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 犯罪が起きますと、街中に設置されてある防犯カメラの映像記録を巻き戻して、同じ時間帯の犯罪が起きた周辺の様子が点検されます。そういったことが頻繁に行われて、犯人像が浮かび上がり、逮捕に結びつき、一件落着といった事案が多いようです。街中には、防犯カメラが、数多く設置されているのを、犯罪が起きて改めて認識させられます。それが防犯に役立ち、犯人の検挙に益するなら、犯罪とは程遠く生きる一市民の私たちには、抵抗感はありません。

 この防犯カメラではなく、今日一日の私の網膜に写った光景が、VTRで巻き戻し上映されたら、どうなるでしょうか。決して他人に見られたくない光景が、幾場面もあることでしょうか。表現の自由というのでしょうか、メディアの攻勢は驚くほどで、雑誌、漫画、テレビ、DVD、ネットなど、様々な領域に溢れ返っています。もし自己規制をして制限しなければ、心を荒廃させて生きる意欲をそいでしまい、その劣悪な映像の虜とされてしまいます。『ポルノの問題は、人を犯罪に誘発するよりも、人を無気力にさせることにある!』といったことを聞いたことがあります。たしかにそうだと思います。目に焼き付いた光景はなかなか忘れられないものです。中学の運動部が、高校と一緒で、そこには様々な先輩、大学生や社会人が出入りしていました。当然、猥褻な雑誌や写真に触れる機会が多くありました。そこで見た、見せられた映像は、半世紀も経つのに、いまだ鮮明に眼に焼き付いているのです。高校の時に、お父さんが有名な映画会社の映画技師をしている同級生がいて、彼が手に入れた写真を、学校で売りさばいたことが露見して、彼は退学処分になりました。中学から一緒に上がってきたのに、高一で処分されて、その後、音沙汰なしです。仲間に誘われなかったのは幸いでした。

 古代人のヨブという人が、こんなことを言っています。『私は自分の目と契約をした。どうして乙女に眼を留めよう。』とです。目の焦点を、どこに合わせるかの問題です。何を見るかが課題なのです。これは、女性への誘惑ではなく、特に男性への強烈激烈熾烈な誘惑であります。十代の男の子だけではなく、有名大学の教授とか、警察官とか裁判官とか医者とか、社会的な立場や役割とは関係なく、激しく男性が誘惑される領域です。ヨブという人は、自分の弱さを知っていて、それを誤魔化したり、言い訳したりしないで、確りと認めていたのです。『見たいものを見る!』という生き方ではなく、『見てはいけない物は見ない!』と決心した人ではないでしょうか。古代にも誘惑はあったことになります。私が戦ってきたのは、見ることではないのです。つまり一瞥することは仕方が無いのですが、〈見続けること〉に問題があるのだと思うのです。見て、男は想像し、それをふくらませていくときに、妄想の世界に導かれ、罪を犯し、罪責感にさいなまれるのです。そういったことを、『避ける!』と決心したのが、このヨブでした。契約とは、そういった決心を言うのでしょう。眼に人格はありませんし、自分の目の所有は自分ですから、隠れたところで見ておられる至高者、そして自分の心と約束をしたことになります。それほど注意深く生きた人がヨブだったのです。


 何時でしたか、街の市場でアルバイトをしていたときに、野菜をネコという一輪車に乗せて運んでいました。ふと行く道の先に、大きなお尻をしたご婦人が同じように野菜を運んでいたのです。つい見たとき(見ただけは罪がないのですが)、少々長めに眺めていましたら、眼に野菜の葉物がぶつかってきて大変な目にあいました。医者に治療をしてもらうほどだったのです。その野菜の葉っぱは、『ノー!』のサインを送ったのです。痛い目をして学ばさせられた若い日を思い出します。それで完全に勝利したのではありません。六十を過ぎた今日でも、この目は激戦の戦闘領域です。ある知恵者は、『右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。』と進言しています。私の友人の友人が、初めて場末のストリップを観ました。真面目に彼は、それまで生きてきたのだそうですが、悪友に誘われて観てしまってから、彼は精神に異常をきたしてしまい、学業放棄をしてしまったのです。中学の頃から先輩に鍛えられて免疫のある私は、そうはなりませんでしたが、未だに戦いの最中にあります。契約をしても再契約になることのほうが多いようです。

 これは私だけの戦いではなく、男性諸氏の止むことのない戦いの領域でありますから、えぐり出してしまうよりも、眼と契約をすること、これを繰り返すことだと思っています。敵は、猛攻撃を仕掛けてくることは必死ですが、問題は、こちら側にあります。手堅く防備しつつ、良い物、爽やかな物、高尚な物に目と心を向ける努力をし続けたいものです。加油!

