「漂泊の思いやまず」

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 「奥の細道」の「序」

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。

予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も  住替る代ぞ   ひなの家

表八句を庵の柱に懸置。

弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明けにて光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。

むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ(*)胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。

行く春や 鳥なき魚の 目は涙

これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。
人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るなるべし。」

 松尾芭蕉は、弟子の曽良と共に、江戸時代の初期に、江戸の深川の庵を出て、隅田川を北上し、千住で舟を降りて、そこから旅立ち、奥州の地を北上し、日本海側の道を南下し、美濃国の大垣に至る行程を歩いたのです。

 それは、元禄2年(1689)3月27日(陰暦。現在の暦では5月16日)、46歳の松尾芭蕉の「漂泊の旅」でした。日光街道、奥羽街道陸、北陸道の各地を訪ねています。そして大垣には、8月21日に到着していますから、156日間、476里余ですから、1500km程に及ぶ長旅だったことになります。

 父好みの教育者の建てた中学校を勧められて、受験して入学したのです。小学校のクラスで二人だけ、町内の学校でなく、電車通学で通ったのでした。一人は女子で、同じ敷地の中にある女子部に入り、そして自分だったのです。

 その12才の春に、国語の授業のほかに、特別科目があり、一週間に1日の講義がありました。高等部の三年生の国語を担当する教師の特講で学んだのです。時代劇の映画を見て、難しい侍や町人の語った日本語を聞き慣れていましたから、違和感を持たずに、教師の朗読する箇所を、素読したのです。何か、大人になった気分がして、得意な思いをしていたのだと思います。

 浅草は知っていましたが、文中にある深川や千住は知りませんでした。親しい友人の会社が日本橋にあって、その社屋の五階に、来客用に宿泊用の部屋と台所があって、当時中国にいましたので、帰国すると、そこを使わせていただいたのです。芭蕉が舟で上った隅田川の河畔でした。

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ある時、自転車を借りて、日本橋の界隈を散策したのです。芭蕉記念館などを訪ねたでしょうか。江戸情緒などを感じられませんでしたが、史跡が残されていて、興味深く時を過ごしたのです。

 その隅田川の岸に座って、船の上り下りを眺めていると、芭蕉は、捨て切れない「漂泊の思い」を抱いて、未知の地へ旅立って行き、どんな思いで小舟に揺られ、竿の水音を聞いたのだろうかと、タイムスリップしてでしょうか、しばし思いにしたったのです。

 俳人の芭蕉には、多くの弟子がいました。歴史で名高い地を訪ねると共に、俳句のお弟子さんたちを訪問し、句会を持ったのです。雨が降ればぬかるむ道を、雨季には増水する川を、険しい山道も、関所も越えながらの旅でした。その旅の紀行文、訪ねた地での出会いや再会、句会での作句、多くの俳句を詠みながらの旅だったのです。

 最初の訪問地が、下野国の「煙立つ」と、平安期から詠み継がれた、下野惣社の「室の八島」でした。芭蕉は、次のように書き残しています。

「室の八嶋に詣(けい)す。同行曾良が曰はく、「此の神は、木の花さくや姫の神と申して、富士一体なり。無戸室に入りて焼け給ふ(たもう)ちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生まれ給ひしより、室の八嶋と申す。又、煙を読み習はし侍る(はべる)もこの謂はれ(いわれ)なり。」将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍りし。」

 ここは、「日本書記」にも記されていて、多くの俳人、歌人が詠んでいる地なのです。今春、お隣に住む方にお連れ頂いて、下野国分寺跡と国分尼寺跡で、淡墨桜の観桜をし、下野薬師寺跡、下野国国庁跡などを訪ねたのです。今は下野市や栃木市になっていて、この街々の誇る観光名所であります。

 子どもの頃に、家出を二度ほどして、「寂しさ」とか「孤独」などの思いを経験したからでしょうか、自分も「漂泊の思いやまず」で、あちらこちらと旅をさせていただきました。芭蕉は周到な旅備へをして、深川を発っています。信長が「人間五十年」といったのですが、間もなく、その年齢に近い芭蕉は、46歳の年齢で、持病持ちでもあったのです。それでも、旅や再会や出会いを求め、見知らぬ地を訪ねたのです。

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 李白や杜甫を憧れた文人魂は、「旅に死す」の覚悟で、長距離を走破するのです。昭和の中学生に、感銘を与えるような旅をした人です。自分も、自分に定められた旅の途上にあるように思う今です。昨日も、看護師さんが、『クシャミをしなかった?』と言っていました。医療技師と噂をしたのだそうです。若く見えても、歳は歳で、弱さを覚える年齢ですが、まだまだ生きて、子や孫や友人たちを愛していきたいのです。

(ウイキペディアによる「芭蕉出立」、「室の八島」、「杜甫の草堂」です)

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仇撃ちでなく神の国建設に

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 自分の一生を、『こう言う風にも生きられたかも知れない!』と、人生の終盤にある私は、そう思うことがあります。ただ可能性の問題ですが、自分が決めたと言うよりは、この様に導かれたと言う以外に、自分の一生はこれに違いありません。それで、この現実に満足の今なのです。きっと小説家のみなさんは、歴史上の人物を、史実だけでなく、そんな風に創作して、書き上げるのでしょう。

 日本人の大好きな物語が、いまだに「忠臣蔵」なのだそうです。時は元禄の頃(1703年)、江戸城の松の廊下で、刃傷に及んだ主君、浅野内匠頭の恨みを、元家臣の四十七士が、本所の吉良邸に討ち入りして晴らす物語です。恨みの張本人が、吉良上野介で、討ち取るための中心人物が、元・筆頭家老の大石内蔵助でした。

