矛盾ではなく事実として

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 文化勲章を受賞した堀辰雄が、「エマオの旅びと」と言う作品を残しています。次の様な短文です。

 「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」これは芥川さんの絶筆「續西方の人」の最後の言葉である。「我らと共に留れ、時夕に及びて日も早や暮れんとす。」

さうクリストとは知らずにクリストに呼びかけたエマオの旅びとたちの言葉はいまもなほ私たちの心をふしぎに動かす。私たちもいつか生涯の夕べに、自分の道づれの一人が自分の切に求めてゐたものとはつい知らずに過ごしてゐるやうなことがあらう。彼が去つてから、はじめてそれに氣がつき、それまで何氣なく聞いてゐた彼の一言一言が私たちの心を燃え上らせる。

 いま、「西方の人」の言葉の一つ一つが私の心に迫るのも丁度それに似てゐる。例へば「クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも關らず彼自身を理解出來なかつたことである。」――これまで私たちは芥川さんくらゐ自分自身を理解し、あらゆる他の人間の心を通して自分自身をしか語らなかつたものはないやうに考へがちであつた。

 しかし、いまの私にはそれと反對のことしか考へられない。芥川さんもやはり自分を除いた我々人間を理解してゐたばかりである。我々に自分自身が分かるやうな氣のしてゐたのは近代の迷妄の一つに過ぎない。」

 あの中学校時代の国語の教科書に載せられてあった、「杜子春」を書いた芥川龍之介を敬慕していたのが、この堀辰雄でした。芥川の最晩年の作品が、「西方の人」、「続西方の人」で、そこに取り上げられていたのが、エマオへの道を行く、イエスの弟子たちとのやり取りの記事なのです。

 十字架で、贖いの死を遂げたイエスが、蘇られて、エルサレムから11kmほどのエマオへの道を行く、二人の弟子たちに顕われ様子が、聖書(ルカの福音書24章)の中に記されてあります。旧約聖書にも預言されています。

 まさかイエスだと気づくことのなかった弟子のふたりが会話をしているのです。前代未聞の「復活」は、旧約聖書に預言されていました。人が生き返ることほど、それを受け入れるのが難しいことはありません。

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 キリストの教会は、そのキリストが蘇られた「復活」の上に建てられたのです。墓と死とを打ち破って、マリヤや弟子たちに現れたのがイエスさまでした。その目撃者として「ekklēsia エクレシア」として教会を形作った群れが誕生したのです。

 イエスを見捨て、逃げてしまった12人の弟子たちが、キリストの教会の「首石(かしらいし)」となったのです。もうイエスさまを否むことはなくなりました。生涯をかけて、信仰を持ち続けたのです。イエスさまの母マリアも、マグダラのマリヤも、それを信じ、キリストの教会の一員とされています。

 そして21世紀に生きる私も、そう信じて、“ The  Church ” と言われる、時間と地理的な違いを超えて、形成されている「教会」に加えられているのです。お隣の国にいました時にも、たくさんの信仰者のみなさんにお会いし、いっしょに賛美をし、聖書を読み、説教を聞き、聖餐に預かりました。このみなさんも、その構成者なのです。

 この救い主でいらっしゃるイエスさまを、もっと知りたくて、みなさんは礼拝に集います。讃美し、礼拝し、人々に宣べ伝えるために生きるのです。すでに召されたみなさんと、あい見(まみ)える日がくると信じている今です。そして、「復活のキリスト」であるイエスさまにお会いできるのです。

 遠い「西方の人」は、私の内にいますお方でいらっしゃいます。「矛盾」ではなくて、「事実」として信じることができているのです。「迷妄」ではなく、「確信」して生きることでしょうか。このイエスさまは、私たちを迎えに来ようとされておいでなのです。「マラナタ」、主よ来てください。

(Christian clip artsによるイラストです)

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