山歩き

 

「山男の歌」があります。神保信雄の作詞、作曲者は不詳ですが、歌詞は次のようです。

       娘さんよく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ
       山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ 山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ
       娘さんよく聞けよ 山男の好物はよ
       山の便りとよ 飯合のめしだよ 山の便りとよ 飯合のめしだよ
       山男よく聞けよ 娘さんにゃ惚れるなよ
       娘心はよ 山の天気よ 娘心はよ 山の天気よ
       山男同志の 心意気はよ
       山できたえてよ 共に学ぶよ 山できたえてよ 共に学ぶよ
       娘さんよく聞けよ 山男に惚れたらよ
       むすこ達だけはよ 山にやるなよ むすこ達だけはよ 山にやるなよ

 標高2999メートルの「剣岳」、北アルプス・飛騨山脈の難所の一つで、日本の数ある山の中でも、登山が最も危険だと言われています。この山を題材に、新田次郎が、「劒岳 点の記」として著し、文芸春秋社から1977年に刊行されました。私は、地図を見ることや「時刻表」を見ることが好きでしたし、もちろん山登りも大好きでした。国土地理院の「白地図」を、大きな本屋で買っては、地図上の等高線やさまざまな記号を眺めては、自分がどこにいるのか、自分の関心を寄せている地域の様子を、地図の上で探したりしました。新田次郎の作品に触れて、こう言った地図作りに、命がけで取り組んだ人がいたことを知って、とても感動したことでした。明治40年ころには、地図の作成は、陸軍が国土防衛上の理由から、測量を行っていたようで、「劒岳 点の記」の主人公も、陸軍省の測量部の測量士なのです。

 きっと教育など受けたことのない道案内の山男・宇治長次郎と、軍人として軍の学校で学んだ測量士・柴崎芳太郎の篤い友情、山を愛する者同志の共感と信頼、互いの仕事に対する真摯な姿勢への敬愛、そういったものが感じら、二人の心の動きなどが、山を愛する筆者の手で描かれ、実に面白いのです。なんとなく明治生まれの鉱山技師(青年期)で、秋田、山形、山梨、朝鮮などで仕事をした父の姿を髣髴とさせてくれるのです。
 
 最初の職場の上司が、山好きで、日曜日によく山歩きに連れていってもらいました。当時、土曜日は休日ではありませんでしたから、日曜日の朝に集合しては、奥多摩や中央線沿線の山を歩いていました。日曜日の過ごし方が、その後、大きく変わるのですが、あの時期の山歩きは、創造の世界の厳かさを、小さな人間の脚で踏み歩き、眼でその様子を眺め、天気の移り変わりに心を動かえ慌てたりした、そんな週末を過ごしたのです。その山仲間も、数年のうちにバラバラと、他の職場に移っていってしまい、誰も、その職場に残らなかったのは、何だか不思議な感じがしております。『山に行きましょう!』と誘ってくれたのが、南信の高遠の出身の課長で、私が招聘されて勤めた学校の短大の教授になって、転職してきました。まあ一見したら、どなたも大学教授とは思わないでしょうね。あの「劔岳 点の記」の長次郎然としていましたから、ガニ股の山男そのものでした。国文学を先行されて、俳句や和歌を読み、歌人・古泉千樫 の研究書などを残しておいでです。


 先日、広西壮族自治区に行く機会がありました。広東省の広州からバスに乗って着いたのが、「梧州(Wu zhou)」という街でした。ここに、「白雲山」という小高い山があって、麓から歩いて登りました。ちょうど「儿童节(こどもの日)」で、学校の休みの子どもたちが大変多かったのです。ちょっと息が弾んで休みながら登ったのですが、土地の老若男女、赤ちゃんを抱いたお母さん、初老の夫妻が、黙々と山登りをしていました。驚いたことに、ハイヒールをはいた若い女性がいたのです。たくましいのでしょうか、運動靴がないのでしょうか、オシャレなのでしょうか、日本では、登山者のほとんどは装束をピシッと決めていますから、びっくりしてしまうのです。ちょっと残念だったのは、山頂から四方を見渡すような展望台がないのです。登ってきた道を見下ろす楽しみがないのは、酢を入れない醤油で水餃子を食べるようなものでした。そう云えば、明治の登山者は「草鞋(わらじ)」履きでしたが、私は山好きの弟の勧めで、「地下足袋(じかたび)」で歩くのを常としていました。みなさんは運動具店で買ったキャラバンシューズや登山靴でしたから、ちょっと一線を画した身として、少々得意だったのです。いつか、四川省と貴州省の間の山岳地帯に、連れていってもらいたいのですが、脚力がちょっと心配で躊躇しています。みなさんの足を引っ張ってしまって、手を引いてもらっては申し訳ありませんので。でも、ここには地下足袋はないのでしょうね。

(写真上は、奥多摩・御前山の登山道、中は、梧州の「白雲山」の入り口、下は、「雲海」です)