おめでとう!


 この6月12日の日曜日に、07級生の「卒業式」があって、その祝福の会食が、鳳凰大酒店で行われ、列席させていただきました。この学年の2年次には、「会話」の授業を担当し、3年次には、「作文」と「視聴説」の授業をさせていただきました。4年次の授業も頼まれたのですが、授業数が多かったのでお断りしましたら、外国語系の主任の教授が聞き入れてくれました。今思いますと、担当したほうが良かったと悔やんでおります。教育関係の仕事を、長い間してきましたが、大学生を教えるのは初めてでした。何度か、日本の東京と地方の大学の講師のお話がありましたが、日本では実現しなかったのです。こちらに参りまして、友人となった方の多くが、大学で教えておられて、そんな関係から紹介していただいたのです。

 日本の大学生の実情を知りませんが、中国の学生は一般的に、知的好奇心が旺盛で、授業態度がよく、熱心に学び、応答もいいのです。しかも高校生のような、純な雰囲気を持って接してくれるのです。『一緒に写真をとらせてください!』と、次から次へと、十二分に女性の学生たち(女子の割合が極めて高いのですが)が、ピタっと体を寄せ、しかも胸も押し付けてくるのには弱りました。私が男であるのを忘れているのでしょうか、お父さんのように、おじいさんのように信用しきって近づいてくれるのです。

 これまで、『你们是大学生,所以・・・(君たちは大学生なんだから、・・・!』という気持ちを伝え、彼らを叱ったことは一度もありませんでした。私は性格的にいい加減なところがあるので、自戒し、大きな責任を委ねられたという覚悟で、家内が心配するほどに、一生懸命に授業の準備をして臨んでまいりました。授業が終わってキャンパスの中を歩いて、東門や北門のバス停まで歩くときに、軽い疲労感と共に、『なんて感謝なのだろう、こんなに充実した機会を与えられ、中国の若者たちに接し、しかも教える機会が与えられて!』といった、感動の思いがたびたび湧き上がってきたのです。

 彼らは、高校までの教育の中で、旧日本軍の侵略について徹底的な教育を受けて、「日本鬼子」という思いを培われてきていたのです。それなら、戦時下の日本人への憎悪、その子や孫たちへの反感は、きっと激しい物があるのではないかと思っていました。ところが、日本語を専攻する学生だからだけの理由ではなく、彼らからは敵愾心や復讐心といったものを全く感じなかったのです。極めて好意的で、戦争責任のことを口にしますと、『現在の日本人と過去の日本人間は違います。』、『軍人と民間人は違ったのです。』、『日本人も大きな苦しみを通ってきたことを知っています。』、『先生は優しくて責任感があって違います!』と、実に理解を示してくれます。そういえば、街を歩いていても、今のアパートに住んでいても、家内や私が日本人だと分かっても、特別な思いをぶつけられた経験は、全くというほどありませんでした。ただ、魚釣島の漁船事件の折には、厳しいものがありましたが、総じて中国のみなさんは、私たちに友好的なのです。

 『先生乾杯!』と、かわるがわる学生が席に訪ねてきました。コーラやスプライトやビールを注いでは、感謝をあらわしてくれましたので、『おめでとう!』と祝福を返したのです。卒業アルバムを持ってきて、サインをねだられました。様々に祝福のことばを書き贈りました。もう十分に大人となったみなさんは、すでに働いている方、これから省の公務員試験に臨む方、また日本に留学を計画している方と様々に、将来に眼を向けていて、大学生最後の夜を、教室では見せたことにない言動で喜び、別れを惜しんでおりました。ある方が、『先生、抱いてください!』と言ってきました。ちょっと息を飲んで躊躇したのですが、『いいよ、喜んで!』と言って、アメリカ人の男女の間でする《ハグ》をしました。そうしましたら、次から次と、要求されて、《ハグ》をしたのです。他の先生方もいましたが、まあ無礼講で許されることと確信し、別れをいたしました。

 人を教える責任、そして教える喜びは大きいものがあります。この9月からの新学年も、授業を担当する旨、卒業生に話しました。彼らの母校で、彼らの後輩を教える私を、彼らは祝福してくれたのです。『みんな、おめでとう!輝いた人生を精一杯に生きてください!』と、心の中で叫んで会場を辞しました。華南の夏の夜風は生温かく、雨がポツリと降り始めていました。彼らの多くは、これから社会人として自活していくことになりますが、2年生の時のあの初々しい表情ではなく、もう確りと大人の決意を顔に表していました。これから何人の卒業生と再会することができるでしょうか。
 
 ただただ祝福あれ!


