死生

高校生の兄が読み終えた「足摺岬」 を、『待ってました!』とばかりに、中学生の私は読んだのです。『早く大人になりたい!』と願って私は、体だけではなく、心も頭も思いっ切り背伸びして兄のようになりたかったからです。この本は、高知県の南端にある岬で、東尋坊(福音県)、青木ヶ原樹海(山梨県)、白浜(和歌山県)に並ぶ、実は「自殺名所」が舞台なのです。案の定、主人公も死に場所を求めてここを訪ねます。念のため、私はこの本を読んで自殺を誘発されたのではなく、黒潮踊る男っぽい海に突き出た岬に立ってみたかっただけです。この四月に高知に行きましたときに、室戸、大山、そしてこの足摺の岬巡りをしたかったのですが、時間とお金の都合で、高知の東側の室戸と大山だけを訪ねただけで終わってしまいました。室戸岬は、昭和34年に、ペギー葉山が歌った「南国土佐を後にして」の歌詞の中に、

# 故郷(くに)の父さん 室戸の沖で 鯨釣ったという便り・・・♭

と聞いた時から、『行ってみたい!』と思っていましたから、何と50年ぶりに夢が実現したことになります。ただ鯨のカゲはなかったのですが、幕末に、京都四条・近江屋で、龍馬と共に襲撃されて果てた中岡慎太郎の大きな銅像が、海の彼方を眺めるようにして立っているだけでした。

大山岬は、私の恩師の研究対象の一つが「万葉集」で、江戸末期の萬葉研究者・鹿持雅澄についての学術書を著しましたが、その雅澄が大山勤務をしたときに読んだ和歌の碑があるので、どうしても訪ねたかったからです。病弱な妻を高知に残して、単身赴任していた折に、遥かな菊子を詠んだものでした。

あきかぜの 福井の里に いもをおきて 安芸の大山 越えかてぬかも

「福井」とは、高知城下の町の名で、そこに家があったからです。「いも」とは、妹のことではなく愛妻のことです。どの時代も、妻を愛し、夫に仕える夫婦の姿は、その人や家庭の安定や祝福、二人から生まれてくる子たちの将来に希望を持たせるものです。菊子亡き後、四人の子を男手ひとつで育て上げるのです。

さて、この「足摺岬」は、田宮寅彦の青春回顧録でした。宿の主人や家族、四国の霊場を巡る巡礼者との出会い、語らいを通して、自殺を諦めて東京に戻る青年が主人公で、十代前半の私には強烈な印象を与えられたのです。生きることで一杯で、死ぬことなぞついぞ考えたことのなかった私ですから、『十代の後半には、そんな危機だってありうるのだろうか!?』と思わされたのを覚えています。

ところが、足摺岬に死にに行って、死ぬ理由よりも、生きる理由を見出した寅彦だったのですが、77歳の時に、脳梗塞が再発して、『もう書けない!』と悲観して、今度はマンションの11回から投身してしまうのです。書くことが命だったのでしょうけど、失ってしまったものに心を向けるよりも、どうして残されたものに目を向けて生きていこうとしていかなかったのでしょうか。あんなに繊細な青年期の思いを綴ることができる、人間理解の深い人だったのに、残念でなりません。彼の死には、ガンで死別した妻への思いが深く、死んだ妻との間で往復書簡を交わすといった内容の、「愛のかたみ」を、45歳の時に著していますが、ここに彼の自死の伏線があるのではないでしょうか。

雅澄は妻亡き後、子育てと萬葉研究に励みます。寅彦も、妻と死別しますが、《人が人であることへの絶望感 》といった彼の考えが災いになって、死を選ぶのです。同じ高知、《土佐っぽ》なのに、愛する者との死別をどう捉え、どう超えていくーどう生きていくかの方法が違ったのは残念なことであります。しかし、この本は、読むべき一冊かと思います、日本人の心を理解し、その上で生きていくために。

(写真は、「足摺岬」です)

「津浪と人間」


 近代の日本語の確立に大きく貢献した一人が、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」や「三四郎」で有名な夏目漱石だとされています。以前は、「千円札」でお目にかからない日がないほどの人物でしたが。学校を出た彼は英語教師として松山に行きますが、後には、熊本の旧制五高(現・熊本大学)、東京帝大などで教え、朝日新聞社にも務めます。英文学者というよりは、小説家として名を残した、明治大正期の文豪と称されています。この人の門弟に、寺田寅彦(1878年11月28日~1935年12月31日という方がいました。東京帝大で地球物理学を教え研究し、昭和のはじめには、東京帝国大学地震研究所の所員もされていました。

 この寅彦は、学者でありながら、文学の世界でも、多くの随筆を書き残しているのです。聞くところによりますと、「吾輩は猫である」や「三四郎」に出てくる人物のモデルであったようで、親しく漱石と交わりを持ち続けたようです。科学的な知識は、この寅彦から教えを請いながら漱石は著作に励んだそうで、弟子というよりは友人だったことになります。この寅彦の随想に、昭和八年五月、『鉄塔』に掲載した「津浪と人間」というものがあります。最後に次のように言っております。

『それだから、今度の三陸の津浪(昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った)は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。

 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では枉(ま)げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界(きょうがい)にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄(す)て鉢(ばち)の哲学も可能である。

 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫と でちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろう と思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。英独仏などの科学国の普通教育の教材には そんなものはないと云う人があるかもしれないが、それは彼地には大地震大津浪が稀なためである。熱帯の住民が裸体(はだか)で暮しているからと云って寒い国の人がその真似をする謂(い)わ れはないのである。

 それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても 決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効な ものの一つであろうと思われるのである。』


 このたびの、「東日本大震災」は、過去にも繰り返し地震や津波が襲った地域でありますから、百年前の寺田寅彦の警告や助言に耳を傾けるよい機会かと思います。今朝のMSNの記事には、帝都東京の地震対策についての石原都知事の提言が載っていましたが、何年も前に、イギリスから来た専門家が、東京に起こりうる地震について警告し、備えるようにとの講演会を聴きに行ったのを思い出します。いつでも起こりうるのですが、寺田寅彦は、『天災は忘れたころにやってくる!』という言葉を残しています。まだまだ忘れてしまうような時期ではありませんが、時の経過は、怖さを徐々に奪っていくのですから、政治の駆け引きやソロバン勘定ではなく、この提言に耳をしいかりと傾けたいものです。『備えあれば憂いなし!』という諺もありますから。
(寺田寅彦著「津浪と人間」は、「青空文庫〈http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html〉)で読めます)

(写真上は、昭和8年3月3日の「昭和大津波」で被害を受けた釜石市の被災状況を写したもの、下は、十銭切手の「寺田寅彦」です)