 元禄期に起こった一大事件は、人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の演目で、1748年(寛延元年)の夏に、大阪の竹本座で初演されています。やがて歌舞伎で取り上げます。この事件が起こったのが、元禄14年3月14日(陽暦4月21日)ですから、50年ほど経ってからになります。史実と、創作劇とには、だいぶ違いがありそうですが、私たちが歌舞伎や映画やテレビで観たり、本で読んだりものの基本になりそうです。

 歴史的には、「元禄赤穂事件」として記録されているのですが、それはさておき平成の世に、池宮彰一郎が、この事件を取り上げて数冊の本を著していて、それを田中陽が書いた、「最後の忠臣蔵」の脚本によって、映画が制作され、劇場で上映されていました。

 その作品の主人公は、大石内蔵助ではなく、討ち入り前夜に、逃亡したとされている、内蔵助の家臣で、瀬尾孫左衛門なのです。その逃亡には、内蔵助の密命がありました。内蔵助には、お軽と言う女性がいて、内蔵助の子を宿しているとのこと。このお軽とお腹の子の世話を家臣の孫左衛門に託すのです。
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Digital Capture

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 それは、全くの小説なのです。でも、[ありうる話]でしょうか。もう一人、討ち入りには加わりながら、逃亡したという設定になっている寺坂吉右衛門がいたのです。討ち入りを果たした義士たちの遺族の世話を、大石良雄に託されて生き延びたとされています。二人とも下級武士(足軽)同士で知り合いの孫左衛門を『マゴザ!』と呼ぶ仲なのですが、軽の子、可音を育て上げた頃に、偶然、主君の密命を遂げるまで、身を隠していた孫左衛門を見つけるのです。

 この可音は、縁あって京の豪商、茶屋四郎次郎の子に嫁ぐのです。婚礼に、迎えの籠で行く可音を見送った後でしょうか、孫左衛門は、家に帰って、腹を切って果てるのです。足軽ほどの身分の武士として、どの武士よりも「武士(もののふ)」として果てるのです。主人、内蔵助から託された使命を果たし終えたからです。武士とは、何と面倒な身分だったのではないか、そう思って、けっこう思うことがありました。

『しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。(新改訳聖書 マタイ26章56節)」

 大石内蔵助らの赤穂武士は、主君浅野内匠頭の恨みを晴らし終えて、武士の本懐をとげて、切腹して果てるのです。ところが、イエスさまが預言されたように、イエスさまの弟子たちも、主を見捨ててしまったのです。キリストの12人の弟子たちは、主君イエスさまの復讐を誓ったりせず、絶望悲観してしまうのです。

 3年半の間、主の召しに従って、共に歩んできた弟子が、イエスさまが十字架に直面した時に、その主を見捨てて、逃げたのです。人を恐れ、伝統を恐れ、先祖伝来の宗教を恐れたからでした。それにしても何と意気地がないことでしょうか。
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 赤穂浪士の様に、主君の仇を打って、恥を雪(すす)ぐことなどせずに、ローマ皇帝を、ユダヤの議会を、いえ人を恐れてしまい、逃げたのです。あの弟子たちだけではなく、私たちも同じ様に恐れるのです。この世間を、この社会の敵になり、仲間外れになるのを恐れるのです。

 敗北者として、彼らは、自分たちの故郷のガリラヤに帰り、元の漁師の生活に戻り、湖で網を再び打ち始めます。ところがイエスさまは、死と墓とを打ち破って、蘇られておられたのです。そのキリストが、ガリラヤ湖の浜辺で魚を焼いて、食事の用意をされて、彼らが漁を終えて、浜に戻るのを待っていたのです。

 そう、復活されたキリスト・イエスが、彼らの目の前に顕れたのです。夢敗れ、敗北者のようにして、ガリラヤに帰り、もとの漁師にひっそりと戻り、隠れるようにして生きようとしていた彼らに、甦られたイエスさまは、ガリラヤ湖の岸で、弟子たちと共に、食事を共に摂るのです。

 それから弟子たちは、再びエルサレムに戻ります。彼らが共に祈っている時に、約束の聖霊が降って、彼らが異言を語りながら、主をほめたたえ始めるのです。その、「聖霊の力」を得た彼らは、キリストの福音、良き訪れの知らせを語り始め、キリストの教会が誕生するのです。

『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 するとイエスは、彼に答えて言われた、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれています。」(マタイ16章15〜19節)』

 弟子たちの指導的な立場にあったペテロは、十字架信仰、復活信仰をもって、キリストの教会を導いていくのです。もう人も世間も恐れることはありませんでした。ペテロは、イエスさまをキリストと信じ続けて、信徒を生み出し、教会の建て上げに励み、迫害を受け、最後には殉教の死を遂げていきます。

 もう逃げたり、隠れたりすることはなく、雄々しく生きて、主の元に帰って行ったのです。イエスさまが彼に言った様に、「岩」であるペテロの上に、キリストの教会が建ち、天国の鍵を頂いたのです。

 主を否むペテロではなく、臆するペテロではなく、主のゆえに、教会に主に従い通して、殉教していくペテロとされるのです。この十二人の弟子たち(一人は脱落し、一人が新たに加えられました)は、教会の礎石であり、柱であります。もちろん「礎(隅のかしら石)」は、主イエスさまなのです(➡︎詩篇118篇2節、マタイ21章42節)。

