あなたを産んだ母を楽しませよ 

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 新聞購読の機会をなくして6年になりますが、「毎日新聞」に、自分の母親を語る欄がありましたし、「文芸春秋」にもオフクロ欄がありました。そこでは著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、結構面白い記事だと感心しました。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りだったのです。年配のお爺ちゃんが、自分の母を語る語り口は実にほほえましいものがあります。とくに男の子にとっての母親は特別な人だと思うのです。至高者が極めて親密な関係に置かれた関係で、9ヶ月間その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者でありました。その記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を支配するほどの重要な意味が母子の関わりの中にあるそうです。生きていくことを学ばさせ、子はそれを習得していくわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいることを知らされております。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それをお許しになられた天意を認めるなら、欠けたるところを、充分に補ってくださるに違いないと信じるのです。60過ぎの知人が、『おかあちゃん会いて-よー!』と泣いているのを、焼き鳥屋の卓を囲んだ隣リの席で見た時、いくつになっても、子にとっての母は母なのだと確信させられました。複雑な家庭環境の中で見失ってしまったお母さんへの愛惜と追慕だったのでしょう。《マザコン!》と非難されたことが、以前、ありました。自分の母を誇って語ったことが、その方にはずいぶんと迷惑だったわけです。人には様々な過去と背景がありますから決して傷つけようとしたのでも、無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、兄弟でも様々に違うわけですから、仕方がなのかも知れませんね。私の愛読書には、

  「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ」

とあります。私の母が86歳の頃、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったり、しっかり者だったのですが、そうだったが故に、弱さを感じて心を病んでしまったのです。二度の大病を超えて、生きてきた母が、ひと回り小さくなって来ていました。その母の通院に付き添い駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母をおんぶしたのです。おぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかったのです。平成の啄木の様に、砂浜ではなくビルの廊下を二百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を、ちょっと気にしながら歩みました。やはり軽いんですね。その時「砂の上の足跡」と言う有名な詩がありますが、その詩を思い出しました。母を86年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、至高者だったことに気付かされた、雨の初冬の夕方でありました。

 福沢諭吉が、母親のことを書き残しています(「福翁自伝」にです)。虱(しらみ)だらけの乞食の女性を家に連れてきて、食事と交換に、その虱退治をするのを常にしていたのだそうです。その取った虱を、諭吉が受け取って、石で打ちたたいて潰したのだそうです。実におかしな趣味の女性だったことになりますが、人を乞食だからといって差別したり、軽視したりしないで、相手の必要を満たそうとした人付き合いや生き方を語っているのです。そういった母親の血をひているのが、この福沢諭吉でした。こう言ったことを、17~18歳で知っていたら、私は慶応進学を目指したのですが、残念でなりません。

 正しい価値観に生きる母親から、世に貢献する人が生まれるのでしょうか。教育を受ける受けないは無関係で、21世紀の日本でも、お母さんたちに頑張って子育てをしていただいて、この世紀の必要に届くことのできる、心の確りした人を育て上げて欲しいものです。今では小さくなってしまった母親ですか、その背中をこちらに向けた向う側で、してくれていたことごとを思い出して、心から感謝しております。みなさんのお母様方に、心からの健康と長寿の祝福を心から願っております。

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 結婚したての若かりし頃、「奥さんは、〈首〉なのです。その上に載っている〈頭〉を、その〈首〉が自在に動かしているからです!」という話を、何かの講演会の例話で聞きました。当時は、その意味がまったく分かりませんでした。しかし、やがて結婚生活を重ねて、子どもたちが次々に与えられていく中で、どんなに威張って「俺が・・・!」と意気込んで、主導権を発揮し、亭主関白宣言でやっていこうと思っていたのですが、だめでした。カラ元気ばかりで、実際は弱気だった明治男の父同様、やはり家の中では、女性のほうが上であり、まさに〈首〉であるという現実に直面せざるを得なかったのです。

 ご老人のいる家を訪ねて、いつも感じたことは、好き勝手に生きてきた老主人は、すっかり弱くなってしまい、背中を丸めて隅にいるのですが、家の真ん中で高笑いをして指揮棒を振っているのは老夫人なのです。若いうちは、手綱を手にしながら好きに走らせ、泳がせていましたが、重大事の決定は御台所によるというのが、パターンでしょうか。そうでなければ、お爺さんは、すでに亡くなってしまい、おばあさんはてかてかした脂顔で、家の中のすべてを牛耳っているという型でしょうか。とにかくご婦人のほうが強いのは、日本が、ずっと〈母系社会〉だったことを証ししております。

 最近、現首相の夫人の事を伝え聞くことが何度かありました。経済産業相が、手のひらに「忍」という字を書いて、予算委員会に臨んだのだそうです。このことが閣僚内で話題とされたとき、首相が、「彼は疲れがたまっていたのだろうが、思うところはある。俺だってこらえているんだ。首相執務室に以前から〈忍〉の字を飾っている」と打ち明けたのだそうです。この話に、首相夫人が割り込んできて、即時退陣を迫られた経済産業相が、涙ぐんでしまったことを取り上げて、「泣くような人に大臣は務まらない。私だったら、そんな人はさっさと別れるわ!」と。その人の妻でもないのに豪語したのだそうです。ツマらないことを言ったものです。さらに主人に向かっても、「あなたが泣いたら別かれるわよ!」とダメを押した、いえ脅したのだそうです。

