小日本


 日蓮宗の寺院の子で、山梨県立一中、早稲田に学び、毎日新聞記者、東洋経済新報の記者・主幹・社主だった石橋湛山(1884年9月25日~1973年4月25日)は、71歳で第55代の総理大臣に就任します。病気によって、その在任期間は、65日と短かったのですが、名首相として名高い方です。甲府中時代には、札幌バンド出身の大嶋正健校長(クラーク教頭から直接薫陶を受けた第一期生で、内村鑑三や新渡戸稲造らの一級先輩)から大きな感化を受けています。一高(現在の東京大学の教養学部に当たります)の受験に、二度も失敗し、大隈重信の私学・早稲田の気運の中で学んだ人でした。

 政治的な姿勢は、「ハト派」で穏健でした。湛山が親中国の考えを持っていたこと、それが後の中日関係に大きく貢献し、田中角栄首相時代の1972年9月29日に、当時の周恩来総理と、北京において交わされた「日中共同声明」に導かれていくのです。政治家、総理大臣であったことよりも、一人のジャーナリストとして、多くのことを主張した点が、最も石橋湛山が日本の社会に貢献した点だと言えるのではないでしょうか。

 国を挙げて、国力の増強に躍起となっており、欧米の列強に肩を並べるための市場拡大、軍事力強化、食糧問題の解決のためにも、大陸中国、朝鮮半島、台湾、さらには東南アジアへの進出(他国への進出ですから侵略が正しいでしょう)を企てていきます。そういった国威発揚、拡大の考え方の裏で、この石橋湛山は、「小日本主義」を主張したのです。新聞記者として、その考えを、「東洋経済新報」の紙面で表します。


 天津で、2006年の夏から一年を過ごしている間に、中国語を教えてくれた先生が、「五大道(Wu da dao)」に連れて行ってくれました。イギリス(アフリカ系)やブラジル(台湾からの移民の子)から来ていた留学生仲間と一緒でした。私たちの娘と同世代の老師は、実に細かな案内をしてくれたのです。そこは「租界」でした。ヨーロッパのイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリア、ベルギーそしてアメリカ、更に日本が、街の一等地を分割して、「治外法権」の区域を定めていたのです。それは中国人が自由に出入りすることを禁じた、事実上の「外国」でした。上の地図は、1937年当時のものですが、当時、そのままの外観を保って、いわゆる洋館が並んでいました。近くには張学良邸などもあったのが印象的だったでしょうか。世界の先進諸国が、食指を伸ばしていた痕跡の一つです。これって「植民主義」だったのですね。


 この植民主義ですが、たとえば小国イギリスが、一番困ったことは人口が増えて、食物の賄いが足りなくなることでした。そこで軍事力と商業手腕とで、海外に市場と資源を求め、太陽の沈むことのない「大英帝国」を作り上げたのです。そういった動きはヨーロッパ諸国に影響していき、アメリカでさえも、その動きの中にあったのです。そして、わが日本も、それに倣おうとしたわけです。大日本帝国を作り、アジア支配(かつては東洋支配と言いましたね)の野望に燃えるのです。そのような中で、石橋湛山は、軍縮の提案をします。第一次大戦以降、中国の権益・青島支配などの「二十一か条条約」に反対の立場を取ります。また、朝鮮・台湾などに「自由」を与え、中国に存在する日本の特権のすべての放棄を掲げます。それは、「反植民主義」でした。幕末に、危なくアメリカやイギリスやフランスの植民支配からまぬがれたのに、その日本が植民主義をアジアで展開しようとしたのですから、矛盾していたことになります(歴史的にはもうすこし深い意味もありますが)。
 
 あの時代の動きに流されないで、全く別な観点から日本の将来を見ていた石橋湛山の考え方は、勇気あるものだったと言えるでしょうか。仏教徒でありながら、死の床には、「日蓮遺文集」と「聖書」が置かれていたそうです。多感な青年期に、人から受ける影響力、人を形作る書との出会いは甚大なものがあるようですね。あの大嶋正健から、『如何生きるか?』の人生観を学んだことも特筆すべきことであります。

(上の手紙は、石橋湛山が母校・高中学校に送ったもの、下の写真は、右端・大嶋正健で真ん中は内村鑑三です)

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