 真の武士(もののふ)、忠臣が誰かを、死をもって殉じる物語を書き上げ、映画化したのに興味が湧きますが、仇討ちも、武士の義も、家臣が主君の恥をすすいで、死をもって全うするのは、悲し過ぎます。ところがペテロたちの様に、主のために、託された使命のゆえに、信仰に生き抜いた彼らには、やがて蘇る望みにあるのです。復讐のために生きるのではなく、「神の国」の建て上げにささげた生き方は、将来があり、希望があり、夢もあります。私たちもそんな将来を目指したいものです。

(Christian clip artsのイラスト、ウイキペディアの忠臣蔵を描いた浮世絵です)

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85歳の壮健について

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 知り合いの実家に、ご両親を訪ねたことがありました。手広く果物栽培をされておいでで、日焼けしたお顔には、年月や苦労が刻まれておいででした。このお父さんが、『俺、最近バカになっちゃって!』と何度か繰り返されてお話になっていたのです。こちらはまだ四十代でしたので、謙遜に、そんなことをおっしゃっていたのだと思ったのです。

 でも、そのお父さんの言っていた「ことば」が、最近、思い出されるのです。先おとといの晩にも、翌朝のご飯の支度のために、お米を研いで、雑穀米を入れ、小豆が良いからと言うので、小さな鍋で煮ていたのです。それを忘れていたら、家内が、『もう小豆、いいんじゃないんですか?』と言われて、火を消して鍋の蓋を開けましたら、煮ていた水がカスカスになっていて、すんでのところで焦がしそうでした。

 最近、そんなことが続いていて、危険信号が点滅しているのです。お昼にも、サラダを作り、卵とサツマイモを蒸していたのです。何か、焼き芋のニオイがしてくるではありませんか。『しまった!』と思って、台所に跳んで行って、ガスレンジの火を止めたのです。煮水がなくなっていて、「焼き芋状態」になっていたのです。

 いやー、2回連続は初めてで、『オレもバカんなっちゃった!』と思ったのです。いえ、認知症突入でしょう。それでも、体ばかりではなく、認知能力も健康であり続けたいと願うのです。「認知症にならないための十ヶ条」では、次のように言っています。

  1. 脳血管を大切にする
  2. 食生活を整える
  3. 運動を心がける
  4. 飲酒・喫煙が過度にならないようにする
  5. 活動・思考を単調にしないように努める
  6. 生き生きとした生活を
  7. 家族・隣人・社会との人間関係を普段から円滑にしておく
  8. 自らの健康管理に心掛ける
  9. 病気や障がいの予防や治療に努める
  10. 寝たきりにならないように心掛ける

 『オレは大丈夫!』も、笑い事ですませるのも、もはや終わって、危険水域に入った自分を実感しています。顔にシワが目立つ様になっているのですから、脳機能にも、シワやシミが出て来ているのでしょう。避けられない事実を認めるのが、「認知」なのでしょう。”OB“、まさに人生の「オールドボーイ」なんだと思うこと仕切りです。

 昨年の暮に、大学病院で、心臓をCTで撮影した画像を見せていただいて、真っ赤に血の赤い色をしていて、躍動する自分の様子を見て、感動したばかりです。何十年も動き続けて来た心臓が、一瞬も途切れることなく、この脳にも、身体全体に、あんなに細い血管を通して、血液を送り続けてくれている、いのちの循環に驚嘆するばかりでした。

 イスラエルのユダ族の族長だった、85歳になっていたカレブが、次の様に言っています。

『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書 ヨシュア14章10-11節)』

 「85の壮健」には、驚かされます。ユダ族を率いていた40歳の日と同じ様に、45年間生きてきてのカレブの告白です。武器を手に取って、戦場を駆け巡れるほどの健康状態を維持していたのです。それは、主を信じる年月だったことになります。彼よりも5歳も若い自分の現状からして、羨ましいほどの信仰告白なのです。

 これは比較の問題や課題ではなさそうです。そんなカレブも、その生涯を終えています。《今を生きる》に徹したのが、カレブの生涯だったのでしょう。エホバなる主に従い通した、健康で健全な一生だったのです。主に従い通せる様に、残りを、家族に支えられながら、自分も感謝して生きていこうと思い直しました。もちろん注意しながら生きてまいります。

(ウイキペディアによるカナン偵察時のカレブたちの様子の図です)

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カモは去り、秋になると再び来る

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 もはやカモが飛び立ってしまい、一羽もいなくなった巴波川の河面で、こんなに群れていたのが嘘の様な、一抹の寂しさです。秋になって帰って来るまでは、鯉の天下になりますが、雨降りの後の川は、泥水で、鯉の姿を確認できませんでした。

 故郷は遠くにあるので、日本語に代わって、ロシア語が聞こえて来ることでしょう。この秋の一番帰りを、カモたちは競争するのかも知れませんね。今は、巴波川の餌売り場の特製の餌は、鯉だけの競争になりそうです。

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3.8%の良心、春の宵に思うこと

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 あるスーパーマーケットで買い物をした時に、知り合いの方が、レジ係をしていましたので、この方のレジに並んだのです。『お元気ですか?』と声を掛けて、レジ計算をしてもらったのです。2、3品の買い物でしたが、レシートで請求されたのが、ずいぶん安かったのです。

 スイカの分を、この方はレジ打ちしなかったのです。驚いて、どう言おうかと、ちょっと躊躇し、咄嗟に、『スイカも買っていますので!』と言いましたら、『あっ、ごめんなさい!』と言って、たぶんスイカの値段が千円ほどだったので、その額を、改めて打ち込んでくれ、二枚のレシートと交換で支払いを済ませたのです。