 このことを聞いたときに、現首相の〈弱腰〉、〈煮え切らなさ〉、〈優柔不断さ〉の原因が分かったような気がしました。家にいて、子どもたちが巣立って独立しまった今、二人で話しをしている時、主導権はご婦人が握っていて、あれやこれやと指示を下すのでしょうか。それをメモった首相が、国民とマスコミと閣僚の前で、夫人の考えを自分の意見として述べてきたのだということがでしょうか。そんな想像をかたくしてしまうのですが、真偽の程は。これでは、一国の命運を握って、決断をくださなければならない指導者は、決して務まりませんね。

 「今になって、どうして?」と言われますが、全学連の革マル派にだって親交があり、過激な反政府活動をしてきた人、当時の警察庁にマークされていた人物、日本人が憎んだ拉致犯に関係する政党に献金をして支持するような男、暴力革命を願う思想家に、この掛け替えのない国の舵取りなどさせておけないとかねがね思ってきました。もちろん女性の知恵深い助言は、男を助けますが、助言者の域を超えて、頭になってしまうなら、一国は滅びてしまいます。そんな歴史の顛末を、幾度と無なく聞かされてきていますので、とても心配してきました。「私よりも◯子のほうが能力が高い!」と奥様を褒めるのはいいのですが、その能力に頼っての決定で国が動くとしたら、危険千万なことに違いありません。我が国が、何ともちぐはぐな状態で、軋む音が聞こえている、1つの大きな原因は、ここにあったのではないでしょうか。それが終わろうとしているので、ひと安心しております。はい。

(写真は、菅大臣神社〈菅原道真の「菅」です〉での現首相の姿です)

なぜ

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 昭和32年(1957年)5月30日、銀座の山葉ホールで「講演会」が開かれました。〈東京~大阪3時間の可能性〉という主題で、「鉄道技術研究所(旧国鉄の研究所で、現在の鉄道技術総合研究所です)」の主催でした。鉄研の篠原武司所長の挨拶についで、「車両について」客貨車研究室長・三木忠直が、 「線路について」軌道研究室長・星野陽一が、「乗り心地と安全について」車両運動研究室長・松平精が、そして「信号保安について」信号研究室長 ・川辺一が、おりからの雨を押して集った500名もの聴取者に向かって、「東海道新幹線」の可能性を訴えたのです。この終戦後、最大の鉄道運輸事業の構想は、大きな反響を呼びました。

 おりから、鉄研創立50周年を迎えていましたから、その年の1月8日に所長に就任した篠原は、これまで地道になされてきた基礎研究の適用や、研究員の志気を高めるために、何かできないかを考えていたのです。戦争が終わって、働き場を失った旧陸海軍の技術者たちを、この研究所は受け入れていました。この新幹線事業の中心的な役割を担ったのが、三木忠直でした。彼は、インタヴューに応えて、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ!』と答えています。戦時中、自分が設計した爆撃機や特攻機で、多くの若者を死なせたことの罪責に苦しんでいた三木は、今度は技術の平和利用を切望していたのです。この事業計画は、国会の承認を受け、昭和34年4月20日に着工されます。

 この講演会が開かれた年の4月に、私は国分寺を下車駅とした中学校に入学したのです。中央線の国立と国分寺とを結ぶ線路の右奥に、この研究所がありました。構想が公にされ、研究や試作や実験がなされていた研究所の脇を、中高と6年間通学したのです。鉄道マニアではなかったので、そんなプロジェクトが静かに着々と、しかも熱烈に行われているのに、全く気づかずにおりました。新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日、そのころ新幹線の帝国ホテルのビュッフェへ、食材の搬入のアルバイトを、東京駅でしていたのです。

 その開業から、今年で47年が経ちますが、この間、乗客の死亡事故が皆無であることは驚嘆のいたりであります。『なぜ?』なのでしょうか。その理念は、『安全神話など存在せず、唯一の神話は、決しておろそかにしない細やかな事前の制御と、いかにリスクを最小限に抑えるかにかかっている!』という、〈安全運転〉への飽くことのない研究、実験、検査、適用、反省、改善の努力の積み重ねを、今日の今日に至るまで積み重ねていることにあるのではないでしょうか。それは、事業の成功よりも、乗客一人のいのちの尊重が基本にあるからです。地震、台風、豪雨に見舞われる日本の気象や地形の条件のもと、決して無理な運行をしないことにも、人身事故の回避に繋がっていると思えます。

 私の父も、戦時中には、飛行機製造の軍需工場の責任者として、戦争に加担した過去がありますが、戦後は、旧国鉄の車両の部品を製造し納品する会社の経営に関わっていましたので、父もまた技術の平和利用に戦後を生きていたことが分かるのです。私は、こちらの大学の授業で、NHKが放映しました番組、「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線~老雄90歳・飛行機が姿を変えた~」のDVDを教材に、授業で使ったことがあります。戦争の被害を受けた過去のある国で生まれ育った学生のみなさんに、日本の「新幹線」が、戦闘機が姿を変えた鉄道車両であって、平和を祈念した技術者たちの血の出るような研鑽と努力の結果、生み出されたものであることを、知っていただきたかったからであります。

 結果には、必ず原因があります。死亡事故のない陰で、地道に頑固に不断に行われてきた事々の積み重ねがあってこそ、好結果が生まれ、《世界で最も安全な乗り物》との評価を受けているのであります。私たちの人生も同じに違いありません。地道な一歩一歩の歩みが、たとえ平々凡々たる生き方の中であっても、確かさや確信をもたらすのであります。『生きてきてよかった!』、そう思う生涯を送りたいものです。

(写真は、最新型のJRの「新幹線」の車両です)