コネ


 最初の職場で三年目の暮が過ぎて、年を越した頃、所長に呼ばれました。『私の弟子が、◯◯短大で教務部長をしています。そこに高等部があって、社会科の教師を募集しているので、行ってみませんか!』と言われました。教員免許状を持っていましたし、中学校の3年間教えてくれた担任の影響ででしょうか、『教師になってみたい!』と思っていましたので、二つ返事で、『はい。お願いします!』と答えたのです。その時、大学院を終えて、同じ教師の口を求めていた方がいました。確か日本史専攻で、ある研究所の研究員をしていた博士だったのです。ところが、《コネ(縁故)》というのはすごいもので、ごまんといる学士の私が、正式に教諭として採用され、その博士は、時間講師になったのです。まあ、これは雇い入れる方の決定であって、私の選びとりではなかったのです。ですから世の中は、《縁故(コネ)》というものを大切にするのだということを、実体験で学んだのです。

 採用する側は、誰ともわからない未知の人を職員とするよりは、出所や経歴が分かり、推薦状の付いた人を雇うほうが、組織にとっては安全だということを前提としているのです。公務員は、法律に基づいて公開試験で合格したかたを採用候補にしますが、それでも人物調査(本人の思想や素行、家族の様子など)をした上で、採用を決定します。兄の就職が内定した段階で、我が家に調査員が来られました。家には、父も母もいなくて、高校生の私がいましたので、この方は私に、父のことや兄のこと、家族のことを聞かれて、『ありがとうございました。』と言われて帰って行かれました。その応対と返答が良かったからでしょうか、兄は採用された経緯があります。とても良い会社でした。社会は学歴や成績だけで人を判断するのでないということを、その時に学んだのです。

 私がその学校の面接試問に呼ばれたときに、卒業証明者や成績証明書を持っていかなければなりませんでした。それでしばらくぶりに学校に参りましたら、校門にバラ線でバリケードが築かれていて、その隙間から構内に入ったのです。当時、70年安保反対の学生運動が起こっていた時期で、全国の学校で、『安保反対!』の叫び声が起こっていました。穏健な学校と目されていた母校でしたが、ここも例外ではなかったのです。幕末に開校されて伝統ある母校の校門に、バラ線が巻かれているのを見たとき、本当に寂しい思いをしたのを、昨日のことのように覚えているのです。私は、政治運動や思想運動には、全く関心がありませんでした。社会を騒乱の渦中に投げ込むような暴力には大反対でした。新宿駅の中央線や山手線の線路のレールを、敷き詰められていた小石によって、しっかりと受け止めていましたが、全学連の学生たちによって持ち出され、運び出されていたのです。機動隊に投石するためでした(それ以降、新宿の駅のレールは、コンクリートに支えられているようですが)。

 その時の学生運動の真只中にいたのが、今(20011年6月現在)の首相や前官房長官です。私の弟と同学年だったと思いますが。国家権力を敵に回して、国を混乱に陥れ、社会不安を煽った過去を持つ者たちが、考え方を変えないで、同じ思想と価値観、政治信条を持ちながら、一国の政権を担っているというのは、空恐ろしいものを感じるのですが、私だけでしょうか。私は右翼でも、国粋主義者でもありません。平和な社会を願う一市民です。どんな理由があっても、暴力によっては、国を変えたり、平定したり、発展させたりすることは、絶対にできないことを、歴史から学んだからなのです。あの時のニュースをテレビの中に見ていて、機動隊と安保反対の学生は、同じ世代の若者同志が、憎み合い、反発し合いながらせめぎ合っている《青春の坩堝(るつぼ)》でした。後に、軽井沢で「浅間山荘事件(1972年2月19日に始まる)」が起こって、国家転覆を謀った過激な学生運動が、内部分裂を起こし、仲間同士が殺し合う凄惨な解体劇を演じていたのです。後になって、ハイジャックや拉致に加担していく者たちの仲間です。その仲間が、それと同じ思いを持った者が、現首相や前官房長官なのですから、これでいいのでしょうか。あの頃の世相を悲しんだ私たちの世代としては、二重丸、二十(!?)重丸で疑問を禁じえず、たいそう不安なのですが。


 健全な人が責任を取るのがいいのです。経歴や素行に汚点のない、『この男なら、この人なら!』と太鼓判を押される人が、東北大震災後の日本にあって、昏迷の只中にある日本を導き、国民の命に関わる原発事故の収束、解決を手掛けて欲しいものです。そんな《縁故》の人はいませんか。四十代、せめて五十代に、《人》を見出したいものです。あの西郷隆盛(明治維新の時に40歳位ほどだったのです)のような、冠も地位も金も求めない、《無欲の人》が出てきたらいいですね。たしか彼の愛したことばは、「敬天愛人」だったと思いますが。私の弟は、機動隊側に加わって、暴力革命から国と国民を守り、善戦したのだったと記憶していますが。お陰さまで、平和な時代を迎えられたわけです。さらなる平和を願う《コネ》に恵まれて生きてきた私であります。

(写真上は、全共闘の「安保反対」の学生運動、下は、西郷隆盛筆の「敬天愛人」です)

 