 そう言うことが、よくあると、聞いていたのです。従業員や友人などが自分のレジに来ると、サーヴィスのつもりで、そう言う不正が行われているのでした。それって詐欺行為で、いわゆる万引きよりも悪質なのです。内内で、空打ちをするのですから。

 今では、自分での手で、バーコードを機械に読ませて、会計をする自動レジが行われる様になって来ています。人件費を削減するために、そう言った店が多くなっている様です。先日、いつも行くスーパーで買い物をして、自分で会計を済ませて帰って来たのです。なにか安過ぎているのが気になって、家に帰って、買い物品とレシートを見比べましたら、牛肉のパックを自動レジに通したつもりが、通っていなかったのに気付いたのです。

 私は、すぐに、その牛肉のパックを持って、その店の会計カウンターに行って、『先ほど買い物をして家に帰って調べたら、この牛肉を通し忘れしていました。すみませんでした!』と言って、支払いをしたのです。すんでのところで、未払い分を払えて、ホッとしたわけです。『そんなやましい思いで、この店には買い物に行けないな!』と思っていたので、支払いを済ませて胸を撫で下ろせたのです。


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『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新改訳聖書 1ヨハネ1章9節)』

 また、子どもの頃に、【キヨチャン】と言う店で、万引きを何度もした自分だったのが、教会に行く様になって、キリスト信仰をし始めてから、それを思い出したのです。それで、かつて住んでいた街の店に行きましたら、歳をとったキヨちゃんがおいででした。それで、『子どもの頃に、おばさんが向こうを向いている隙に・・・』と言って、『ごめんなさい!』と言って、3000円を入れた封筒を、キヨちゃんの手にねじ込んだのです。

 『そんなの、もういいわよ!』と、目を丸くして、おばさんは言っていました。よくないから詫びに行ったので、そのまま帰ったのです。何と30年ぶりほどの清算、いえ精算になんかなりませんね、何度も盗んだんだのだからです。

 でも、そうできたのは、罪の責めたてからの解放でした。もうやましい思いで、その店の前を通らないで済んだのを、また思い出したのです。その店のある街の教会で、宣教師さんと牧師になっていた上の兄から、自分はバプテスマを受けてからの「罪の精算」でした。過去の不始末を放って置けなくなったわけです。お詫びをしなければならないと、心に迫られたのです。

 今月、ある出来事がありました。その件について、ある新聞記事に、こう取り上げられてありました。
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「中央道や東名高速などの料金所にあるETCレーンがシステム障害で使えなくなった問題で、中日本高速道路(NEXCO中日本)は18日、15日午後10時までに後日払いの申し出をしたのは約3万6千件と明らかにした。 システム障害は6日午前0時半から約38時間続き、最大8都県、106の料金所でETCが使えなくなった。同社は料金所の渋滞を解消するため、通行料金を後日払いにする形で障害が生じている料金所のETCレーンを通過させる対応を取った。この間、使えなくなったレーンを含む料金所を通過したのは、障害が起きた前週の実績から96万台程度とみられるという。(以下省略)」

 96万台の車が、後日、自己申告で支払うという形で、ETCの利用を、許したのだそうです。それは大渋滞を避けるためでした。その後、精算をしたのが、3..8%だったのだそうです。そうしますと、96.2%の利用者は、後払いをしないでいると言うことになります。

 この一件は、ニュースで聞いていましたし、料金の後払いのことも聞いていました。でも、未精算というのは、いけないことだなあと思って、自分の過去を、また思い出したのです。確率からすると、「日本人の良心」が、鈍くなっているのだと言えるのかも知れません。子どもとはいえ、私も同じ良心の鈍さで、罪を犯したわけです。

 罪を、そのままにしてはいけないと言う思いが湧き上がって、キヨちゃんを訪ねたのです。そんな出来事を思い出すと言うには、罪の傷が、心に残っているからに違いありません。今は、自由を得た様に感じ、罪の呵責がなくなくなって、改めた生き方がができる様になりました。そんなことができたのは感謝だと思わされている、春の宵であります。

(ウイキペディアのスイカ、駄菓子屋、ETCです)

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八花繚乱

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 春の陽を浴びて、ブラリと散歩道を行くと、こんなに綺麗に花が咲いて、来た春を彩ってくれていました。これらの花の一つほど、装うことにできない、路に映る自分の影を、しばらく眺めていたのです。

 この季節に、礼拝や聖書の学び会、祈り会の時に、歌った歌に、「春に若草が」がありました。

原に若草が 青く萌え出すと
雪解けの水が 高く音立てる
※ 私たちも春の喜びを歌おう
春を造られた神さまを歌おう

風がやわらかく 野原を通ると
木の枝が揺れて さらさら囁く

遠くで家畜の 声が聞こえると
近くで小鳥が 何か歌いだす

造られたものは 春の日を浴びて
春を造られた 神さま誉めてる

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(新改訳聖書 イザヤ43章4節)』

『わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ44章22節)』

 こんなに薄汚れているのに、いえ、こんなに汚れ切っているのに、神さまは、ご自分の御子のゆえに、イエスさまの十字架の贖罪のゆえに、無条件で、赦し、子としてくださり、義としてくださり、聖としてくださり、やがて栄光化してくださるのです。

 功(いさお)ない私に、これほどの身分を与えてくださって、「高価」で、「尊い」としてくださり、『愛している!』と言ってくださいます。魂の敵の手から、奪還してくださり、「子たる身分」を、無代価で与えてくださり、イエスさまと「共同」の「相続人」にしてくださったのです。

