日本の夜明けの一幕が

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 横浜に、「関内」という呼ばれる地域があります。町名ではなく、地域名で、横浜の中心地であり、JR根岸線や市営地下鉄の駅名にもなっています。日米友好通商条約が結ばれて、横浜が開港した時に、開港場の周辺をそう呼んだのです。

 日本の幕末史の中で学んだ、大名行列の前を横切ったイギリス人を、日本の武士が無礼打ちした「生麦事件」以降、外国人は危険にさらされていました。商人や外交官たちに他に、宣教師たちがいたのです。時代は、まだキリシタン禁制の中でした。勤王攘夷を掲げる志士たちの動きを幕府は取り締まるために、外人居留地への通行を取り締まり始めたのです。そんな危険地域に、「関門」が設けられ、行動を規制していたのです。それで「関内」と呼ばれたわけです。

 幕府の厳しい監視があり、米価の変動も、令和の世と同じで、一年一年と高騰していくほど、物価が高く、生活は困難な時でした。1859年の秋に、横浜の港から上陸しのが、アメリカ人宣教師(医師)のジェームス・ヘボンとクララ夫人でした。宣教の一環として、おもに眼科治療の施療所を開所し、治療を始めたのです。このヘボンは、ヘボン式のローマ字を作り、和英辞書を作成し、聖書を翻訳し、学校を始めています。

 そのキリシタン禁制のまだ続く幕末に、若者たちに福音を伝えたのです。英語を学ぶ若者たちが、創造の神とキリストを信じることを願って伝道をしたのです。ヘボンの行動を内偵し、不穏の行動をとるなら切り殺そうと使用人に扮した武士が、ヘボンの住んだ成仏寺に住み込み始めます。しかし、そのヘボンの人格の高さから、暇乞いをして去って行ったほどでした。

 そんな動乱の中、9人の学生が、奉行所の役人と共に、ヘボンのもとにやって来て、英語の他に、数学と化学とを学びたいと申し出ます。その中には、長崎で、シーボルト医学を学んだ、長州人の医者の大村益次郎がいました。兵学者でしたが、明治維新政府でも軍事畑で、近代兵学で力を発揮するのを期待されたのですが、維新政府誕生の翌年、没しています。

 ソニー創業者の井深大の親族である、会津藩士の井深梶之助も、ヘボンに学び、明治学院の2代目総理に就任しています。下総佐倉藩の藩医の子の林董(はやしただす)は、「ヘボン塾」の最初の生徒であり、後に留学生として英国で学んでいます。明治維新政府の英国大使、外務大臣、逓信(ていしん)大臣を務めています。この林董は、ヘボン夫人クララから母親のように愛情に満ちた英語教育をうけた恩を忘れずに、後年になっても「学歴」の項には「ヘボン塾出身」と書いていたそうです。


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 また、総理大臣・大蔵大臣を務めた仙台藩の足軽の子の高橋是清、三井物産の創始者である益田孝、日本最初の医学博士となった三宅秀など、明治期に活躍した人材が多くいて、ヘボンらの感化を受けています。

 彼らを教えた英語テキストには、宣教師としても第一の来日目的を果たすために、ヘボンが選んだのは、「航海者(ボーデイッチ著)」だったのです。キリスト教の真理が、そこには多く記されていて、多くの学生が聖書に興味を持ち始めていたそうです。漢訳聖書も英訳聖書も、学生たちの中には、すでに持っている者もいたそうです。

 ヘボンのもとにやって来た学生たちは、『主なる神さまが、彼らにその願いを入れられたからだ!』と確信していたそうです。でも、彼らは、出身の藩に呼び戻されて、一人去り、二人去りして、「ヘボン塾」は閉鎖されてしまいます。それに屈しないヘボンは、なおも、難しい状況下で宣教を続けていきたいます。

 ヘボンと妻クララは、3人の子どもたちを病気で亡くしていますが、長男も祖父母にではなく、知人に預けて、キリストを宣べ伝える働きをし始めたのです。殺伐とした幕末の世情、動乱の日本での人間的には困難極まりない中を、宣教を続けたのです。聖書翻訳にも尽力しています。それらが、主なる神さまの御心であり、そう導かれたという確信で、宣教の業を多岐にわたって推し進めたのです。

 日本宣教のために献身した宣教師の働きがあって、日本の近代化の一つの礎石が置かれたことになります。ヘボン夫妻、そして彼らのもとにやって来た同じ宣教師のみなさんは、初期には、仏像の安置されている成仏寺でも、礼拝を守ったのです、同じ様に、神さまに遣わされた宣教師たちが、戦後にやって来られました。

 母は、カナダ人宣教師に導かれて信仰を持ち、私たち兄弟も、亡くなる直前の父も、宣教師さんたちの働きの中で、キリスト者とされたのです。その宣教の働きによって、キリスト信仰を持つにいたり、いくつもの教会が、建設されていきます。子どもたちも孫たちも、同じ信仰を継承してきているのです。
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 81歳になった高橋是清は、青年将校たちが昭和維新を掲げて暴挙に走った「二・二六事件」の青年将校たちによって、自宅で暗殺されています。軍の台頭と、軍による大陸進出の前夜に起きた、さまざまな動きのあった1936年のことでした。ますます軍国主義化していき、教会への弾圧が増し加わりく、結局は敗戦を迎えます。戦後、多くの宣教師が欧米諸国から来られて、福音宣教が再び行われていくのです。

 日本の夜明けに、福音の光を輝かせた宣教師のみなさんの多くの犠牲とたゆまない奉仕によって、日本が近代化し、民主化していったことになります。日本最初のキリスト教会は、横浜の地に建て上げられていきました。みなさんの祈りが積まれて、その実を実らせたのです。そしてヘボンこそが、聖書翻訳を通して、日本語を作り直した人でもあったことを忘れてはないらないのです。そして、戦後の混乱した日本に、再び灯火が点されたのでもあります。

(ウイキペディアのヘボン夫妻たちの集合写真、日本最初の横浜の教会、ヘボン夫妻の住んだ成仏寺です)

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