 昨夜(ゆうべ)、PCで調べ物をしていましたら、スカイプのコールが鳴りました。画面を見ましたら、長女と次男が一緒に応答を求めていましたので、そのキーを押してみたのです。シンガポール・東京・こちらの《三者会話》が行われたのです。『いやー、便利な時代になったんだ!』と改めて思ってしまいました。子どもの頃、わが家にあったのは、右手でハンドルをグルグルと回して呼び出す《有線電話》だったのです。右手で持った受話器を耳にあてて、ラッパ型の送話口に近づいて話す、もう今では博物館にしかない電話機が、壁にかけられていました。父が街中にあった事務所と、郡部にあった工場と自宅とを結んで、仕事上不可欠なものだったのです。《有線》ですから、電話線の中を信号に変えられた音声が、行き来する道理は大体は分かったのですが、幼い私にとって、きわめて不思議な世界でした。

 仕事上、あったほうが便利だということで、発売間もなく《ポケベル》を手に入れました。電波の届く距離にいるなら、《無線》での連絡が入って、公衆電話を見つけては、発信先に電話して、用件を聞いたりしましたが、その利用も短い間のことでした。その後に《PHS》を使い始めたのです。いやー、ほんとうに便利だと思ったものです。その後、今のような《携帯電話》になったわけです。昔の映画などを見ていますと、『携帯電話があったら、こんな悲劇は起らなかっただろう!』とか、『もっと意思の疎通ができたのに!』といった場面が出てきて、やきもきしてしまいますが。便利な分、どこにいても電波に追いかけられてしまう、強迫観念に縛られてしまうのは1つの問題ではないでしょうか。静かにしていたいときは、便利さを捨てて、携帯放棄をしたくなる時もありますが、みなさんは如何でしょうか。こちらでは、もう年配の方々も必要不可欠の利器として持ち歩き、家族や友人との間で重宝されているようで、その普及率は、ものすごいものがあるようです。

 近況を分かち合ったり、とりとめもない話がつきなくて、家内と長女と次男と私とで、1時間近くも話していたのではないでしょうか。これを《会議通話》と呼ぶようで、遠く離れた家族の間では、とても優れものです。九十四歳になった母の介護のことが話題になりました。私は三男坊で、今は国外におりまして、母の近くにいてお世話をすることができないので、二人の兄と弟には申し訳なく思っているのです。それで、子どもたちに、『母の面倒をみようと思っているんだけど、どう思う?』と、以前、意見を求めたことがありました。とくに娘たちの考えは、『お父さんは無理!』という結論でした。というのは、『しないでいい!』ということでも、『おじさんたちに任せたらいい!』というのでもないのです。彼女たちは、科学的なのでしょうか、実際的な眼で、祖母の最善の《今》を考えてくれているのです。しっかりと介護の方法を学んで、より良いケアーを提供しようとしてきているプロの集団の中にいることの安全、さらには、介護施設では、毎日一日中、様々なプログラムや行事があって、最期の時を生きる環境としては、家で個人で世話をするよりはよいとの結論なのです。愛がないのではありません。苦労してきた分、彼女たちは総合的に見ているのです。それで、兄弟たちに《提案》をしたいと思って、文書を書き始めました。


 5月16日夜7時半、NHKのニュースの後の「クローズアップ現代」で、介護の問題をちょうど始めていました。その日に限って、普段は見ない「KeyHoleTV」なのですが、たまたまチャンネルを合わせましたら放映していたのです。その番組で学んだのは、(1)失敗や約束を守らないことなどを決して叱らないこと、(2)叱られた感情だけ記憶に残って、傷つき、不安と怖れが増し加わるので注意すること、(3)笑顔で接し、笑顔が母親の日常の表情になるように、(4)面倒みている人の優しさが一番記憶に残るので注意すること、(5)老いることへの恐れと不安に苦しんでいる母親への理解してあげることを学ぶことができました。

 山陰の出雲で生まれ、兄弟姉妹もなく養父母に育てられ、十代の前半で、カナダ人の実業家夫妻との出会いで多くのことを学び、父と出会って結婚し四人の子をなしたのです。子供の頃は、《今市小町》と呼ばれて、お転婆だったと、おばさんから聞いたことがあります。父の仕事の関係上、出雲、松江、京都、山形、甲府、京城(現・ソウル)、東京と転居を重ね、今は、上の兄の家におります。やはり加齢は体力・気力・胆力を衰えさせているのでしょうか、家での介護の限界を、上の兄がたびたび言ってきています。それで、私は、「お母さんの今後について」という《提案》を掲げて、兄弟にメールで書き送ったのです。一番子育てで手を掛けた三男の病弱だった私ですが、年を重ねた母が、人生の最期のステージを、ハッピーで、満ち足りて、平安の中で生きて欲しいと願ったからです。子どもたちも、それぞれに祖母を思う心を知って感謝でした。


 甲州街道際にあった「福島時計店」のおじさんが、通りを歩いている母を、鼻の下を長くして、首を回しながら見続けていた様子を、何故か私は母ではなく、このおじさんを感心して眺めていたのです。『お袋っていい女なんだ!』と、中学生の私は、へんに関心したものでした。その母が94歳、中学生の私が66歳、人生って短いものですね。でも、病気はなく、食欲も旺盛で、まだまだ書も読む母に、今の最善を切に願う、ジィージィーと蝉の暑い鳴き声の聞こえる華南の盛夏であります。

(写真上は、母が乗った「一畑電車(出雲~大社間)」の車内、中は、生きながらえてきた「古木」、下は、日野のかつての「街並(甲州街道)で右側の奥に時計屋がありました)」です)