良質な物を求めること

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 若い日に、コールマン髭を生やした聖書教師と出会ってから、その感化ででしょうか、二度ほど、私も、ヒゲを生やしたことがありました。でも似合わなかったので、やめてしまいました。何よりも家族からは不評だったこともあってです。

 すぐ上の兄も弟も、現役を髭をたくわえていて、次男も顎髭を持っていて、ヒゲばやりです。歳を寄せてきますと、ヒゲ剃りがおっくうになるからかも知れません。また、若い頃にしたかったけども、やらなかったことを、今になってやり遂げているのかも知れません。

 髪の毛が薄くなった分、ヒゲの伸びが早くなってきたのでしょうか、今朝もアゴをさすりますと、だいぶ伸びているのです。でも、コロナ騒動以降、マスクをすることが多くなり、ヒゲ煽りを怠けても、隠すことができるので、つい怠け気味になってしまっています。

 威圧感を与えたり、人を拒否する様で、ちょっとえらぶっていたのかも知れません。ただちちはが、『髭を生やしたら俺の親父にそっくりだ!』と言っていました。警察官が誕生した時、武士階級からの転職者が多く、明治の警察官は、「邏卒(らそつ)」と言われていて、等しくヒゲオヤジでした。威厳を表して威圧する様で、庶民からは、これも不評でした。

 『おいっ!こらっ!』の警官の不審者への呼びかけが、昔ありました。そんな口調で呼び止められた覚えがあります。そう、これは「薩摩弁」だと言われていて、明治期、薩摩藩士の多くが邏卒だった名残なのだそうです。そう威張り散らしていたのです。栃木黒羽出身の大関和が、その横柄ぶりを正す様に、警察官部に進言して、『もしもし!』のやさしいく親しみやすい呼びかけに変えられたのだそうです。

 けっこう劣等感を隠すような動機もありそうです。私の父親は、ヒゲをたくわえる様なことがありませんでした。会社をやっていた頃には、ブショウヒゲを平気でいたことは全くありませんでした。帰宅してお風呂に入った時に、いつも剃っていたのを見かけました。

 今は見かけませんが、フェザー製の安全剃刀を、父は使っていました。使い終わると、かならず次回に備えて、歯を外して、コップの内側に、刃を当てて、砥石がわりにして、人差し指で研いでいたのです。物を大切にする人で、しかも身の回りの物は極めて少なかったのです。それなのに、身だしなみがきちんとしていたのです。

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『また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、 そこにすわって、イエスの見張りをした。(新改訳聖書 マタイ27章30~36節)』

 私を育ててくださった宣教師さんが、主の働き他人の身なりや生き方にも、気を付ける様に言っておられました。イエスさまが着ておられた上着を、ローマ兵たちが脱がせて、着替えさせています。十字架にかけた後に、兵士たちは、くじ引きを指摘物を分け合ったと記されてあります。

 イエスさまが、普段に着ておられたのは、バプテスマのヨハネや野武士のようなものは着ていられないで、良い物だったからこそ、ローマ兵たちがは、くじ引きで自分のものしたかったのです。「良質で持ち物の少なかった」イエスさまの生活術に倣う様に言われたのです。

 今季着ていますセーターは、三枚あります。一つは、華南の教会の信者さんが下さった物、次兄からの貰い物、そして家内から20年以上前の誕生日のギフトなのです。特売の物は、すぐに形がくずれてしまいましたが、やはり上質の物は、長く着続けることができています。それは、素敵な生活術や基準ではないでしょうか。

(「フリー無料モノクロイラスト」のヒゲ、Christian clip artsのイラストです)

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もう乙女そのものでした!

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 『生きるって、生きているって、生かされているって素晴らしいな!』と感じた、この日曜日の午後の出来事でした。ほとんどの参加者が、ラジオ体操仲間だったのです。昔、自治会の会長さんだった方がおいででした。この方のお孫さんが、看護師をされていて、看護のつらさを話され、辞めたい気持ちを話されているのだと、家内が聞いたのです。それで自分の入院経験から、看護師さんが、決められた看護以上のことを自分にしてくれた経験などを、この元会長さんに話したことがあったのです。

 『お孫さんを励ましてあげてください。素晴らしいお仕事なんですから!』と、自分の入院経験を添えて助言をしたのです。昔聴いたことのある歌を、懐かしそうにカラオケしていました。そう、礼拝を終えた後、昼食を摂って、年4回ほど行われる、自治会の「カラオケ会」に参加したのです。

 ラジオ体操が、この日曜日の朝にあって、この元会長さんは、杖をついてやって来られて、一人一人に挨拶をして回られ、暮れに入院手術をした私に、『具合はいかがですか?』と聞いてくれました。市の老人大学で、一緒に聴講する、大先輩の仲間なのです。

