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「七十年安保」に反対した闘争が、1968年頃から激化し始めていました。日本中の高校や大学を席巻し、学業や研究どころではなくなっていました。まるで戦乱の最中(さなか)に、日本が放り込まれたかのような喧騒と怒号があふれていたのです。67年に学校を終えて、JR市ヶ谷駅や九段に近いところに本部があり、研究所と研修センターは、都下の織物の街・八王子にあり、そこに勤めていました。4年目の正月を迎えた頃、中野区内の高等学校からの招聘があって、そちらに卒業証明書などを提出する必要がありました。それで、久しぶりに母校に行ったのです。
バス停を降りて校門に向かって右に曲がったとき、私の眼に校門が鉄条網で何重にも巻かれているのが目に入りました。安田講堂の占拠、新宿駅の騒乱、多くの大学の閉鎖は、テレビの映像で観ていましたが、自分の出た学校までもが同じだったのです。構内に入るには、人一人が出入りできるだけの隙間があるのみでした。早慶のような知名度はないにしろ、自分の母校の変わり果てた様子は、悲しいというよりは、〈憤り〉を覚えました。授業は行われていませんでしたが、事務室は開いていて、書類の発行をしていただいたのです。
私は、デモや投石やゲバ棒による社会改革など、全く考えたことがありません。徒党を組んで権力に反抗するような主張にも反対でした。ほとんどの日本人、学生も社会人も、そう考えていたと思います。そういった主張は、中国の紅衛兵運動から始まって世界中の若者を巻き込んでいた時代だったとかと思いますが。日米安全保障条約が自動延長することに、賛成派だったからもあって、極東の緊張の中で、緊密で親密な日米関係は必要不可欠だと、私は思っていました。自衛隊があることも、警察庁に公安部があることも、国の安寧秩序を守るためには、あってしかるべきだとの結論を下していたのです。何よりも、国土も文化も生業も、先達たちが守り残してくれたもので、それらへの感謝が心の中にあるからです。しかし、かつてのような侵略戦争に賛成しているのではありません。国を脅威から守ることは、国の当然の行為であり、平和を願う一人の国民として市民として当然だと考えていたからです。
私より二回りほど年配のアメリカ人実業家は、『私は、家族を守るためには、家に侵入して害を与えようとするものに向かって、銃をとります!』と言うのを聞きました。彼が日米の太平洋戦争に従軍した兵士だったからではなく、ひとりの市民として家族を守りたいとの心情からの思いなのです。彼は平和を愛する、実に穏健なものの考えを持たれ、人柄はとびっきり柔和な方でした。こういった方の考えの基調は、「義」や「愛」や「平和」なのです。私の愛読書には、『・・・義と・・・愛と平和を追い求めなさい。愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです・・・争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。 』と書いてあります。
こういった学生運動の中に、現首相、前官房長官などがいました。この二人は、かつては官憲に刃向かってゲバ棒を振り、火炎瓶を投げ、「浅間山荘事件」で内部ゲバでいじめや殺人を犯した赤軍派と、同じようなスタンディングをとっていたものなのです。所属した派や犯行の仕方こそ違っていても、彼らは大同小異、暴力による反抗集団の一味で、目指していたのは国家転覆だったことは間違いありません。ただ彼らの、その頃を知っている方の話ですと、この二人とも、浮腰で小心翼翼として、第四列目に位置していつでも逃げ切れる位置を確保しており、前線で火炎瓶を投げていた学生の弁当運びをしていたのだそうですが。煮え切らない、燃え切らない学生運動家、挫折した中途半端な学生運動家でした。しかし、一国の首長になっても、その〈反抗心・暴力革命の心〉は持ち続けているに違いありません。最近のニュースによりますと、北鮮の拉致に協力した犯罪者の子が所属する政党に、5000万円以上の政治献金をし、彼の属する政党からも1億数千万円の献金をしてきたのが、現首相だと報じています。
どうしても日本が心配です。一国の政府の首脳が、このような過去を持つというのは、どうしても悲劇で、今後の動向が危惧されて仕方がありません。今こそ、上杉鷹山のような、西郷隆盛のような、広田弘毅のような人材が、国に求められているのではないでしょうか。清廉潔白で、判断力と決断力に富み、愛国の志を持つ、少なくとも五十代前半の政治家の出現を望むものです。そういった器が、備えられていると信じる七月の下旬であります。繰り返して、同じことを申し上げたいのです。
(写真上は、「母校」の玄関脇の様子、中は、「70年安保」の様子〈四列目にカンがいますか?〉、下は、上野の「西郷隆盛像」です)