(写真上は、向こうに教室を望むキャンパス風景、中は、この町の名物の「カジュマル」、下は、東門から西門へのキャンパス内を学生たちとそぞろ歩いた路です)

「水に流す」


 北上川、岩手と宮城の両県にまたがって流れる東北日本では有名な河川です。「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」を水源としていて、『蛇行しているのが特徴の川だ!』と、中学の地理と歴史で学びました。私の担任が社会科教師で、3年間、歴史や地理や倫理などを教えてもらいました。本当に熱心で、授業準備も半端ではなかったですし、小テスト、ガリ版印刷の資料など盛り沢山でした。朝礼や終礼、授業の初めと終わりに、どの教師も教壇の上から挨拶をしていた中で、この先生は、必ず教壇から降りて、私たちと同じ床の上に立って、頭を下げて居られました。髪の毛が薄かったのですが、眼のキラリとした方で、歯切れのいいい話をされたのです。

 この先生の授業で、「水に流す」という言葉を教えてくれました。goo辞書で調べますと、『過去のいざこざなどを、すべてなかったことにする。「これまでのわだかまりを―・す」 』とあります。私たちもよく使うのですが、『過去のことは水に流して、俺、新しい気持ちで・・・』とか言ってですが。K先生は、国語科の教師ではなかったのですが、この言葉の出典に触れて、この北上川の話をされたのです。江戸時代の盛岡藩、一関藩、仙台藩の領内を南北に流れていた農業上の重要な川でした。この地域をたびたび飢饉が襲うのです。有名な「天明の大飢饉(1782年~1787年) 」は東北地方を大きな困難の中に突き落とします。日照不足の冷害、凶作、飢饉、疫病などで大打撃を被ります。そんな中で、江戸幕府の田沼意次のとった政策によって、米の値段が急騰して、日本全体に影響が広がります。それでなくても貧しかった農村でしたから、被害は甚大でした。今回の東日本大震災の折には、世界中から物心両面での支援を受けることができ、『ガンバレ東北!ガンバレニッポン!』で立ち直りの途上にありますが、当時は、このようなことは全くありませんでした。


 『農村では食料がなくなり、飢餓がひどくなりました。それで田畑を手放したり、子どもを売ったりしたのです。』とK先生は教壇から語りました。さらにひどかったのは、生まれてくる子どもを捨てざるを得なかったのだそうです。それで、自分の手で殺すことのできないの両親は、コモにくるみ、籠に入れて、川に流したのだそうです。これが、「水に流す」という言葉の意味だと、先生は解説してくれたのです。毎日、白いまんまを腹いっぱい食べて、コロッケを肉屋で買い、駄菓子をキヨちゃんで買い、肉屋でアイスボンボンを買って食べていた私にとっては、大ショックでした。東北➪飢饉➪貧乏➪餓死➪子殺し➪「水に流す」で、中学生の私にとって実に印象の悪い地域になってしまったのです。ですから、高2の修学旅行で北海道に行ったときに、列車で通過しただけで、日光から北に行くことを長年避けていたのです。

 『北上川は蛇行していて、その曲がった地点に、《地蔵》があるのが特徴なのです!』とK先生は熱く授業をされました。「水に流す」で、北上川を流れ下っていく、胎児や嬰子は、その曲がった部分の岸に打ち上げられてしまい、それを発見した近くの住民は、地蔵を作って、幼い子たちの死を悼(いた)んだのです。うわー、悲しい日本の歴史、東北の歴史ですね。「わだかまり」どころか、重いいのちに関わることが語源だったことを知った次第です。今回の大震災のニュースを聞き、被害のひどさを観て、第一に思い出したのが、この「水に流す」ということばでした。繰り返し繰り返し、東北は日本の《スケープ・ゴート》のように叩かれ、打たれてきています。


 次男の許嫁が、この岩手県の山村で生まれて、東京で育っているのです。かつて、「日本のチベット」と、心無い学者や報道陣に言われていた地域です。彼女のお母さんの父君が、そこに住んでおられますが、今回被害は少なかったそうです。「列車紀行」という番組を、中国のインターネットのサイトで視聴できるので、《山田線・岩泉線》を観ました。実に自然の豊かな美しい地域です。私が感動して読んだ、浅田次郎の「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎が脱藩し、国際連盟事務局次長をした新渡戸稲造の出たのが南部盛岡藩ですから、そこから海岸部に寄った地域であって、興味が津津とつきません。今は、貧しさを克服して、豊かになっている東北です。最近、私は、《終の棲家》を、信州・駒ヶ根から、こちらにと心変わりしているのです。もちろん、住ませてくれるならのことですが。はい。
 ともあれ、再び、東北人は苦境に強いのですから、『ガンバレ東北!』

