なぜ

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 昭和32年(1957年)5月30日、銀座の山葉ホールで「講演会」が開かれました。〈東京~大阪3時間の可能性〉という主題で、「鉄道技術研究所(旧国鉄の研究所で、現在の鉄道技術総合研究所です)」の主催でした。鉄研の篠原武司所長の挨拶についで、「車両について」客貨車研究室長・三木忠直が、 「線路について」軌道研究室長・星野陽一が、「乗り心地と安全について」車両運動研究室長・松平精が、そして「信号保安について」信号研究室長 ・川辺一が、おりからの雨を押して集った500名もの聴取者に向かって、「東海道新幹線」の可能性を訴えたのです。この終戦後、最大の鉄道運輸事業の構想は、大きな反響を呼びました。

 おりから、鉄研創立50周年を迎えていましたから、その年の1月8日に所長に就任した篠原は、これまで地道になされてきた基礎研究の適用や、研究員の志気を高めるために、何かできないかを考えていたのです。戦争が終わって、働き場を失った旧陸海軍の技術者たちを、この研究所は受け入れていました。この新幹線事業の中心的な役割を担ったのが、三木忠直でした。彼は、インタヴューに応えて、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ!』と答えています。戦時中、自分が設計した爆撃機や特攻機で、多くの若者を死なせたことの罪責に苦しんでいた三木は、今度は技術の平和利用を切望していたのです。この事業計画は、国会の承認を受け、昭和34年4月20日に着工されます。

 この講演会が開かれた年の4月に、私は国分寺を下車駅とした中学校に入学したのです。中央線の国立と国分寺とを結ぶ線路の右奥に、この研究所がありました。構想が公にされ、研究や試作や実験がなされていた研究所の脇を、中高と6年間通学したのです。鉄道マニアではなかったので、そんなプロジェクトが静かに着々と、しかも熱烈に行われているのに、全く気づかずにおりました。新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日、そのころ新幹線の帝国ホテルのビュッフェへ、食材の搬入のアルバイトを、東京駅でしていたのです。

 その開業から、今年で47年が経ちますが、この間、乗客の死亡事故が皆無であることは驚嘆のいたりであります。『なぜ?』なのでしょうか。その理念は、『安全神話など存在せず、唯一の神話は、決しておろそかにしない細やかな事前の制御と、いかにリスクを最小限に抑えるかにかかっている!』という、〈安全運転〉への飽くことのない研究、実験、検査、適用、反省、改善の努力の積み重ねを、今日の今日に至るまで積み重ねていることにあるのではないでしょうか。それは、事業の成功よりも、乗客一人のいのちの尊重が基本にあるからです。地震、台風、豪雨に見舞われる日本の気象や地形の条件のもと、決して無理な運行をしないことにも、人身事故の回避に繋がっていると思えます。

 私の父も、戦時中には、飛行機製造の軍需工場の責任者として、戦争に加担した過去がありますが、戦後は、旧国鉄の車両の部品を製造し納品する会社の経営に関わっていましたので、父もまた技術の平和利用に戦後を生きていたことが分かるのです。私は、こちらの大学の授業で、NHKが放映しました番組、「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線~老雄90歳・飛行機が姿を変えた~」のDVDを教材に、授業で使ったことがあります。戦争の被害を受けた過去のある国で生まれ育った学生のみなさんに、日本の「新幹線」が、戦闘機が姿を変えた鉄道車両であって、平和を祈念した技術者たちの血の出るような研鑽と努力の結果、生み出されたものであることを、知っていただきたかったからであります。

 結果には、必ず原因があります。死亡事故のない陰で、地道に頑固に不断に行われてきた事々の積み重ねがあってこそ、好結果が生まれ、《世界で最も安全な乗り物》との評価を受けているのであります。私たちの人生も同じに違いありません。地道な一歩一歩の歩みが、たとえ平々凡々たる生き方の中であっても、確かさや確信をもたらすのであります。『生きてきてよかった!』、そう思う生涯を送りたいものです。

(写真は、最新型のJRの「新幹線」の車両です)

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