 この方の同級生のご婦人が、その会においででした。なかなか歌をリクエストしなかったのですが、われわれより少し若い世代の会の世話をしてくださる方、この方も体操仲間で、集われても出渋るみなさんを激励して、カラオケ歌集を渡しては、選曲を促していました。やっと会のお開きが近くになって、歌い出されたのです。何と「接吻(くちづけ)」と、力を込めて歌っている歌詞が聴き取れました。『ああ、この方も若い頃、そんな sweet な経験があったんだろうなあ!』と、感感慨深く聴いたのです。94歳のご婦人が、もう乙女そのものでした。

 息子さんを五十歳代で亡くされた85歳の方も、奥さまを誘ったのだそうで、同伴でおいででした。息子が家を建てて間もなく、亡くなられたのだと、話してくれていました。その悲しみを負いながら、ご自分の家と、その息子さんの思い出の溢れた家を行き来して暮らしていると言っておられました。知らない歌謡曲を、奥さまが歌われ、ご主人も、「川」と言う演歌を渋く歌っておいででした。漬かると、毎年、梅をくださるご夫妻なのです。

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 お嬢さんを産んで、間も無くでしょうか、ご主人と離婚されて、実家(ふるさと)に帰って来られて、ご両親のお世話をし終えて、ご自分の老後の今を生きておいでです。学校で学ばれた美術を生かした、パッチワークを教え、作品作りをされては、美術仲間と、秋には、大きなホールのある、その地階の展示室で展覧会を開いておいでです。私たちもお招きいただいて見学させてもらいました。知らない歌でしたが、歌詞に、『・・・独りで生きてきて・・・』と聞き取れ、独りで頑張って生きて来られた、同学年のご婦人です。

 東京にいる、小学生のお孫さんが、登校拒否をしておられて、おばあちゃんのそんな悩みを話されたこともありました。お嬢さんが、時々、そのお子さんを連れておいでになられています。『若い時に、離婚したことを悔やんでいるんです!』と家内に言ったことがあったそうです。みなさん、それぞれの今を生きていて、歳を重ねたもわれわ世代も、これからの若い世代も、上手く生きられないで、それでも精一杯、反省や悔いも交えての今を生きているわけです。

 家のそばを流れる巴波川の流れを利した、「舟運」を江戸期に行われた先祖をお持ちで、当時の出納帳とか、舟主の遺された物、印半纏なども見せていただいたこともありました。わが家にも来られて一緒に、珈琲を飲んで、好い時を過ごすことが、時々できています。

 カラオケなど、まずやったことのない、演歌など無用な家内は、ひとりでも、このカラオケ会に参加してきていて、この日曜は、私を誘って行ったのです。カラオケに「讃美歌」があって、そこから、選んで歌っていました。愛だ恋だではない歌を、みなさん聴いて、拍手してくださっていました。心の叫びや若かりし頃の思い出を、こう言った形で、歌い表すのも、「しばしの娯楽のひと時」なのでしょう。

 ポリュカルポスという名の教会の指導者が、昔いたのです。イエスさまの弟子のヨハネの弟子でした。ある時、ウズラと遊んでいたのです。そんな彼を見た人が、『どうしてそんな無駄なことをして時間を過ごすのですか?』と聞いたのです。聞いたのは猟師でした。肩にした弓をとって、プリリュカルポスは、こう言ったそうです。『あなたは猟を終えると、弦を緩めるでしょう。私も同じなんです。』と答えたとか、どなたにも、そう言った「弛緩(しかん)の時」が必要なのでしょうか。

 実は、もう何十年も前になりますが、あるご婦人とduettoで、「なみだの操」を歌ったことがありました。殿様キングスというグループの歌で、1973年の暮れに発表され、レコード200万枚突破の演歌でした。スーパーのパートをしていた職場の忘年会に出て、どうしても歌わされた歌でした。でも、『ここでは歌えないなあ!』と思って、昨日は、歌いませんでした。次回は、の今回でした。

 この地で、孤立しないことも大切で、今は、地域のみなさんと共にありたいと、関わりを持とうとしているのです。みなさん、強がらないで、弱さを感じる今を精一杯生きておいでの、素敵な日曜の午後でした。ご主人を送られて、独り暮らしの家を、お嬢さんが訪ねて来れるという、ライフ・スタイルのみなさんがほとんどです。

 去年の暮れには、17歳と18歳の二人の孫娘と一緒に、誕生会をしてもらいました。『18歳と80歳の違い」を感じながら、自分のその年齢の頃を思い出しさせられ、この二人の青春を祝福できたのです。老いて素敵なことも多くあるのは喜びです。 

(ウイキペディア、世界遺産イベリア半島の地中海沿岸の岩絵です)

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油汚れの手を

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 「スター( star )」とは、星のように輝く人を言い表す言葉で使われてきていました。今では、そう言った形容は、ほとんどされなくなっていて、他の表現に代えられてきている様です。映画でも、スポーツでも、政治の世界でも、綺羅星の様にキラキラさせている注目人物を、そう言っていました。

 今やスポーツ界では、MLBの大谷翔平、将棋界の藤井聡太、ボクシング界の井上尚弥などのみなさんがいますが、どの世界でも、そう言った人物を生み出そうと躍起です。時代を担う人物、それぞれの世界を牽引し、宣伝できる人材の登場が期待されていて、もしかしたら、各業界が、作為的に、それを作ろうとしているのかも知れません。

