「水に流す」


 北上川、岩手と宮城の両県にまたがって流れる東北日本では有名な河川です。「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」を水源としていて、『蛇行しているのが特徴の川だ!』と、中学の地理と歴史で学びました。私の担任が社会科教師で、3年間、歴史や地理や倫理などを教えてもらいました。本当に熱心で、授業準備も半端ではなかったですし、小テスト、ガリ版印刷の資料など盛り沢山でした。朝礼や終礼、授業の初めと終わりに、どの教師も教壇の上から挨拶をしていた中で、この先生は、必ず教壇から降りて、私たちと同じ床の上に立って、頭を下げて居られました。髪の毛が薄かったのですが、眼のキラリとした方で、歯切れのいいい話をされたのです。

 この先生の授業で、「水に流す」という言葉を教えてくれました。goo辞書で調べますと、『過去のいざこざなどを、すべてなかったことにする。「これまでのわだかまりを―・す」 』とあります。私たちもよく使うのですが、『過去のことは水に流して、俺、新しい気持ちで・・・』とか言ってですが。K先生は、国語科の教師ではなかったのですが、この言葉の出典に触れて、この北上川の話をされたのです。江戸時代の盛岡藩、一関藩、仙台藩の領内を南北に流れていた農業上の重要な川でした。この地域をたびたび飢饉が襲うのです。有名な「天明の大飢饉(1782年~1787年) 」は東北地方を大きな困難の中に突き落とします。日照不足の冷害、凶作、飢饉、疫病などで大打撃を被ります。そんな中で、江戸幕府の田沼意次のとった政策によって、米の値段が急騰して、日本全体に影響が広がります。それでなくても貧しかった農村でしたから、被害は甚大でした。今回の東日本大震災の折には、世界中から物心両面での支援を受けることができ、『ガンバレ東北!ガンバレニッポン!』で立ち直りの途上にありますが、当時は、このようなことは全くありませんでした。


 『農村では食料がなくなり、飢餓がひどくなりました。それで田畑を手放したり、子どもを売ったりしたのです。』とK先生は教壇から語りました。さらにひどかったのは、生まれてくる子どもを捨てざるを得なかったのだそうです。それで、自分の手で殺すことのできないの両親は、コモにくるみ、籠に入れて、川に流したのだそうです。これが、「水に流す」という言葉の意味だと、先生は解説してくれたのです。毎日、白いまんまを腹いっぱい食べて、コロッケを肉屋で買い、駄菓子をキヨちゃんで買い、肉屋でアイスボンボンを買って食べていた私にとっては、大ショックでした。東北➪飢饉➪貧乏➪餓死➪子殺し➪「水に流す」で、中学生の私にとって実に印象の悪い地域になってしまったのです。ですから、高2の修学旅行で北海道に行ったときに、列車で通過しただけで、日光から北に行くことを長年避けていたのです。

 『北上川は蛇行していて、その曲がった地点に、《地蔵》があるのが特徴なのです!』とK先生は熱く授業をされました。「水に流す」で、北上川を流れ下っていく、胎児や嬰子は、その曲がった部分の岸に打ち上げられてしまい、それを発見した近くの住民は、地蔵を作って、幼い子たちの死を悼(いた)んだのです。うわー、悲しい日本の歴史、東北の歴史ですね。「わだかまり」どころか、重いいのちに関わることが語源だったことを知った次第です。今回の大震災のニュースを聞き、被害のひどさを観て、第一に思い出したのが、この「水に流す」ということばでした。繰り返し繰り返し、東北は日本の《スケープ・ゴート》のように叩かれ、打たれてきています。


 次男の許嫁が、この岩手県の山村で生まれて、東京で育っているのです。かつて、「日本のチベット」と、心無い学者や報道陣に言われていた地域です。彼女のお母さんの父君が、そこに住んでおられますが、今回被害は少なかったそうです。「列車紀行」という番組を、中国のインターネットのサイトで視聴できるので、《山田線・岩泉線》を観ました。実に自然の豊かな美しい地域です。私が感動して読んだ、浅田次郎の「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎が脱藩し、国際連盟事務局次長をした新渡戸稲造の出たのが南部盛岡藩ですから、そこから海岸部に寄った地域であって、興味が津津とつきません。今は、貧しさを克服して、豊かになっている東北です。最近、私は、《終の棲家》を、信州・駒ヶ根から、こちらにと心変わりしているのです。もちろん、住ませてくれるならのことですが。はい。
 ともあれ、再び、東北人は苦境に強いのですから、『ガンバレ東北!』

(写真上は、今は輝いて流れる「北上川」、写真下は、「JR岩泉線」の美しい沿線風景です)

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