水無月


 広島と長崎を壊滅させた驚異のエネルギーを、平和利用するには、考えられるだけの危険を、最大限防ぐ必要がありました。少なくとも被爆国として、その怖さを身を持って体験したのですから原子力発電事業を始め、続けていく上で、どうしても万全、万無一失の安全対策をすべきでした。喉元過ぎれば・・・で、その怖さを忘れ、原子力発電事業を始めてからも、危険認識がなさすぎたのではないでしょうか。電力の供給は、私たちが生きて行くための絶対不可欠なもので、公益事業なのですから、企業収益の多くを、必要経費として危険対策費に回さなければなりませんでした。今日の外伝のニュースで、原発全廃を決めたスイス原子力安全局が、この5月5日に、『福島原発事故は想定内のことである!』との報告書を出してしていました。

 (1)緊急システムに 津波防護策が施されていなかった
 (2)冷却用水源や電源の多様化が図られていなかった
 (3)使用済み核燃料プールの構造が内外の衝撃に対して無防備で確実 な冷却機能もなかった
 (4)原子炉格納容器のベント(排気)システムが不十分だった-と指摘されている

とです。ここに報じられているのは、『・・しなかった!』の羅列です。無為無策での軽視、怠慢(中国語の「怠慢(daiman)」の意味は、『もてなしが行き届かない!』で、接待がうまく行かなかったことです)だったことになります。企業は、政治家への《もてなし》が慣例、さだめなのでしょうか、大きな見返りを期待するからなのです。私が、文部省傘下の一研究所に務めたとき、総務的な仕事をさせられました。研修会などを開きますから、事務研修関係の器具や事務用品の購入の経費も相当な額でした。その春、腕を骨折して、そのリハビリに山梨県の増富の温泉に行きました。その時、同宿している客の中に、研究所の近くで事務器具を扱っている会社の社長がいました。『取引させてくださいませんか。その見返りに10%、あなたに個人的に差し上げますが、如何でしょうか!』と誘ってきました。臨時の小遣いが入って、高級車だって手に入りそうな誘惑の話でした。ところで、『不正を憎み、義を愛すること!』を、両親に教えられて育った私でしたから、はっきりとお断りしました。小さな研究所だって、そんな誘惑の罠の中にあるのですから、日本有数の電力会社や委員会や議員たちにとっては、底知れない誘惑の谷が、大きな口を広げて飲み込もうと待ち受けているはずです。


 3月11日の地震と大津波のあと、福島第一原子力発電所が大津波の被害を受けたらしいとのニュースがありましたが、当初は、報道規制がひかれていたので、その厳粛さが、息子の家にいた私にも伝わって来ませんでした。後になって分かるほどの、国や近隣諸国を根底から震撼とさせる事態は感じていませんでした。かつての旧ソ連やアメリカや国内の原発事故のどれよりも、事態は極めて深刻だったのにです。次男は、この初めての経験に身も心も震わせていました。220キロも離れて住む東京都民にとっても、それほど深刻でしたから、福島県民はいかばかりだったことでしょうか。『事実が隠蔽されていて、伝えられていない!』との近隣住民の声が聞こえていましたが、これも無視されていたのです。利害関係、損得、責任回避、根回しなどの思惑が、どす黒く渦巻いていたのが、私の眼にも見え見えでした。

 息子の家に家内といる間、『お父さん、今日は放射線量が多いので、なるべく外出しないほうがいいよ!』と言い残して、次男は渋谷の反対集会、代官山の講演会へと出掛けていき、インターネットで正しい情報を流し続けていました。『お母さんを連れて、シンガポールのお姉ちゃんのところに行ったらいいよ!』と気遣ってくれました。中学生の時にあった、阪神淡路大震災のおりに、学校を休んで給食活動に出かけて行った彼でしたが、社会人となって責任もあって、今回は自由な行動もままならないのですが、先日は、福島の知人を激励に出かけたと言っていました。深刻な原発事故の放射線の空中飛散や海水汚染、土壌汚染の収束、終息は、いつなるのでしょうか。

 『・・・しなかった!』ことの責任はやはり大きいのではないでしょうか。この時代の過誤、怠慢、蔑ろにしたことを、今の子どもの世代が、結果を受け継ぐのですから、厳粛なことに違いありません。こう言った警鐘の声が、外国の専門家から出されているのに、東大や東工大の学者や専門家たちが、公表や公言できない学問の世界の封建制、前近代的な在り方こそが、最も根源的な悪がこんなところにあるのです。そこに一枚、政治の世界の闇が噛んでいるのでしょうね。学者だと自他共に認める学者のみなさん、あなたは学びの途上にある者だとの謙遜な認識が必要なのではないでしょうか。私に影響を与えた老練で義を愛した、その道の専門家は、『学び始めて、やっと少しばかり分かり始めたばかりです!』と言っていましたが。


 家内に昨日、『どう?』と聞きましたら、『気にしないこと!』と名言を漏らしていましたから、禿げないので安心しました。ハゲてもハゲなくても、この事態の収束(終息)を心から願う大陸の水無月の夕べです。

(写真は、福島県「会津の風景」、中は、原発の「建屋の中の惨状」、下は、帝都・東京湾上の「花火大会」です)

ひめごと

 