 もうベテランの域に達している人材も、すでに亡くなった人も、若い頃は「新星」であったのです。映画界でも三船敏郎、音楽界でも小澤征爾、政治界でも小泉純一郎、建築学会でも隅研吾と言った優れた人材が、彗星の様に現れて、一世を風靡したのです。

 負け犬の言の様ですが、最盛期を知っていると、その座を降りた方の姿が、かつては輝いていただけに、歳を重ねて、薄ぼんやりと衰えている姿を見ると、その落差に驚かされます。いつも思うのは、後進に座を譲って、誉ある注目の席を、潔く退(ひ)くことでしょうか。

 ホンダの創業者の本田宗一郎は、《世界のHONDA》を作り上げて、65歳で、身を退きました。まだ経営手腕を振るえる年齢でしたし、業界も、まだまだ引っ張っていって欲しかったのですが、新しい時代には、もう育ってきている人材いて、彼ら任せてしまったのです。それは、やはり「勇退」と言うのでしょうか。

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 創業時の苦労を思うと、トップに座に居続けたくなるのが常なので、「やめ時」を引きにばして、経営が難しくなる例の多い中、本田宗一郎は決心をして辞したのです。あの陸奥、米沢藩の上杉鷹山は、十代で主君となり、藩政を改革して徳川中庸の名君でした。その鷹山は35歳で、治広に家督を譲ったのです。そして主君の心得の「伝国の辞」を表します。

 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候

 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

 一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

 優れた指導者は、時を読み、時を知るのでしょうか、本田宗一郎は引退後に一つのことをしたのです。日本全国に数多くの販売店や工場で従事する従業員いて、そのみなさんに、『お礼を言いたい!』と決められて、それを実行されたのです。海外にも足を伸ばされたそうです。

 私は、何台もの車を乗り潰したのですが、兄が乗り古したダットサン1000ccをもらったのを初めとして、中古車ばかりを乗り継いだのですが、海水浴に子どもたちを連れて出かけた帰り道、ラジエーターへの送水のゴム管に穴があいて、オーバーヒートしてしまいました。しばらく走ると止まって、水をラジエーターへ注水する、これを繰り返しながら走り、やっと街道沿いの自動車修理工場の前に着きました。

 あいにくお盆休みの真っ最中でした。それなのに、その工場主は、作業着に着替えて、修理をしてくれたのです。あんなに助かったことはありませんでした。4人の子どもたちを乗せて、家内と6人だったのに、みんながホッとしていたのです。あの時ほど、新車が欲しいと思ったことはありませんでした。

 何台乗り潰したことでしょうか。その度に車が与えられましたが、HONDA製は一度も乗りませんでした。もう少し若かったら、ホンダにも乗ってみたかったのです。あの本田宗一郎の車にでした。ある時、宗一郎が従業員と握手を交わそうとしたのです。作業中だったので、彼は油で汚れた手を出さなかったのです。ところが、宗一郎は、『その油に汚れた手がいいんだ!』と言って、彼に、自分の右手をのべて握手したそうです。そんなことしたり、言ったりする車屋のオヤジさんの車に乗ってみたかったのです。

 鷹山にしろ、宗一郎にしろ、素晴らしい指導精神、いや生き方が抜群なのです。藩主なのに金糸銀糸で織られた衣服を身に着けずに、木綿や麻の生地で織られた衣服を着ることのでき、粗食に甘んじた鷹山、ツナギ作業着姿の宗一郎のあり方は、やはり魅力的ではないでしょうか。

(ウイキペディアのホンダの初代の civic 、本田宗一郎の生まれた町の市花のヤマユリです) 

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弥生三月

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 「一月往ぬる二月逃げる三月去る」

と言うそうです。最初の一月は正月、二月は節分やうるう年、三月はひな祭りなどの行事が多くて、この年の初めの三ヶ月は、あっという間に、時が過ぎていくことを、そう言っているそうです。

 一月から三月までの時期は時間の流れが速く、毎日があっという間に過ぎ去ることを例えたのです。「い(ゐ)」、「に」、「さ」と、月のひらがな表記の頭の字で、言い表したのです。

 まさに、『もう三月!』、例年になく寒い冬を過ごした私たちですし、また寒波が襲来すると天気予報が言っています。三月の終わりにも、四月の初めにも、雪が降ることだってありますから、まだまだの春ですが、辺りはもう春満載気分の此の頃です。

 卒業と入学や入社、入院はないに越したことはありませんが、今年も、上野には行けそうもありませんが、隣町の思川の堤の桜を観に行ってみたいと思っています。観れるでしょうか。「田」に「心」を寄せた「思」の川なのだと聞きました。

 今日は、3月の1日で、私たち四人兄弟の二親は、明治と大正の弥生三月生まれでした。二人とも、早生まれだったのです。上の兄も、この月に生まれて、今年、85歳になります。

(去年の小山市役所の近くの思川の桜です)

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