昨夜(ゆうべ)、PCで調べ物をしていましたら、スカイプのコールが鳴りました。画面を見ましたら、長女と次男が一緒に応答を求めていましたので、そのキーを押してみたのです。シンガポール・東京・こちらの《三者会話》が行われたのです。『いやー、便利な時代になったんだ!』と改めて思ってしまいました。子どもの頃、わが家にあったのは、右手でハンドルをグルグルと回して呼び出す《有線電話》だったのです。右手で持った受話器を耳にあてて、ラッパ型の送話口に近づいて話す、もう今では博物館にしかない電話機が、壁にかけられていました。父が街中にあった事務所と、郡部にあった工場と自宅とを結んで、仕事上不可欠なものだったのです。《有線》ですから、電話線の中を信号に変えられた音声が、行き来する道理は大体は分かったのですが、幼い私にとって、きわめて不思議な世界でした。

 仕事上、あったほうが便利だということで、発売間もなく《ポケベル》を手に入れました。電波の届く距離にいるなら、《無線》での連絡が入って、公衆電話を見つけては、発信先に電話して、用件を聞いたりしましたが、その利用も短い間のことでした。その後に《PHS》を使い始めたのです。いやー、ほんとうに便利だと思ったものです。その後、今のような《携帯電話》になったわけです。昔の映画などを見ていますと、『携帯電話があったら、こんな悲劇は起らなかっただろう!』とか、『もっと意思の疎通ができたのに!』といった場面が出てきて、やきもきしてしまいますが。便利な分、どこにいても電波に追いかけられてしまう、強迫観念に縛られてしまうのは1つの問題ではないでしょうか。静かにしていたいときは、便利さを捨てて、携帯放棄をしたくなる時もありますが、みなさんは如何でしょうか。こちらでは、もう年配の方々も必要不可欠の利器として持ち歩き、家族や友人との間で重宝されているようで、その普及率は、ものすごいものがあるようです。

 近況を分かち合ったり、とりとめもない話がつきなくて、家内と長女と次男と私とで、1時間近くも話していたのではないでしょうか。これを《会議通話》と呼ぶようで、遠く離れた家族の間では、とても優れものです。九十四歳になった母の介護のことが話題になりました。私は三男坊で、今は国外におりまして、母の近くにいてお世話をすることができないので、二人の兄と弟には申し訳なく思っているのです。それで、子どもたちに、『母の面倒をみようと思っているんだけど、どう思う?』と、以前、意見を求めたことがありました。とくに娘たちの考えは、『お父さんは無理!』という結論でした。というのは、『しないでいい!』ということでも、『おじさんたちに任せたらいい!』というのでもないのです。彼女たちは、科学的なのでしょうか、実際的な眼で、祖母の最善の《今》を考えてくれているのです。しっかりと介護の方法を学んで、より良いケアーを提供しようとしてきているプロの集団の中にいることの安全、さらには、介護施設では、毎日一日中、様々なプログラムや行事があって、最期の時を生きる環境としては、家で個人で世話をするよりはよいとの結論なのです。愛がないのではありません。苦労してきた分、彼女たちは総合的に見ているのです。それで、兄弟たちに《提案》をしたいと思って、文書を書き始めました。


 5月16日夜7時半、NHKのニュースの後の「クローズアップ現代」で、介護の問題をちょうど始めていました。その日に限って、普段は見ない「KeyHoleTV」なのですが、たまたまチャンネルを合わせましたら放映していたのです。その番組で学んだのは、(1)失敗や約束を守らないことなどを決して叱らないこと、(2)叱られた感情だけ記憶に残って、傷つき、不安と怖れが増し加わるので注意すること、(3)笑顔で接し、笑顔が母親の日常の表情になるように、(4)面倒みている人の優しさが一番記憶に残るので注意すること、(5)老いることへの恐れと不安に苦しんでいる母親への理解してあげることを学ぶことができました。

 山陰の出雲で生まれ、兄弟姉妹もなく養父母に育てられ、十代の前半で、カナダ人の実業家夫妻との出会いで多くのことを学び、父と出会って結婚し四人の子をなしたのです。子供の頃は、《今市小町》と呼ばれて、お転婆だったと、おばさんから聞いたことがあります。父の仕事の関係上、出雲、松江、京都、山形、甲府、京城(現・ソウル)、東京と転居を重ね、今は、上の兄の家におります。やはり加齢は体力・気力・胆力を衰えさせているのでしょうか、家での介護の限界を、上の兄がたびたび言ってきています。それで、私は、「お母さんの今後について」という《提案》を掲げて、兄弟にメールで書き送ったのです。一番子育てで手を掛けた三男の病弱だった私ですが、年を重ねた母が、人生の最期のステージを、ハッピーで、満ち足りて、平安の中で生きて欲しいと願ったからです。子どもたちも、それぞれに祖母を思う心を知って感謝でした。


 甲州街道際にあった「福島時計店」のおじさんが、通りを歩いている母を、鼻の下を長くして、首を回しながら見続けていた様子を、何故か私は母ではなく、このおじさんを感心して眺めていたのです。『お袋っていい女なんだ!』と、中学生の私は、へんに関心したものでした。その母が94歳、中学生の私が66歳、人生って短いものですね。でも、病気はなく、食欲も旺盛で、まだまだ書も読む母に、今の最善を切に願う、ジィージィーと蝉の暑い鳴き声の聞こえる華南の盛夏であります。

(写真上は、母が乗った「一畑電車(出雲~大社間)」の車内、中は、生きながらえてきた「古木」、下は、日野のかつての「街並(甲州街道)で右側の奥に時計屋がありました)」です)

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