 もちろん、暑い夏も、みのりの秋も、凍える冬も、神さまはお作りくださったのです。そんな四季を喜び楽しませてくださるのですね。

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わたしを呼べ、そうすれば

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 父の仕事仲間が、流行りつつあった Golf の事業を新規に始めたとかで、十代の終わりの頃だった自分のために、「ゴルフセット」を手形とか、体重と身長、スポーツ歴などを科学的にデーターをとって作ってくれたのです。兄たちは仕事のために家を出ていた頃でしたから、三男の私のために注文してくれた父でした。それをかついで、家の近くの多摩川の河原に出かけて行って、スイングの練習をしたのです。

 練習場だって、どこにでもない時代でしたから、正式にトレーニングするには、お金が必要だったのですが、父に練習代をくれとは言えないで、そのままになってしまいました。いつのまにか、すぐ上の兄が担いで持っていってしまい、それっきりになってしまったのです。

[ダビデの賛歌(祈り)]

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(新改訳聖書 詩篇23篇)』

 ゴルフは、起源に諸説あるのですが、『韓民族が始まりです!』と言う、桜にしろ、起源への拘りで有名な朝鮮族は、『私たちの国が!』とは言っていない様で不思議ですが、アジアではなく、どうもスコットランドにあるのが、定説なのだそうです。

 なぜかと言いますと、そこは牧羊業が盛んな地で、牧夫の手には、羊を導く杖と、鞭とがあると、詩篇には記されていますから、昔から、ここスコットランドでも、野に羊を導く牧夫は、羊の首を抑えるクエッションマーク「?」の形状の杖とか鞭になる棒を、道具として使っていたのです。

 それで遊ぶこともあったのだそうで、牧羊地に転がっている手頃な石を、足で蹴らずに、棒や杖で打って、穴に入れる遊びをしていた様です。やがて、それがスポーツになっていき、今の様に、“ コンペ( competition )”  とか言って競技会が開かれています。

 莫大な額の賞金に驚かされてきましたが、このゴルフの”Masters “ と呼ばれる一大ゴルフ競大会の行われる、ゴルフ場のコースには、聞き覚えのある「アーメンー・コーナー (amen corner )」があるのだとか。つまり、クリスチャンは、祈りをした最後に、『主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン!』と言って、父でいらっしゃる神さまに祈り、最後に、『その通りです!」という意味で、『アーメン!』と締めくくります。

 つまり、この「11番ホール」あたりは、難易度がとても高く、祈りを必要とするほどにという意味で、そう名付けられたのです。祈らなければならないほどに、風向きや芝を読んだり、クラブを変えたりしなければならないほど、考え悩む困難な箇所なのだそうです。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33章3節)』

 これまでの自分の生きて来た道にも、難易度の高い難関な箇所がありました。家族や友人たちに祈ってもらい、自らも祈って、自分の信仰生活と普段の生活をして参りました。この祈りには、[聴かれる祈り]、[聴かれない祈り]、[待たなければならない祈り]があると言われています。それでも、祈りは、ただ人生上の困難な局面にあるからだけではありません。

 『くれ!』だけの祈りではなく、感謝な思いでする祈りもあるのです。つまり、この神さまは会話の相手となってくださるので、心を友人に開く様にして、神と会話をするのが、この「祈り」なのです。

 感謝なことに、そんな「祈り」を自分のものにして、今日まで生きてくることができました。ことのほか、病弱な私が健康を回復したり、オッチョコチョイの私が、よく怪我をして来たのですが、死なないで、ここまで生き延びられてきたのは、その「他者の祈り」があったればこそだと感謝するのです。

 私たちの4人の子どもたちは、小さい頃から、『お父さん、お母さん、祈って!』と言われて祈ったことが、よくありました。もう親元を離れた子どもたちから、「祈りの要請」が届くのです。自分が祈られて来たのだと感謝があるからでしょうか、夫や妻や、彼らのご両親のために、また子どもたちの必要に、私たちに、『祈って!』と言って来るのです。

 私たちの子どもたちは、実体験として「祈りの力」を認めているからなのでしょう。理解を超えている人生上に起こる、人の力を超えた現実、出来事の中に、神信頼があると言うのは、驚くほどの助けなのです。

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 1903年(明治36年)藤村操が、日光の華厳滝で自死したのですが、その「辞世の句」が残されています。

『巖頭之感 悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。』

 この人は、盛岡藩士の孫であったのですが、人生の不可解さに押しつぶされた青年として、社会を騒がせたのですが、16歳の第一高等学校の学生でした。同じ盛岡藩士の子に、新渡戸稲造がいました。藤村操の死の2年後に、新渡戸は一高の校長になっています。この青年に、いのちの付与者への「祈り」があったら、神への呼びかけがあったら、「アーメン」があったら、『死ね!』と迫った誘いを押しのけて、「不可解」を押しのけて、死なないで生きられたのではないかと思うこと仕切りなのです。

(Christian clip artsの「祈り」、ウイキペディアによる岩手県の県花の「霧の花」です)

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アネハヅルの驚異的な飛翔が

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 戦時下に、十代後半を過ごして、軍需工場での仕事に従事したことを、「わたしが一番きれいだったとき」で読んでいます。それは、19歳だったと、茨木のり子が、自分で書き残しています。そんな詩を詠んだのり子が「鶴」を詠んでいます。

 1995年に、NHKが、「謎のヒマラヤ越え〜飛行ルート5000kmを追う〜」を放映したことがありました。「アネハヅル」の驚異的な飛行の様子を記録した秀作でした。そのアネハヅルの神秘的な習性を、映像で観て詩作をしたのです。その驚きの思いが伝わってきます。

