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山本周五郎に、「日本婦道記」という時代小説があります。厳しい規則や掟が、「武家社会」には定められていた様です。男には「武士道」があり、婦人には「婦道」があり、厳格に「家」を守る勤めが、婦人にはありました。夫のため、子のため、「家」のために生き抜いた日本婦人は、強く凜とし、忍耐強く生きていた様子を、感動的に記した作品が多いのです。
母は、炊事洗濯など家事一切を、黙々とこなしてくれていました。編み物をし、和服の仕立てなおし、繕いなどをしている姿も覚えています。母は、山陰の出雲が故郷でしたから、関西圏に近いので、関西風の味の中で育っていて、養母から、細かく学んだのでしょう。結婚し、子が与えられ、育てていく中で、父の味で料理をし、関東風の味付けをしてくれました。
子育ての間、お雑煮も蕎麦も関東風でした。よく作ってくれたのが、すき焼き、トンカツ、ハンバーグ、硬焼きそば、焼き魚、酢豚、ライス・カレーなどでした。食欲の旺盛な私たち4人の子に、喜んで食べさせてくれたのです。自分は、もらいっ子で、兄弟がいなかったからでしょうか、いつも甲斐甲斐しく、嬉しそうに家事をしていました。
子どもたちを送り出すと、時々、新宿に電車で出て、都会の空気を吸っていたのだと、後年言っていました。どこかでお昼を摂って、買い物をして帰宅した様です。婦道だけの江戸時代とは違って、戦後の民主化、婦人の地位の向上の中、息抜きも必要だったのでしょう。
そんな母が、狭い庭に、父の和装を解(ほど)いて、反物の幅と長さに布を、一尺ほどの幅に、竹で作られた、両方に針を埋め込んだもので、張りながら、長く干していました。洗い終えた布を庭いっぱいに広げて、干し上げては、それを縫い直していたのです。その張り棒を、手作りの弓で、的を射て遊んだことがありました。
父が亡くなった後に、父の着物を、私の体に合うように、母が縫い直してくれたことがありました。次女が、祖母の出席を望んだので、母と次男と私たちで、オレゴンの街で持たれた結婚式に列席したのです。その時、母と家内と私は、荷物になりましたが、着物を持参したのです。
泊めていただいた婿殿の家で着付けしてくれました。その着物に羽織袴で列席させてもらいました。アメリカで、みなさんは、私たちの和装を初めて見て、喜んでくれたのです。若い頃に、父が誂えた「大島」という生地の和服でした。母が、驚き喜んでいた旅だったのです。
『ふたり(パウロとシラス)は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(新改訳聖書 使徒16章31節)』
そればかりではありませんでした。母は、日曜日になると教会の礼拝に、忠実に出席していました。14歳でキリスト者となった母は、聖書を読み、祈り、証しをし、聖書研究に出席し、祈り会に加わり、礼拝を守る、信仰生活を忠実にしていたのです。父の仕事の関係で、山の奥に住んでいた頃には、街から牧師さんがやって来られ、家で集会をしていた時期もありました。
母はカナダ人宣教師の家族の暖かさに憧れて、十代の初めに教会に行きながら、信仰を持ち、生涯に亘って、キリスト信仰を全うしたのです。東京に出てきてからは、伝統的な教会に導かれていまして、私たち子ども4人を引き連れて行ってくれたのです。ところが牧師館に、子どもさんの位牌が置かれていて、そこに線香が点されていたのを見て、その教会を母は去りました。
宣教師さんに、子どもの頃から、聖書を学んでいたからでしょうか、何か違ったものを、その教会で感じたのでしょうか、その後は、隣町の婦人の宣教師さんの教会に導かれれていたのです。そこにも連れて行ってもらったことがあり、宣教師宅にもお邪魔したこともありました。
ところが、住み始めた街の路上で、一人のご婦人と行きあった時、互いを引き合わすものがあったのでしょうか、互いがキリスト者だと知って打ち解けたのだそうです。そして、その街に駅近くに教会があって、そこにはアメリカ人宣教師さん夫妻が牧師の教会に誘われ、母は参加するようになったのです。その母が会った婦人が、家内の母親だったのです。
しっかりと家族への食事の用意をし、洗い物をして、日曜礼拝や終日に集会に、母は出掛けて行っていたのです。父は、その母の信仰、教会生活を認めていました。家事万端をし終えていたこともあり、幼い頃からの信仰を、高く評価していたのです。その母の祈り、生活、生き方を通して、やがて私たち4人の子が、そして父も、母の信仰を受け継ぐのです。
そればかりではなく、近所の方を信仰へと、母は導いてもいました。母は週刊誌を読んだりしませんでしたが、だからと言って、信仰一辺倒な、宗教的変人でもなかったのです。一緒にテレビを見ては、笑ったり泣いたり、豊かな感情を表していたのです。確かに神がいて、母を支え、生かしているのが分かったのです。だからでしょうか、やがて母と同じ信仰者とされたのです。
その母の教会の宣教師さんの後の牧師に、私の上の兄がなったのです。母は、それを喜んでいて、父も、『俺この腰から出た子が、聖職に就くのか!』と驚いたのを、母に語ったのだそうです。父の祖父に連れられて、横須賀の町の教会に、子どもの頃に行っていたことがあったのです。
そんな父や母を、今、感謝と共に誇るのです。そして、子どもたちが、孫たちが、三代四代に亘って、キリスト信仰を継承しているのです。一人の父(てて)無し子が、本当の創造主である父なる神に見出され、一緒を送り、天に凱旋した母だからであります。
恵まれない星のもとに生まれ、孤独を覚えていた母、真っ黒になるほど遊んでいたお転婆だった母が、仏教と神道との盛んな山陰で育ち、14歳で頂いた信仰で、95年の生涯を送りました。その信仰が継承されているのです。それは実に喜ばしいことに違いありません。まさに「キリスト者婦道記」の母バージョンであります。
(ウイキペディアの出雲の日御碕、カナダ産のメープルシロップです)
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