(写真は、ヨブの住んでいた「ウツ」、下は、「防犯カメラ」です)

美しい地球

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 『このままでは、次の世代に、この美しい地球を残してあげられない!』との危機感から、地球の環境保護と保全を目的に、1997年12月に「京都議定書」が採択されました。そして2005年2月16日に、それが発効したのです。その目的の一つは、地球温暖化防止のために、排出ガス/二酸化炭素を規制し、減らすことに努めていこうとしています。《エコ・ライフ》と言う言葉がよく使われて、住宅も電化製品も車も、『地球に優しい!』と言ったキャッチ・フレーズで売り出されるようになっています。何時ごろからだったでしょうか、冬の日に焚き火をする風情や、庭先の焼却炉が消えて無くなってしまいましたね。美味しい焼き芋をほおばったのを思い出してしまいました。

 何年か前に、久しぶりに帰って来た息子が、1本のVTRを借りてきてくれました。そのタイトルは、アメリカ映画の「デイ・アフター・トゥモロー」でした。これは、大災害と異常気象が世界各地で起こる〈天変地異〉の映画なのです。大津波や大寒波、そして竜巻とかが北半球の各地で起こります。中でも一番の見せ所は大寒波です。この寒波がどれほどかと言いますと、寒波をもたらす大気圏の中心に入ると、1秒間に-10度も気温が下がるのです。ヘリコプターのオイルや羽根までもが凍ってしまうほどの超異常気象が起こってしまいます。東京でも、とてつもなく大きな雹が降る場面が描かれていました。北半球が氷河期を迎えて、人間を含めて、すべての生き物が死に絶えていく様子を、実に警告的に描いていたのです。先年のスマトラ沖地震と津波の報道を見聞きした後でしたので、そこに映し出されている光景が、『起こらないとは言えないよね!』との感想を持ったものです。


 今回の帰国時に、息子が有料映画にアクセスしてくれ、「ポニョ」を観ました。3月11日の「東北大震災」の地震、津波、原発事故が起きた後でしたので、そのタイミングに驚いてしまいました。その体験を通して、2つの映画の意味するところが、より深く分かったのです。自然の猛威と、人間の生き方や営みとの関係が対比されているようで、今回の大震災も、「罰」ではないにしろ、繁栄の陰でもたらされる様々な不具合への「警告」なのではないか、と感じさせられた次第です。

 「終末論」の中に、「・・日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」と記さてあります。人の数千年の営みが、瞬く間に崩れ落ち、その担い手である私たちも滅びるのです。みな絶望し、気が転倒してしまうのです。私の母が、『月が血の色に赤くなったら、雅ちゃん、地球が終りになると聞いたことがあるわ!』と話してくれました。その後、東京都下のわが家の風呂に入りながら、窓の外を見ていましたら、大きな木の陰から〈真っ赤な月〉が昇ってきたのです。一瞬息を飲んでしまいました。『今晩でお仕舞いなのかなあ!』と思ったからで、その恐怖は昨日のことのように鮮明に覚えております。


 『世界は某年某月某日に終わる!』といった終末の予言が当たらなかったニュースが、先日報じられていました。こう言った予言は、人を恐怖に陥れるだけで、日常の義務を怠らせてしまい、市民生活を破綻させてしまうだけです。しかし、この終末の兆しは、もう一面では輝かしい希望の兆しではないかと、私は思うことにしております。『終末が来たら、次に〈新しい時代〉が現われるのではないか、希望の明日が、そこから始まるのではないか!』、そんな期待があるのですが、みなさんは如何でしょうか。母は、私を恐れさせるためではなく、どのようなことがあっても、日常を怠ることなく、義務を生きていくようにと、諭してくれたのだと信じております。今日日、長雨、大雨、地震、津浪などが頻発して、自然の暴威が世界大で起こっていますが、絶望してしまったら何も建設的に事が運びません。どんな事態になっても、明日への希望を捨てずに、互いに励まし合いながら、いたわり合いながら今を生きていきたいものです。

 きっと画期的な変換・転換の方法があるのだと信じてやまないのです。福島や宮城や岩手でも、世界中の被災地でも、そこから立ち上がって、再出発をし始めているのですから。確りと、「警世の声(警告の声)」を聞き止めめておきたいと願っております。

(写真上は、かけがいのない美しい「地球(NASA)」、中は、国際宇宙ステーションから撮影した「地球」、下は、真っ赤な「月」です)