 鶴が
ヒマラヤを超える
たった数日間だけの上昇気流を捉え
巻きあががり巻きあがりして
九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を
超える
カウカウと鳴きかわしながら
どうやってリーダーを決めるのだろう
どうやって見事な隊列を組むのだろう

涼しい北で夏の繁殖を終え
素だった雛もろとも
越冬地のインドへ命がけの旅
映像が捉えるまで
誰も信じることができなかった
白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系
突き抜けるような蒼い空
遠目にも賢明な羽ばたきが見える

なにかへの合図でもあるかのような
純白のハンカチ打ち振るような
清冽な羽ばたき
羽ばたいて
羽ばたいて

わたしのなかにかわずかに残る
澄んだものが
激しく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむればまなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

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 昔から、日本にも鶴が飛来して、「鶴の恩返し」の民話や、木下順二作の「夕鶴」などがあり、読んだ覚えが私にもあります。鶴の変身とか、生まれ変わりなど、「異類婚姻譚」と言う話は、この日本だけではなく、世界各地にある様です。

 シベリアやモンゴルの草原の地で、鶴は誕生して、親鳥に養われて、育ったばかりの子の鶴を従えて、冬場の餌を求めて、温暖な地に移動します。インドやパキスタン、中東、北東アフリカに渡って行くのですが、あのヒマラヤの8000m級の高さを飛ぶ様子は、驚きです。聖書にも、鶴が登場しています。

『燕や鶴のように私は泣き、鳩のようにうめきました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。(新改訳聖書 イザヤ38章14節)」

 人は、自分の現実に生活に中で、泣いたり呻いたりします。それは、燕や鶴や鳩の様だと、預言者は言っているのでしょうか。

『空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も自分の帰る時を守る。しかし、わが民はの定めを知らない。(エレミヤ8章7節)』

 アネハヅルは、故郷回帰の時も、また冬がやって来る前に、餌のある地を求めて渡る時期を知っているのです。動物は、生きて子孫を残すと言った使命を、本能的に知っているのです。とくにアネハヅルは、世界中に15種類ほどいる鶴の中で一番小さく、体長は90cm、体重は2~3kg、翼開長は150~170cmの体格を持っている様です。生後3ヶ月になる、秋には親鳥と一緒に、インド行などの2000kmも0の遠距離距離を、さらにアフリカにまで行くのだそうです。8000〜9000mもの高いヒマラヤ連峰を越えるのです。


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 神さまは、生き物のえ種類に従って、生き延びるための「本能」を与えておいでです。1ヶ月で成鳥となり、3ヶ月ほどすると、渡りの群れに加わるのです。その寿命は、20〜25年ほどで、それだけの年月の間、渡りを繰り返すのです。帰巣本能は、創造主が与えられていて、帰るべき地に帰って行く時を心得ているのです。

 昨日、まだ巴波川に鴨たちが餌を認めて川面を泳いで、鯉と餌取りの争いをしている鴨の様子が見られましたが、もう残っている数は少なくなっていて、多くがすでに、シベリヤに帰っているのです。間もなく、残りも北帰行していくのでしょう。鴨の一生は、5〜10年ほどだそうですが、この群れも来ては帰るを毎年繰り返すわけです。一ヶ所に定着したと思うと、引っ越して行く私も、何か、「渡り鳥」に似ているのではないかと思うことがあります

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。(新改訳聖書 黙示録21章1~6節)』

 人は、天、神の御元から下って来る、「新しい天」と「新しい地」に、永遠に住むことができるのです。としますと、天国に行くと言う表現よりも、実際には、やって来る「神の国」、永遠の御住まいに、死んでいた者は蘇って生き、生き残った者たちと共に生き続けるのです。悲しみの涙はぬぐわれ、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもなく永遠を、父、子、聖霊の神さまと共に過ごすのです。

 アネハヅルの翼を、茨木のり子は、「純白のハンカチ」でもあるかの様に詠み、上昇気流に自らの体を任せて、「無垢ないのち」の躍動を思ったのでしょう。生きるために、天空を舞い上がって、ヒマラヤの頂を越えて行くのです。そんな風に表現をしたのです。あんなに小さな体で、あの高度まで昇るほどに、神秘なことはありません。いのちの付与者が、その習性を与えられたからなのです。希薄な酸素、空気圧、マイナスの気温を考えるに、耐性を備えられた神の傑作に違いありません。

 それよりも、神に似せられて造られた私たち人は、神の最高傑作なのです。帰って行く「天の故郷」への想いを持って、多くの愛兄姉が、この馳せ場の地上を、定められた年月生きているのです。巴波川の鴨を見て、そんな思いにさせられております。

(ウイキペディアの「アネハヅル」」、「シベリヤ」、「ヒマラヤ」です)

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力と富と勢いと誉と賛美を受けるに

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 関西漫才で、圧倒的な人気を得ていたのが、横山やすしでした。確かに、問題児でしたし、漫才の稽古も好きではなかったのです。ところが相方の西川きよしの忍耐強いpartnershippで、稽古に引っ張り出したのだそうです。

 アドリブなのか、むちゃくちゃに勝手に、調子に乗って喋くっていた様に見えたのですが、あれだけの人気を得た芸のためには、忍耐強い稽古があったからでした。何と一つの演目のためには、40回も重ねた稽古があったと、西川きよしが言っていました。あの二人の芸は稽古の賜物だったのです。

 私は、キリストの教会の責任を、宣教師さんから受け継いで、牧会という奉仕をさせて頂き、主に日曜日ごとの礼拝の中で、説教者として長く生きてきました。週日には、聖書研究会もあったでしょうか。特に日曜日に、来る一週一週ごとに、説教壇に立つという奉仕は、けっこうきついものでした。

