす女等は  輝く御代の山ざくら
       地に咲き匂う国の花

     2 老いたる若き諸共に 国難しのぐ冬の梅
       かよわい力よくあわせ 銃後に励む凛々しさは
       ゆかしく匂う国の花
                
     3 勇士の後をあとを雄々しくも 家をば子をば守りゆく
      優しい母や、また妻は  まごころ燃える 紅椿
      うれしく匂う国の花

     4 御稜威のしるし菊の花 ゆたかに香る日の本の 
       女といえど生命がけ こぞりて咲いて美しく 
      光りて匂う国の花 

 インドネシアは、16世紀頃から、特産の香辛料の権益を得ようとしていた、イギリスやポルトガル、そしてオランダなどの国が、覇権を競って植民地化を画策していましたので、そういった動きの矢面に立たされていました。しかし18世紀に入りますと、インドネシア全土がオランダ統治下におかれてしまいます。そのオランダの植民地であったインドネシアが、独立していくために、日本と日本軍の果たした役割は実に大きなものがあったのです。もちろん、日本の軍政下におかれた時期がありましたが、日本の敗戦後に、再びオランダがインドネシアを支配しようとしたときに、スカルノらによる独立運動が起こり、その運動に、残留していた日本軍が協力を惜しまなかったのです。ついに1949年12月に、独立が国際的に承認されるのです。 その残留日本人への感謝を込めて叙勲も行われております。

 白人支配下にあったアジア諸国の先駆けとなって、日本が勇敢に戦ったことを、このインドネシア国民は高く評価しているのです。とくに日本の軍政下に置かれたときの司令官が、今村均中将で、その軍政は、実に紳士的で、未だにインドネシアの学校の歴史教科書には、その軍政の模様が記されているとのことです。この今村中将の甥子が、私の大学の級友でした。彼のお父さんも軍人で、ベルリンで行われたオリンピックの「馬術」で惜しくも優勝を逸っした西中尉(ロスアンゼルス大会では優勝)の補欠として参加したほどの馬術の名手でもありました。戦後、山西省に残留し、昭和24年4月、太原攻防戦に敗れた残留部隊は、解放軍に投降しました。今村方策隊長(中国の「百度百科」でも、写真付きで来歴が紹介されていますhttp://baike.baidu.com/view/3324446.htm)は、その直後、敵将と掛け合い、部下の身の安全を確認し、青酸カリを飲んで自決したのです。戦時下で、日本軍兵士が、虐殺だけしかしなかったのではなく、インドネシアでも中国でも、現地人から尊敬を受けた兵士たちが、またいたことを覚えておきたいものです。

 父君が、武人として、部下から敬慕された上官で、中国の蒋介石軍にも解放軍にも尊敬された方だったのですが、級友も、また凛々しい男だったのを思い出します。日本の過去を否定だけするのではなく、輝いていた過去、戦時下にも、敬意を受けていた人々のいたことを知るべきかと思うのです。大震災に見舞われた日本へ、そういった過去を評価するインドネシアのみなさんの草の根の支援が、抜きん出て多額なことは、よい対日感情の表れなのであります。

(社員は、インドネシアの「一風景」です)