東京都内の有名私立の高校を出た、作家の阿部譲治が、実体験をもとに書いた本、「塀の中の懲りない面々」が何度か映画化やテレビ化されています。その刑務所の内部を、まだ知らない私は、本は読みませんでしたが、興味深く、テレビ版を見たことがありました。
塀の中とは、「府中刑務所」のことで、関東では最大規模、最大収容人数の刑務所なのだそうです。江戸時代、寛政2年(1790年)2月に、時の老中松平定信が、墨田川河口の石川島に、「人足寄場」を設けたのだそうです。そこが母体で、大正末期の大正13年(1924年)に、都下の府中市に移転、昭和10年(1935年)6月に、府中に刑務所を開所しています。
収容の定員は、2668名で、2024年3月末現在、日本人受刑者1190名と外国人受刑者350名を収容しているそうです。外国人が多くて、中国やベトナムやメキシコを国籍としている収容者が多くいます。
高校の頃の冬場、この時期に、「府中刑務所」をひたすらに三周する、運動部の練習をしていました。オフシーズンで、試合もない、ただ一途に走り込んだり、うさぎ跳びをやったり、単調な練習に日々を送っていました。電信柱から電信柱を、ダッシュと流しを繰り替えすロードもさせられました。
一番つまらなかったのが、その塀の周りを三周ほどする走りでした。薄汚れた灰色の高い塀の周りをただ走るだけでした。『何時か、このムショの中に、自分の生涯で入ることがあるだろうか?』などとぼんやりと思いながら走っていました。いつも時計の反対周りをするのです。早く三周が終わるのを待ちながらです。
その時の思いが、ある時、実現したのです。もう何年前になるでしょうか、私たちの住んでいた華南の街から南に行った海岸部の街から、五十代のご夫婦が、わが家を訪ねて来ました。私たちが、ビサの更新で帰国する時期の前だったのです。その時期に合わせての訪問でした。
どなたかに、私たちの帰国のことを聞いたからでした。この夫妻の息子さんが、日本に密入国をし、窃盗罪を犯して懲役刑になり、服役しているのだと言われたのです。あの冬場に、「府中刑務所」の外を走りながら思ったことが、そんな形で実現しそうになったのです。『持病があるので、息子の様子を見てきて欲しいのですが?』とのことでした。
帰国した私は、川向こうに、母の面倒を見ている下の兄が住んでいて、次兄の家を訪ね、兄の自転車でこの刑務所を訪ねたのです。受刑者としてではなく、訪問者として足を踏み入れたわけです。色彩のない、ビラが掲示板に貼ってある、無機質な感じの刑務所の事務室を訪ねたのです。服役囚とは別の門があって、そこから入ったのです。
面会したい旨を申し出ましたら、刑務官がしばらく検討されたようでしたが、結局、親族以外の面会はできないとのことで、預かってきたご両親の写真とメモを、刑務官に託して辞したのです。その人が、いつ出所したかは確かめませんでし、このご両親も、会えなかった旨を話しただけで、そのままになってしまいました。
それで、どんな収容生活をしていたかを、その「懲りない面々」の生活ぶりを、テレビ番組で知ったのです。作者の安倍譲治のムショ体験からの映画でしたから、おおむねは、テレビ番組通りだったのでしょう。
2000年も前の監獄での出来事が、聖書の「使徒行伝」の中に記されています。マケドニヤのピリピの町を訪ねた、異邦人伝道に召されたパウロは、この町で伝道をしたのです。その時、占いの霊につかれた女奴隷と出会います。パウロたちの跡をついて来て、
『彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。(新改訳聖書 使徒16章17-19節)』
パウロとシラスは、この女奴隷の雇人から訴えられて、鞭打たれて、牢に入れられてしまいます。なんと、パウロたちは牢の中で、賛美したのです。マケドニア最大の町の牢の中で、不自由な囚われの身を呪うのでもなく、喜びにあふれて、主をほめたたえたのです。
真夜中に、賛美をしましたら、パウロたち囚人たちを繋いでいた鎖が解け、牢の扉が空いてしまったのです。自害しようとする牢番に、
『そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。(28節)』
のです。どうしたらいいのか戸惑っている牢番に、パウロは、
『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(30-31節)』
のです。ピリピの牢番は、牢から出されたパウロたちを引き取り、鞭打ちで負った傷の手当てをした後、その家族はバプテスマを受けて、救われたのです。
一人の牢番の救いが、家族の救いとなった出来事が、このピリピの町で起こり、それ以降、世界中の街街で、「家族の救い」が成就するのです。「孤独な牢」の中にいたように感じていた一人っ子の母が、山陰の町で、14歳で救われ、やがて、夫も子たちも、そして孫たちも、キリストの救いを受けたのです。これが、私の家族の救いであります。
(Christian clip artsの「獄中賛美」、府中刑務所の航空写真、ピリピの町の遺構です)
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