 宗教改革以降、教会の礼拝では、祈りと讃美と献金と、そして説教がなされてきていました。ジュネーブの宗教改革者のジャン・カルバンは、礼拝の中で、「主の日」と言われた日曜日ごとに、それを実行し、聖書を、章ごとに講じる「講解説教」をしたのです。会衆は、それを神のことばとして聞きました。

 日曜日の説教作りで、朝になっても作り上げられないままのことが、たまにありました。そのまま説教壇に立ったこともありました。構想や思想がわかず、筋道をつけての準備も、説教のまとめもできないのです。一週間のサイクルで、新しい説教を、聖書をテキストにして作るのですが、それは簡単ではありませんでした。

 『今日の説教を聞いて、死のうと思ってやって来ました!』と、死の覚悟をして来られる方もおいでなのです。だったら、命懸けで、説教の準備をしなければならないからです。笑いをとろうとして説教を作っていましたら、家内に注意されたことがありました。笑わせるのが説教ではなく、「いのちのことば」を、彼女は宣教師から聞き続けてきたからでした。

 神の言葉、思想、想いを、そして命に預かるために、愛兄姉がおいでなのです。説教の巧者と評され、聞き手を話しに引き込むことに長けていたスポルジョンは、バプテスト派のロンドンにあったタバナクル教会の牧師さんでした。

 このスポルジョンが、説教を終えて、教会のドアーを出て、家に帰ろうとしていた時、前を歩いていた二人の兄弟が、『今日のスポルジョン牧師の説教は良かった!』と言うのを耳にしたのです。それでスポルジョンさんは、踵を返して教会の建物に戻って、祈ったのだそうです。

 『今日の説教で、あなたではなく、自分を印象付けてしまったようで、本当にごめんなさい!』と、悔いて謝ったのだそうです。『あなたの説教は、つまらない。お隣の街の牧師の様に、上手に話されてはどうででょうか!』と臆面もなく言って、教会をさって行ったしまいがいたことを、ある牧師さんにが言っておいででした。

 とても感動して読んだ本があって、その著者を訪ねたことがありました。自分の説教をカセットテープに録音したのを持参して、牧会相談に上がったのです。その方は、独学で聖書を学んだ方でした。こう言われたのです。

 『上手な説教をされたのは、救世軍の山室軍平でした。この方は、同じ説教を繰り返されたのです。ところが聞くたびに違っていて、いつも会衆に、新しい主への感動を与えていたのです。』と。

 スポルジョンも山室軍平も、その牧師さんも、みことばに啓示されている、イエスさまを、難しくなく、簡明に話して、愛兄姉を養ったのです。良い牧者が、きれいな水と栄養豊富な牧草に導く様にしてでした。見本は、イエスさまだったのではないでしょうか。神学や教理ではなく、「いのち」を語ったのです。あの若い日に訪ねた牧師さんへの私の弟子願望は、返事を頂けないままで終わりました。

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『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。(新改訳聖書 ホセア6章3節)』

 イエスさまが、どなたかを知ることこそが、儀式偏重から、宗教改革者が回復した「説教」だったのです。「賛美」も、みことばを歌うことも、回復されて、今に至っています。私を導いてくださった宣教師さんの愛唱コーラスは、

  ほふ(屠)られた子羊(こそ)は 力と富と知恵と勢いと 誉と栄光と賛美とを受けるにふさわしい(お)方です 🎶

と、「ヨハネの黙示録5章12節」に、ご自分でメロディをつけて、祈り会にも聖書勉強会の時も、礼拝にも、よく賛美して、主イエスさまを褒め称えておいででした。今、それを思い出して、時々口ずさんで、私は賛美するのです。良き賛美を受けるのふさわしいお方が、イエスさまだからです。

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『賛歌。新しい歌をに歌え。 主は 奇しいみわざを行われた。 主の右の御手 聖なる御腕が 主に勝利をもたらしたのだ。(詩篇98篇1節)』

 ある方に紹介された牧会者に、ドイツのシュバーベン地方(メットリンゲン)で牧会をした父ブルームハルトがいました。一人の教会の姉妹であるゴットリービン・ディトウスが、霊的な束縛を受けていて悲惨な状態でした。そんな彼女に働く悪霊との対決を、村の村長さんや教会の長老さんたちと決心します。その霊的戦いの終盤に、天から与えられた詩に、当時はやっていたメロディーを加えて、賛美したのです。

🎶 イエスは勝利の王である、

イエスはすべての敵を征服した。

全世界はやがて、圧倒的な愛により

イエスの足下にひざまずく。

イエスは我らを御力をもって導き、

暗闇から輝かしい光へともたらす。♬

 この賛美で、霊的な自由を与えられた、その教会の姉妹だったゴットリーベンが別な所で、同じ歌詞とメロディで賛美していたのです。父ブルームハルトの働きを継承し、バート・ボルの教会で牧会した、子クリストフ・ブルームハルトも、この「天来の勝利者の賛美」を歌い続けたのです。

 ヤスキヨコンビの40回の漫才の稽古のあったことに驚かされました。一回の説教を、40回も繰り返してから、説教壇に上がったことは、私にはありませんでした。次に、説教する機会が与えられたら、それほどの真剣さ、必死さでしたいと思うのです。ある説教者は、全く準備をしないで、講壇に立つのだそうです。立ったら、聖霊なる神さまが、話すべき内容を、啓示してくださるからなのだそうです。