 だれにでも《秘密(中国語では、mimi)と読みます》があります。昨年秋に家内が発病、入院治療、そして、今年の1月、日本に帰国後、また激痛に見舞われ緊急入院、退院、入院手術と繰り返しましたので、今学期の授業担当を取り消していただいて、ほかの教師に代講をしていただきました。帰国中、息子の家で、NHKテレビで放映されています連続テレビ小説「おひさま」を観始めたのです。朝の時間帯にテレビを観るなんて、これまで殆ど無かったことですが、出勤時間を心配しないでよい私は、こっそりと、この番組を見続けているのです。どうして、ここ中国で観られるのかといいますと、インターネットに「KeyHoleTV」というサイトがありまして、これを偶然見つけて、ダウンロードすることができたのです。私のノートPCで、約8cm×5cmの画面で、とても小さいのですが観ることができます(拡大できますが不鮮明になってしまうのでしません)。最近は音質も画質も、少し良くなってきて、我慢すれば日本の茶の間で観ているような錯覚に陥るのです。

 兵庫県明石の標準時の日本時間と比べて、北京時間は1時間遅れるので、放映時間は、北京時間7時になります。幸い、5時半頃には目が覚めていますので、ゆっくりした早朝のたたずまいの中で観させてもらっています。実に面白いのです。昭和10年代の信州安曇野が舞台で、暗雲急を告げ、戦争の深みに国全体、アジア全体、全世界が沈み込んで行く時代の物語です。戦争中に生まれた私は、安曇野から南東に位置する山梨県下で生まれましたから、さほど遠くない田舎の雰囲気が似ているのかも知れなく、興味はつきません。もちろん安曇野は中部山岳に位置していますが、平野が南北に広がって、ゆったりした自然が豊なところです。もちろん冬は厳しいものがあるのですが。作詞・やしろよう、作曲・伊藤雪彦の「安曇野」という題の歌があります。

    1 大糸線に 揺られて着いた ここは松本 信州路
    安曇野は 安曇野は 想い出ばかり どの道行けば この恋を
    忘れることが できますか せめて教えて 道祖神

    2 湧き水清く ただ一面の わさび畑が 目にしみる
    安曇野は 安曇野は 想い出ばか あの日と同じ 春なのに
    あなたはそばに もういない 恋は浮雲 流れ雲

    3 なごりの雪の 北アルプスを 染めて朝陽が 今昇る
    安雲野は 安雲野は 想い出ばかり あなたを今も 愛してる
    恋しさつのる 旅路です 揺れる面影 梓川
  (midiで聞けます http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/jsengo2-frame.html)

 先週末から、杏子ちゃんという東京の両親の元から、叔母の家に疎開してきた小学生が登場しています。この叔母が敵役で、杏子ちゃんに少々いじわるなのです。でも彼女は、じっと歯を食いしばって耐えています。病気で入院した父、その看病をする母への理解があって、親元を離れて健気に生きている様子をうかがうことができ、戦時下によく見られた光景なのでしょうか。前回から、その杏子ちゃんに笑顔が戻ってきているのです。クラスメートが、絵の上手な杏子ちゃんに、象の絵を書いてもらうくだりが演じられていました。書き終わったあとに、ニコッと笑う初めての笑顔を、主人公の陽子先生が見つけるのです。頑なな子供から、笑顔を回復させるのですから、陽子先生の学級の雰囲気は極めて人間的な暖かさを持っていることになりますし、そういった学級運営をしている陽子先生も、当時の教育のあり方への違和感を覚えるのですが、子どもたちへの情熱は素晴らしいのです。細かいことに感動して、つい涙を誘われてしまい、よくテレビの悲しい番組を見て涙を流して泣いていた父を思い出してしまいます。


 この杏子ちゃんには妹の千鶴子ちゃんがいて、姉を慕って千鶴子ちゃんが教室にやって来るのです。そうしますと担任の陽子先生は、椅子を杏子ちゃんの隣に並べて、妹を座らせるのです。私の5学年上の兄が、小学校が焼けてしまって、近くのお寺で授業をしていたときに、ノコノコとこの教室にやってきた私は、兄の隣りに座らせてもらって、弁当を分けてもらったり、アメリカの《ララ物資》として送られてきた「粉ミルク」を溶かした牛乳を飲ませてもらったことを思い出しました。今日日の学校では、こんなことは許されないのでしょうね、いたずらな私は座っているというよりは、教室を徘徊しては、兄の級友にチョッカイを出していたのでしょうか。その教室替わりのお寺を、二人の兄と弟と4人で、35年ほど前に尋ねたことがありました。山奥の村里は、変化がなかったのです。その時、消失後再建された小学校も訪ねたのですが、次兄の担任が校長をしていて、その奇偶を驚き喜んでおられました。


 こんなにゆったりした気持ちでテレビを観るなんて、よいものですね!これが私の《ひめごと》でした。ぜひ内緒に!

注記:「ララ物資」とは、(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供していた日本向けの援助物資のこと、アメリカの教会が中心になって敗戦国の復興を願って示された愛でした。

(写真上は、「おひさま」のそば畑の一場面、中は、安曇野の「位置図」、下は、昭和24年に昭和天皇がここに来られた時、皇后陛下が読まれた「感謝の歌碑」です)