だれにでも《秘密(中国語では、mimi)と読みます》があります。昨年秋に家内が発病、入院治療、そして、今年の1月、日本に帰国後、また激痛に見舞われ緊急入院、退院、入院手術と繰り返しましたので、今学期の授業担当を取り消していただいて、ほかの教師に代講をしていただきました。帰国中、息子の家で、NHKテレビで放映されています連続テレビ小説「おひさま」を観始めたのです。朝の時間帯にテレビを観るなんて、これまで殆ど無かったことですが、出勤時間を心配しないでよい私は、こっそりと、この番組を見続けているのです。どうして、ここ中国で観られるのかといいますと、インターネットに「KeyHoleTV」というサイトがありまして、これを偶然見つけて、ダウンロードすることができたのです。私のノートPCで、約8cm×5cmの画面で、とても小さいのですが観ることができます(拡大できますが不鮮明になってしまうのでしません)。最近は音質も画質も、少し良くなってきて、我慢すれば日本の茶の間で観ているような錯覚に陥るのです。
兵庫県明石の標準時の日本時間と比べて、北京時間は1時間遅れるので、放映時間は、北京時間7時になります。幸い、5時半頃には目が覚めていますので、ゆっくりした早朝のたたずまいの中で観させてもらっています。実に面白いのです。昭和10年代の信州安曇野が舞台で、暗雲急を告げ、戦争の深みに国全体、アジア全体、全世界が沈み込んで行く時代の物語です。戦争中に生まれた私は、安曇野から南東に位置する山梨県下で生まれましたから、さほど遠くない田舎の雰囲気が似ているのかも知れなく、興味はつきません。もちろん安曇野は中部山岳に位置していますが、平野が南北に広がって、ゆったりした自然が豊なところです。もちろん冬は厳しいものがあるのですが。作詞・やしろよう、作曲・伊藤雪彦の「安曇野」という題の歌があります。
1 大糸線に 揺られて着いた ここは松本 信州路
安曇野は 安曇野は 想い出ばかり どの道行けば この恋を
忘れることが できますか せめて教えて 道祖神
2 湧き水清く ただ一面の わさび畑が 目にしみる
安曇野は 安曇野は 想い出ばか あの日と同じ 春なのに
あなたはそばに もういない 恋は浮雲 流れ雲
3 なごりの雪の 北アルプスを 染めて朝陽が 今昇る
安雲野は 安雲野は 想い出ばかり あなたを今も 愛してる
恋しさつのる 旅路です 揺れる面影 梓川
(midiで聞けます http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/jsengo2-frame.html)
先週末から、杏子ちゃんという東京の両親の元から、叔母の家に疎開してきた小学生が登場しています。この叔母が敵役で、杏子ちゃんに少々いじわるなのです。でも彼女は、じっと歯を食いしばって耐えています。病気で入院した父、その看病をする母への理解があって、親元を離れて健気に生きている様子をうかがうことができ、戦時下によく見られた光景なのでしょうか。前回から、その杏子ちゃんに笑顔が戻ってきているのです。クラスメートが、絵の上手な杏子ちゃんに、象の絵を書いてもらうくだりが演じられていました。書き終わったあとに、ニコッと笑う初めての笑顔を、主人公の陽子先生が見つけるのです。頑なな子供から、笑顔を回復させるのですから、陽子先生の学級の雰囲気は極めて人間的な暖かさを持っていることになりますし、そういった学級運営をしている陽子先生も、当時の教育のあり方への違和感を覚えるのですが、子どもたちへの情熱は素晴らしいのです。細かいことに感動して、つい涙を誘われてしまい、よくテレビの悲しい番組を見て涙を流して泣いていた父を思い出してしまいます。
この杏子ちゃんには妹の千鶴子ちゃんがいて、姉を慕って千鶴子ちゃんが教室にやって来るのです。そうしますと担任の陽子先生は、椅子を杏子ちゃんの隣に並べて、妹を座らせるのです。私の5学年上の兄が、小学校が焼けてしまって、近くのお寺で授業をしていたときに、ノコノコとこの教室にやってきた私は、兄の隣りに座らせてもらって、弁当を分けてもらったり、アメリカの《ララ物資》として送られてきた「粉ミルク」を溶かした牛乳を飲ませてもらったことを思い出しました。今日日の学校では、こんなことは許されないのでしょうね、いたずらな私は座っているというよりは、教室を徘徊しては、兄の級友にチョッカイを出していたのでしょうか。その教室替わりのお寺を、二人の兄と弟と4人で、35年ほど前に尋ねたことがありました。山奥の村里は、変化がなかったのです。その時、消失後再建された小学校も訪ねたのですが、次兄の担任が校長をしていて、その奇偶を驚き喜んでおられました。
こんなにゆったりした気持ちでテレビを観るなんて、よいものですね!これが私の《ひめごと》でした。ぜひ内緒に!
注記:「ララ物資」とは、(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供していた日本向けの援助物資のこと、アメリカの教会が中心になって敗戦国の復興を願って示された愛でした。
(写真上は、「おひさま」のそば畑の一場面、中は、安曇野の「位置図」、下は、昭和24年に昭和天皇がここに来られた時、皇后陛下が読まれた「感謝の歌碑」です)