高尾紀行


江戸時代には、宗教的な理由で山に登ることはありましたが、それとても「女人禁制(にょにん)」で、男だけが許された行事の世界でした。上高地・梓川の河畔に、慶応大学の英語教師をしていたイギリス人宣教師ウエストン(1861年12月25日~1940年3月27日)の碑があります。家内の友人夫妻が案内してくださって、一緒に訪ねたことがあります。ウエストンは27歳で初来日し、明治の日本人に、登山の楽しさ、山や自然を愛することを紹介してくれたのです。生涯に三度日本を訪ね、その人柄も地元の人たちに慕われたと聞きます。日本には、北アルプス、中央アルプス、南アルプスがあり、山梨県には「南アルプス市」までありますが、この「アルプス」の命名者が、このウエストンだそうです。

彼の影響でしょうか、明治の文人たちの中にも、山をこよなく愛した方々がおいでです。俳句の

柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

で有名な正岡子規も、そのような一人でした。彼は、「高尾紀行」を残しています。その冒頭に、『旅は二日道連は二人旅行道具は足二本ときめて十二月七日朝例の翁を本郷に訪ふて小春のうかれありきを促せば風邪の鼻すゝりながら俳道修行に出でん事本望なりとて共に新宿さしてぞ急ぎける。』とあります。「例の翁」というのは、21歳年長の内藤鳴雪で、この方の俳句の師が子規であったのです。新宿駅で甲武鉄道(今の中央線です)に乗り込んだ二人は、高尾登山に出かけます(まだ八王子までしか開業されていなかったかも知れません)。車窓から風景を眺めながら、子規の指導を受けながら、鳴雪は「俳道修行」をします。彼がこんな句を詠んでいます。

荻窪や野は枯れはてゝ牛の聲

荻窪あたりでは、農耕用の牛の鳴き声がしていたようですが、私は、仕事でこの荻窪駅に2年間、通勤で地下鉄に乗り換えたことがあり、家内は、高校に3年間通いました。うん、モー昔日の感なしの今ですね。

汽車道の一筋長し冬木立


沿線は、今日日、軒を連ねた住宅が続き、どこの駅前も銀行や予備校やデパートやスーパーマーケットが林立していて、「木立」など、つとに見たことがありません。かろうじて国分寺か国立あたりまで参りますと、櫟林が残されているでしょうか。

麥蒔やたばねあげたる桑の枝

「富国」政策で、絹糸の輸出が盛んだった頃には、沿線には桑畑が広がっていたのでしょうか。私が育った町の桑園に「蚕糸試験場」があって、そこに廃棄されたサナギがあって、拾って桑の葉の餌を与えて育てたこともありました。高尾山に着いたときには、次のように記しています。

『高尾山を攀ぢ行けば都人に珍らしき山路の物凄き景色身にしみて面白く下闇にきらつく紅葉萎みて散りかゝりたるが中にまだ半ば青きもたのもし。』、子規も鳴雪も、共に伊予松山(今の愛媛県です)の人ですが、高尾を「田舎」、自分を「都人」というのですから面白いですね。

帰りには、私の育った日野駅で降り、「百草(もぐさ)」の寺や「高幡不動」を訪ねています。その時、鳴雪は、

朝霜や藁家ばかりの村一つ

と詠んでいます。二十歳まで過ごした街が、麦わらばかりの農家の農村だったのですから、級友たちのおじいちゃんたちの家も、二人は眺めたことでしょうか。ここから多摩川を渡って、国分寺、府中を経て新宿に戻るのです。蒸気機関車に乗り、馬糞と石ころだらけの道を歩いたふたり旅だったようです。初夏の高尾、明治の森を過ぎて相模湖に下っていく道を、何度歩いたことでしょうか、二十代のはじめには、標高599メートルを走って登ったことがありますが、先週、広西壮族自治区の白雲山に登りましたが、息が切れて、なんども休んでしまいました。二つ違いの弟が、山歩きが好きで、山男・強力(ごうりき)をしてたこともありますが、今では、陸に上がった河童、麓に戻った何でしょうか?日常から離れた山歩きって、いいものです!


(写真上は、上高地の朝の「河童橋」、下は、多摩川を渡る「中央線〈?〉の蒸気機関車」です)