(写真上は、今は輝いて流れる「北上川」、写真下は、「JR岩泉線」の美しい沿線風景です)

小日本


 日蓮宗の寺院の子で、山梨県立一中、早稲田に学び、毎日新聞記者、東洋経済新報の記者・主幹・社主だった石橋湛山(1884年9月25日~1973年4月25日)は、71歳で第55代の総理大臣に就任します。病気によって、その在任期間は、65日と短かったのですが、名首相として名高い方です。甲府中時代には、札幌バンド出身の大嶋正健校長(クラーク教頭から直接薫陶を受けた第一期生で、内村鑑三や新渡戸稲造らの一級先輩)から大きな感化を受けています。一高(現在の東京大学の教養学部に当たります)の受験に、二度も失敗し、大隈重信の私学・早稲田の気運の中で学んだ人でした。

 政治的な姿勢は、「ハト派」で穏健でした。湛山が親中国の考えを持っていたこと、それが後の中日関係に大きく貢献し、田中角栄首相時代の1972年9月29日に、当時の周恩来総理と、北京において交わされた「日中共同声明」に導かれていくのです。政治家、総理大臣であったことよりも、一人のジャーナリストとして、多くのことを主張した点が、最も石橋湛山が日本の社会に貢献した点だと言えるのではないでしょうか。

 国を挙げて、国力の増強に躍起となっており、欧米の列強に肩を並べるための市場拡大、軍事力強化、食糧問題の解決のためにも、大陸中国、朝鮮半島、台湾、さらには東南アジアへの進出(他国への進出ですから侵略が正しいでしょう)を企てていきます。そういった国威発揚、拡大の考え方の裏で、この石橋湛山は、「小日本主義」を主張したのです。新聞記者として、その考えを、「東洋経済新報」の紙面で表します。


 天津で、2006年の夏から一年を過ごしている間に、中国語を教えてくれた先生が、「五大道(Wu da dao)」に連れて行ってくれました。イギリス(アフリカ系)やブラジル(台湾からの移民の子)から来ていた留学生仲間と一緒でした。私たちの娘と同世代の老師は、実に細かな案内をしてくれたのです。そこは「租界」でした。ヨーロッパのイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリア、ベルギーそしてアメリカ、更に日本が、街の一等地を分割して、「治外法権」の区域を定めていたのです。それは中国人が自由に出入りすることを禁じた、事実上の「外国」でした。上の地図は、1937年当時のものですが、当時、そのままの外観を保って、いわゆる洋館が並んでいました。近くには張学良邸などもあったのが印象的だったでしょうか。世界の先進諸国が、食指を伸ばしていた痕跡の一つです。これって「植民主義」だったのですね。


 この植民主義ですが、たとえば小国イギリスが、一番困ったことは人口が増えて、食物の賄いが足りなくなることでした。そこで軍事力と商業手腕とで、海外に市場と資源を求め、太陽の沈むことのない「大英帝国」を作り上げたのです。そういった動きはヨーロッパ諸国に影響していき、アメリカでさえも、その動きの中にあったのです。そして、わが日本も、それに倣おうとしたわけです。大日本帝国を作り、アジア支配(かつては東洋支配と言いましたね)の野望に燃えるのです。そのような中で、石橋湛山は、軍縮の提案をします。第一次大戦以降、中国の権益・青島支配などの「二十一か条条約」に反対の立場を取ります。また、朝鮮・台湾などに「自由」を与え、中国に存在する日本の特権のすべての放棄を掲げます。それは、「反植民主義」でした。幕末に、危なくアメリカやイギリスやフランスの植民支配からまぬがれたのに、その日本が植民主義をアジアで展開しようとしたのですから、矛盾していたことになります(歴史的にはもうすこし深い意味もありますが)。
 
 あの時代の動きに流されないで、全く別な観点から日本の将来を見ていた石橋湛山の考え方は、勇気あるものだったと言えるでしょうか。仏教徒でありながら、死の床には、「日蓮遺文集」と「聖書」が置かれていたそうです。多感な青年期に、人から受ける影響力、人を形作る書との出会いは甚大なものがあるようですね。あの大嶋正健から、『如何生きるか?』の人生観を学んだことも特筆すべきことであります。

(上の手紙は、石橋湛山が母校・高中学校に送ったもの、下の写真は、右端・大嶋正健で真ん中は内村鑑三です)