ごめんなさい!


 父が生まれたのが、1910年(明治43年)3月23日です。晩婚の父の三男として、中部山岳地方の山村で生を受けた私でした。兄たちは島根県出雲市で生まれ、弟と私は、父の仕事の関係で、奥深い山と山の沢の部落で生まれています。母は、三番目にも四番目にも、男の子が欲しかったようですが、人生ままなならないものですね。父は生きていれば、今年101歳になっているのですが、残念ながら61歳で召されてしまいました。通勤で小田急線の電車に乗っていて、急停車したときにクモ膜下に異常を覚え、入院治療をしていたのです。今日は退院という日の朝、あっけなく召されてしまいました。『雅、いつか浅草にドジョウを食べに行こうな! 』との約束を果たさないままだったのです。食べ物は、どうでもいいのですが、《親孝行》ができなかったのが、心残りで口惜しいのです。

 その父は、秋田の「秋田鉱専(現在の秋田大学鉱山学部)」という学校で学んで、鉱山技師として働いていました。戦争中は、防弾ガラスのための「石英」を掘削する軍需工場に勤務していました。日の丸を鉢巻した従業員たちと、いっしょに写っている記念写真が、母のところに残っています。何年か前に、「ホタル」と「俺は、君のためにこそ死にいく 」という、鹿児島県知覧を舞台にした神風特攻隊の映画がありました。片道の燃料で爆弾を搭載して、沖縄に侵攻していたアメリカ太平洋艦隊の戦艦に体当たり攻撃をした青年たちの物語で、涙を禁じえませんでした。ある方は、前途有為の青年たちの特攻の死を、『無駄な犬死だった!』と言われますが、本当にそうでしょうか。多くの従軍された方々の死を無駄にするかどうかは、平和な時代がやって来たときに、焼土となった国土を立て直し、戦死者を出した家族を慰め、世界平和のために寄与するかどうかだったのではないでしょうか。同じように訓練を受けていながら、戦争が終わって、突撃できなかった方の手記を読んだことがあります。『生き残った私は、戦友たちの死を無駄にしないために、戦後を生きようと堅く心にきめました!』と言っておられました。どうすることもできない戦時下で、ある方は召集で、ある方は志願で、あの戦争に参戦したのですが、銃をとり、特攻機や人間魚雷を駆り、戦わざるをえない立場に立たされた彼らの苦悩や逡巡は、実に過酷なものがあったようです。父のいた私と違って、何人もの級友は母子家庭の子でした。彼らの家に行くと、軍帽、軍服姿のお父さんの写真が掲げられていたのを、何度か見たのです。


 私の父の掘り出した鉱石で作られた戦闘機は、きっと私が今住んでいます華南の街にも飛来して、爆弾を投下したことでしょうか。この街に住み始めて、この夏で満四年になりますが、2007年の暮になってからでしょうか、「日本語文化研究会」を開講しました。学生や社会人の方が集って、一緒に日本語を学び始めましたら、16歳ほどの一人の青年が、友人の紹介でやって来たのです。アニメで学んだとかで、大変流暢に日本語を話すではありませんか。その彼の祖父母が食事に招いてくれ、家内とおじゃましました。お二人は、この街の高台にある閑静な「干休所(退役の軍幹部の宿舎)」に住んでおられたのです。事情があって、彼は祖父母と一緒に住んでいたのです。お話しによるとお二人とも江蘇省の村の出身で、十代の頃から人民解放軍兵士として兵役についてこられ、高級軍人として退役して、今は悠々自適な生活をされていました。話しが進む間に、日中戦争のことが話題になって、『何でもお話していただけますか!』と願ったところ、おばあさまは躊躇しながらぽつりぽつりと話し始められたのです。


 上海から北の方に、だいぶ離れた村にお生まれでしたが、旧日本軍が来襲し、家々に火を放ったのだそうです。その火で多くの家が焼かれたのですが、おばあさまは、その火で火傷を負いました。話が、そこまでいきますと、おじいちゃんが制しなさったのですが、『いえ、ぜひ事実をお話しください!』と、私が願ったので、もう少し詳しくお話下さったのです。それで私は、『真抱歉!(本当に御免なさい)』と謝りました。彼女は私を責めたのではありませんが、私は咄嗟に謝罪をしたのです。『いいえ、あなたが謝る必要ありません!』と、意外と強く言われたのです。その日、その家を辞します時に、おばあちゃんと私は固い握手をし、家内とは強く抱き合っていました。『あっ、赦されたんだ!』と思ったのです。その時、私の肩から、そっと重荷が下ろされるような感じがいたしました。

 この街の南側を流れる河川の岸に、この街の長い歴史が石版に彫り刻まれて、掲出されてあります。おばあちゃんとの交わりの後だったと思いますが、中国人の友人の案内で上流からずっと案内してもらいました。やはり戦時中には、日本軍の空爆があり、300人ほどの死者があったとありました(ごめんなさい、はっきり覚えていません)。『うわーっ、父の作った飛行機から投下されたのだ!』と思わされ、そういった街に、時代が移り、加害者の子である私が住み始めているのだという、厳粛さをも覚えたのです。この7月で、在住五年目に入ります。9月からは、また大学で授業を担当することになっており、何か目的とか務めがあるのだとの思いで、今、準備中であります。あのおばあちゃんの孫の彼は、この4月から日本に留学のために行き、四国に滞在中であります。

(写真上は、「開聞岳」特攻機はこの山を見ながら出撃、中は、「特攻花」、下は、江蘇省の風景です)

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