 でも、そういった説教は、稀なことなのです。この方は、同じことしか、同じ思想しか話しませんでした。やはり周到な準備をして立つのが好いのです。そういった姿勢に、会衆は応答し、教会の主は喜ばれることでしょう。

 けっきょく自己満足ではいけないからです。主は、自在に話されたのです。深い祈りや黙想、いえ父なる神との交わりがあって、御父から与えられたことば、御父のみ思いを、イエスさまは語られたのです。いのちの付与者としてでした。それで、聞いた人はいのちを得たのです。

(ウイキペディアの「ドイツのシュバーベン地方」、「バート・ボルのクア・ハウス」、「Christian clip artsのイエスさま」です)

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牢の中で起こったことが

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 東京都内の有名私立の高校を出た、作家の阿部譲治が、実体験をもとに書いた本、「塀の中の懲りない面々」が何度か映画化やテレビ化されています。その刑務所の内部を、まだ知らない私は、本は読みませんでしたが、興味深く、テレビ版を見たことがありました。

 塀の中とは、「府中刑務所」のことで、関東では最大規模、最大収容人数の刑務所なのだそうです。江戸時代、寛政2年(1790年)2月に、時の老中松平定信が、墨田川河口の石川島に、「人足寄場」を設けたのだそうです。そこが母体で、大正末期の大正13年(1924年)に、都下の府中市に移転、昭和10年(1935年)6月に、府中に刑務所を開所しています。

 収容の定員は、2668名で、2024年3月末現在、日本人受刑者1190名と外国人受刑者350名を収容しているそうです。外国人が多くて、中国やベトナムやメキシコを国籍としている収容者が多くいます。

 高校の頃の冬場、この時期に、「府中刑務所」をひたすらに三周する、運動部の練習をしていました。オフシーズンで、試合もない、ただ一途に走り込んだり、うさぎ跳びをやったり、単調な練習に日々を送っていました。電信柱から電信柱を、ダッシュと流しを繰り替えすロードもさせられました。

 一番つまらなかったのが、その塀の周りを三周ほどする走りでした。薄汚れた灰色の高い塀の周りをただ走るだけでした。『何時か、このムショの中に、自分の生涯で入ることがあるだろうか?』などとぼんやりと思いながら走っていました。いつも時計の反対周りをするのです。早く三周が終わるのを待ちながらです。

 その時の思いが、ある時、実現したのです。もう何年前になるでしょうか、私たちの住んでいた華南の街から南に行った海岸部の街から、五十代のご夫婦が、わが家を訪ねて来ました。私たちが、ビサの更新で帰国する時期の前だったのです。その時期に合わせての訪問でした。

 どなたかに、私たちの帰国のことを聞いたからでした。この夫妻の息子さんが、日本に密入国をし、窃盗罪を犯して懲役刑になり、服役しているのだと言われたのです。あの冬場に、「府中刑務所」の外を走りながら思ったことが、そんな形で実現しそうになったのです。『持病があるので、息子の様子を見てきて欲しいのですが?』とのことでした。

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 帰国した私は、川向こうに、母の面倒を見ている下の兄が住んでいて、次兄の家を訪ね、兄の自転車でこの刑務所を訪ねたのです。受刑者としてではなく、訪問者として足を踏み入れたわけです。色彩のない、ビラが掲示板に貼ってある、無機質な感じの刑務所の事務室を訪ねたのです。服役囚とは別の門があって、そこから入ったのです。

 面会したい旨を申し出ましたら、刑務官がしばらく検討されたようでしたが、結局、親族以外の面会はできないとのことで、預かってきたご両親の写真とメモを、刑務官に託して辞したのです。その人が、いつ出所したかは確かめませんでし、このご両親も、会えなかった旨を話しただけで、そのままになってしまいました。

 それで、どんな収容生活をしていたかを、その「懲りない面々」の生活ぶりを、テレビ番組で知ったのです。作者の安倍譲治のムショ体験からの映画でしたから、おおむねは、テレビ番組通りだったのでしょう。

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 2000年も前の監獄での出来事が、聖書の「使徒行伝」の中に記されています。マケドニヤのピリピの町を訪ねた、異邦人伝道に召されたパウロは、この町で伝道をしたのです。その時、占いの霊につかれた女奴隷と出会います。パウロたちの跡をついて来て、

『彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。(新改訳聖書 使徒16章17-19節)』

    パウロとシラスは、この女奴隷の雇人から訴えられて、鞭打たれて、牢に入れられてしまいます。なんと、パウロたちは牢の中で、賛美したのです。マケドニア最大の町の牢の中で、不自由な囚われの身を呪うのでもなく、喜びにあふれて、主をほめたたえたのです。

 真夜中に、賛美をしましたら、パウロたち囚人たちを繋いでいた鎖が解け、牢の扉が空いてしまったのです。自害しようとする牢番に、

『そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。(28節)』

のです。どうしたらいいのか戸惑っている牢番に、パウロは、

『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(30-31節)』

のです。ピリピの牢番は、牢から出されたパウロたちを引き取り、鞭打ちで負った傷の手当てをした後、その家族はバプテスマを受けて、救われたのです。

 一人の牢番の救いが、家族の救いとなった出来事が、このピリピの町で起こり、それ以降、世界中の街街で、「家族の救い」が成就するのです。「孤独な牢」の中にいたように感じていた一人っ子の母が、山陰の町で、14歳で救われ、やがて、夫も子たちも、そして孫たちも、キリストの救いを受けたのです。これが、私の家族の救いであります。

(Christian clip artsの「獄中賛美」、府中刑務所の航空写真、ピリピの町の遺構です)

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