わたしを呼べ、そうすれば

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 父の仕事仲間が、流行りつつあった Golf の事業を新規に始めたとかで、十代の終わりの頃だった自分のために、「ゴルフセット」を手形とか、体重と身長、スポーツ歴などを科学的にデーターをとって作ってくれたのです。兄たちは仕事のために家を出ていた頃でしたから、三男の私のために注文してくれた父でした。それをかついで、家の近くの多摩川の河原に出かけて行って、スイングの練習をしたのです。

 練習場だって、どこにでもない時代でしたから、正式にトレーニングするには、お金が必要だったのですが、父に練習代をくれとは言えないで、そのままになってしまいました。いつのまにか、すぐ上の兄が担いで持っていってしまい、それっきりになってしまったのです。

[ダビデの賛歌(祈り)]

『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(新改訳聖書 詩篇23篇)』

 ゴルフは、起源に諸説あるのですが、『韓民族が始まりです!』と言う、桜にしろ、起源への拘りで有名な朝鮮族は、『私たちの国が!』とは言っていない様で不思議ですが、アジアではなく、どうもスコットランドにあるのが、定説なのだそうです。

 なぜかと言いますと、そこは牧羊業が盛んな地で、牧夫の手には、羊を導く杖と、鞭とがあると、詩篇には記されていますから、昔から、ここスコットランドでも、野に羊を導く牧夫は、羊の首を抑えるクエッションマーク「?」の形状の杖とか鞭になる棒を、道具として使っていたのです。

 それで遊ぶこともあったのだそうで、牧羊地に転がっている手頃な石を、足で蹴らずに、棒や杖で打って、穴に入れる遊びをしていた様です。やがて、それがスポーツになっていき、今の様に、“ コンペ( competition )”  とか言って競技会が開かれています。

 莫大な額の賞金に驚かされてきましたが、このゴルフの”Masters “ と呼ばれる一大ゴルフ競大会の行われる、ゴルフ場のコースには、聞き覚えのある「アーメンー・コーナー (amen corner )」があるのだとか。つまり、クリスチャンは、祈りをした最後に、『主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン!』と言って、父でいらっしゃる神さまに祈り、最後に、『その通りです!」という意味で、『アーメン!』と締めくくります。

 つまり、この「11番ホール」あたりは、難易度がとても高く、祈りを必要とするほどにという意味で、そう名付けられたのです。祈らなければならないほどに、風向きや芝を読んだり、クラブを変えたりしなければならないほど、考え悩む困難な箇所なのだそうです。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33章3節)』

 これまでの自分の生きて来た道にも、難易度の高い難関な箇所がありました。家族や友人たちに祈ってもらい、自らも祈って、自分の信仰生活と普段の生活をして参りました。この祈りには、[聴かれる祈り]、[聴かれない祈り]、[待たなければならない祈り]があると言われています。それでも、祈りは、ただ人生上の困難な局面にあるからだけではありません。

 『くれ!』だけの祈りではなく、感謝な思いでする祈りもあるのです。つまり、この神さまは会話の相手となってくださるので、心を友人に開く様にして、神と会話をするのが、この「祈り」なのです。

 感謝なことに、そんな「祈り」を自分のものにして、今日まで生きてくることができました。ことのほか、病弱な私が健康を回復したり、オッチョコチョイの私が、よく怪我をして来たのですが、死なないで、ここまで生き延びられてきたのは、その「他者の祈り」があったればこそだと感謝するのです。

 私たちの4人の子どもたちは、小さい頃から、『お父さん、お母さん、祈って!』と言われて祈ったことが、よくありました。もう親元を離れた子どもたちから、「祈りの要請」が届くのです。自分が祈られて来たのだと感謝があるからでしょうか、夫や妻や、彼らのご両親のために、また子どもたちの必要に、私たちに、『祈って!』と言って来るのです。

 私たちの子どもたちは、実体験として「祈りの力」を認めているからなのでしょう。理解を超えている人生上に起こる、人の力を超えた現実、出来事の中に、神信頼があると言うのは、驚くほどの助けなのです。

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 1903年(明治36年)藤村操が、日光の華厳滝で自死したのですが、その「辞世の句」が残されています。

『巖頭之感 悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。』

 この人は、盛岡藩士の孫であったのですが、人生の不可解さに押しつぶされた青年として、社会を騒がせたのですが、16歳の第一高等学校の学生でした。同じ盛岡藩士の子に、新渡戸稲造がいました。藤村操の死の2年後に、新渡戸は一高の校長になっています。この青年に、いのちの付与者への「祈り」があったら、神への呼びかけがあったら、「アーメン」があったら、『死ね!』と迫った誘いを押しのけて、「不可解」を押しのけて、死なないで生きられたのではないかと思うこと仕切りなのです。

(Christian clip artsの「祈り」、ウイキペディアによる岩手県の県花の「霧の花」です)

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