80年の戦後を思う

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NISHINOMIYA, JAPAN – AUGUST 01: Eiji Sawamura of Kyoto Shogyo warms up prior to the All Japan High School Baseball Championship at Koshien Stadium in August 1934 in Nishinomiya, Hyogo, Japan. (Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)

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 1944年8月15日を境に、日本は、大きく逆転か、本転(?)を遂げたと言えるでしょうか。昭和の初めの20年は、軍拡化の年月だったのに対して、その後の「八十年」の戦後は、日本は「生き直した(やり直した、と言うには、犠牲が大き過ぎたのではないでしょうか)」のです。

 自分にとっては、「二親」のやり直しの中で、兄たちと弟と共に、育てられた日々でした。その八十年の年月には、重さを感じさせられるのです。この戦後の年月を、『すべきではなかった!』、『せざるを得なかった!』と議論をし続けて、歳を重ねて来たわけです。

 国土の広さも、国の資源も、民主主義の実現も、人間尊重の精神も、生命の重さの尺度も、財力も、誇りも、体格も、希望も、それらの質も量も、ほとんどのことで劣っていた、この国が、欧米諸国と肩を並べ、それを凌(しの)ごうと、軍事大国になることを、国家目標に掲げた世代の始めた道をたどって生きて来たことになります。

 長らくアジアやアフリカの諸国を植民化しようとする、欧米諸国の圧力を、全力で排除しようと、日本が大東亜共栄圏の拡大のために、大陸に侵略を敢行し、東南アジア諸国支配を国家目標に掲げたのです。その台頭を防ごうとしていた米英に対して、日本は宣戦布告をした結果、泥沼の様な戦いに敗れたのです。

 国家の高慢の鼻っ柱を折られ、責任を感じた指導者たちは、自死して詫び、そうしなかった指導者は口を拭って黙り込み、責任を転嫁し、狂った様に見せて責任を回避した者もいました。そんなことのできなかった大部分の国民は、子を、父を、夫を、戦場に送り出しましたが、負け戦が明らかになり、国民の総動員が図られました。そして、とどのつまり、あの焼夷爆弾や原子爆弾の投下で家族を失い、家や貯えを失います。不屈の思いで、貯え、築き上げた物や夢までも無くしてしまったのです。

 戦争には負けたのですが、立ち上がる力を、人々は残していました。あの廃墟の中から、立ち上がった人たちの中に、「フジヤマノトビウオ」と渾名された水泳選手の古橋廣之進がいました。1948年、ロンドンオリンピックの委員会から、大会参加を許されませんでした。しかし、水泳で次々と世界記録を塗り替えたのです。それは快挙でした。

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 また、1952年に、戦場から生還した白井義男が、ボクシングで、戦勝国アメリカのボクサーを倒して、世界チャンピオンになったのです。その快挙は、打ちひしがれた戦後の日本人の頭を上げ、困難を乗り越えさせる力を与えてくれた、素晴らしい活躍でした。

 1950年になると、朝鮮半島で戦乱が始まりました。南北の分断した同一民族の戦いで、共産中国の支援を受けた北朝鮮人民共和国が、南朝鮮に向かって、38度線を越えて進軍したのです。朝鮮半島を共産勢力の侵攻から守ろうと、アメリカが、連合軍として、南朝鮮を死守するために軍事介入するのです。その連合軍の物資供給を、日本の製造業が果たしたわけです。いわゆる「戦争特需」で、日本は急速に息を吹き返したのです。

 焼土の中から立ち上がった日本は、勤勉さと、弛(たゆ)まない努力で経済を持ち直し、産業国日本が躍進していきます。やがて世界第二位の大国になっていくのです。1964年になると、東京オリンピックが開催され、国威を表そうと、東海道新幹線が走り始めました。その事業を推進した方々の中には、戦闘機を設計した技術者がいました。その技術を平和に生かし直したのです。

 さらに高速道路網を拡張し、全土に整備し始めます。世界の輸送業では、他を凌いでだ立場を築き上げた「高速鉄道」が走り始めたのです。さらに「日本列島改造論」も叫ばれていった時代でした。自動車や電気製品、電子製品などの日本製品の輸出量は、驚くほどに増大していったのです。

 それらは、敗者からの「起死回生」であって、世界を驚嘆させた、もう戦後とは言わなくなってきたのです。私たちの世代は、平和教育を受け、高度成長期を迎え、やがて21世紀に至ったわけです。父母の世代の弛(たゆ)まない努力の結果こそが、今の時代なのでしょう。

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 今や、日本の青少年は、体格の劣った民族でなくなっているを感じさせられています。私は、老齢期を迎え、世代交代は、そろそろ子たちから孫たちの手に移るのでしょうか。一線を退いて、盛んな時が過ぎていくのを感じて、嬉しくも寂しい思いもしてまいります。今日(3月28日)、MLBのアメリカ野球の世界で、最も注目されている選手が、日本人だということに、試合観戦をネットでして、また驚かされたのです。

 父の世代に活躍した野球の沢村栄治は、174cm、71kgの体格で、1934年に行われた日米野球で、アメリカのトップ選手、ベーブ・ルースらを手玉に取るほどの投手で活躍でした。軍務を終えて帰還した時に、プロ野球に復帰しようとしましたが、手榴弾を投げ過ぎたのでしょうか、肩を壊して、もう投げられなくなっていました。再度戦場に駆り出され、そこで戦死されています。また、我らの世代の一大ヒーローだった、戦場から生きて帰った川上哲治は、174cm、74kgの体格で、戦後の日本の野球界に貢献し、日本中の少年たちの憧れの的の名選手、名監督でした。

 ところが、今や大リーガーとして、アメリカ人選手を凌ぐ活躍をしている大谷翔平選手は、193cm、95.3kgの体格で、投打に秀でていて、「二刀流」と言われています。破格の野球選手と言えるでしょうか。ウイキペディアには、次の様にあります。

『近代MLBにおいて1シーズンに規定投球回数と既定打数の両方に到達した史上初の選手。MLB・(NPB(日本プロ野球)両リーグで「1シーズンでの2桁勝利・2桁本塁打」を達成。NPBで最優秀選手を1度受賞、MLBでシーズンMVP(最優秀選手賞)を3度受賞。MLBにおいて、アジア人初の本塁打王(2回)、打点王(1回)。MLB史上初の位置シーズン50本塁打50盗塁(50-50)達成。』

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 そればかりではなく、日本の女子サッカーは、アジアでは、韓国に勝てなかったのが、今や世界一を手にするほどの成績を収めています。ヨーロッパのプロの女子サッカーチームには、多くの日本選手がいて、スターティングメンバーになっているのです。その日本選手の中の長谷川唯は、157cm、47kgの体格で、大きな選手たちに伍してミッドフェルダーとしてイングランド女子サッカー界では、屈指のMFなのです。この選手は、反則がほとんどないほどに、スポーツマンシップに長けているのです。まさに、「なでしこ」の如しです。

 日本代表チームでも牽引役で、ゲームメーカーとして、実に優れていて、プロサッカー界屈指の選手なのです。フォワードでありながらもバックスの守りでも、優秀なperformanceを見せています。173cmで、58kgのスリムだった自分も、今や169.3cm、68kgになってしまった今ですが、あの川上哲治選手や沢村栄治投手と、同程度だったのです。そんな世代格差を覚えながら、今の若者たちの活躍に一喜一憂している今です。

(ウイキペディアの沢村栄治、19歳で世界記録を出した時の古橋廣之進、大谷翔平、長谷川唯です)

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