昭和14年に、北村雄三の作詞、大久保徳二郎の作曲で、ディック・ミネが歌った「上海ブルース」と言う歌が発売されました。私の生まれる何年も前の戦時歌謡曲だったのです。戦時中を懐かしんで誰かが歌っていたのを私が聞いて覚えたのか、なぜか歌うことができるのです。父が歌謡曲を歌っていたのを聞いたことがありません。息子たちに、愛だ恋だのと、親が流行歌(はやりうた)を聴かせるのをよしとしなかったからでしょうか。
1 涙ぐんでる上海の
夢の四馬路(スマロ)の街の灯
リラの花散る今宵は
君を思い出す
何にも言わずに別れたね 君と僕
ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
2 甘く悲しいブルースに
なぜか忘れぬ面影
波よ荒れるな碼頭(はとば)の
月もエトランゼ
二度とは会えない 別れたらあの瞳
思いは乱れる 上海の月の下
この1月21日に、上海の「碼頭(码头matou)」、日本語では「波止場」とか「船着場」というのがいいのでしょうか、そこから大阪行きの船に乗りました。この波止場の近くの「四馬路」には、日本人街があったのだそうです。初めて上海に行きました時に、中国語と日本語を巧みに話す初老の韓国人の方が案内してくださって、「東方明珠テレビ塔」の展望台で、『あの辺りに日本人が住んでいました!』と指さして教えてくれたのです。父に聞きませんでしたが、きっと父も、この上海を訪ねたことがあったのではないかと思っているのです。戦後の日本人がハワイに憧れたように、戦前の日本人、とくに青年たちにとって「上海」は、一度は訪ねたかった「憧れの街」の一つだったからです。
現在では、東京よりも多くの人口を持ち、さらに増え続けている上海は、アジア一、いえ世界一の近代都市になっています。昨年の夏に、しばらく街の中を歩きましたが、私の住んでいる街に比べて、少し違った雰囲気が残っているのを感じたのです。戦前には、欧米や日本の「租界」がありましたから、外国人の居住者の多い国際都市で、その名残があるからなのでしょう。この街で、1932年と1937年に、二回の「上海事変」がありまして、日本軍の支配下に置かれた時期がありました。その様な過去のある街、上海に、現在では3万人ほど(2011年の集計)の日本人が住んで、ビジネスや勉学をしているようです。彼らは戦争を知らない世代ですから、過去のわだかまりを知らないことになります。私の長女の会社の支店もあるようで、なんとなく親近感を感じております。
この歌に出てきます、「リラの花」は、ライラックとも呼ばれていまして、実に美しい花です。今朝、若い友人がお二人おいでになり、しばらく交わりの時を持ちました。お昼になりましたので、友人の一人が、『今日は私がおごりましょう!』と言って4人で連れ立って昼食に出かけました。レストランまでの道の街路樹に、25度の初夏のような気温に、「辛夷(こぶし)」の花が、実に美しく花開いていました。もう春なのかも知れませんが、予報をみますと、今日は特別の高温だったようで、もう少し寒さを感じることになりそうです。
(写真は、「ライラック(リラ)の花」です)