春まだき流れの漣に思う

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IMG_3292(巴波川の瀬音です) 

 この写真は、まだ淡き春の巴波川の漣です。今朝方、氷点下の気温の中、冷たい雨が降り止んでいましたが、大平山が白くなっていましたから、夜間には雪だったのでしょうか。

 これは、昼近くなった我が家のベランダから撮った写真です。春の陽光を波が輝かしているのです。この街の北の湧き水を集めて、数えきれないほどの時を、恩恵に預かった人々と関わり合いながら、綺麗な川の流れがあって、その川のl水は、太平洋に届き続けてきました。

 この流れの上流、私の散歩する、巴波川の流れで、起こりかねない洪水を防ぐために、地下に、逃げ水を送る水路の工事を敷設する工事が始まっています。工事責任者が、私に行く道を横切っておいででしたので、こちらから話し掛けて、お聞きしたお話で知りました。

 想像を絶する量の防雨が降ることを予測しながら、市が企画して、工事が始められています。この栃木県は、海のない内陸の県ですので、海が見られない分、河川の利用が、かつて盛んだったのです。この巴波川が流れ込む渡瀬川、日光連山から流れ下る鬼怒川、那須岳を原流にする那珂川などでは、どこも「舟運(しゅううん)」が行われてきていました。

 鬼怒川や那珂川の上流の山林には、和紙の原料になる楮(こうぞ)が刈り出され、樹皮を加工して和紙作りが行われてきたのです。とくに「烏山和紙(程村紙)」を産する那須烏山は、常陸国と上野国境に位置していて、かつては常陸国で、江戸期には水戸藩の領地だった様です。その和紙は水戸藩の貴重な財源だったそうです。

 仏教が、中国を経由して日本に伝わる様になって、その仏典の写経(しゃきょう)が行われてきて、そのための用紙として、この烏山周辺で作られた和紙が珍重された様です。奈良時代の760年に発信された文書の中に、「写経料紙を産出」と書かれていて、厚紙の高級紙が、中央に送られていたようです。

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 山深い、下野国と常陸国の間の村では、和紙の原料の楮の需要が増すに従って、植林がなされていった様です。また烏山の東側に、現代の常陸大宮市ですが、高部(たかべ)という村があって、そこで産出するから「高部和紙」も、同様に盛んに作られていったそうです。

 その和紙は、山を越えて、那珂川や鬼怒川の舟運を利用して運搬されていて、帰り舟で、他に物資の運送も、運ばれて来て、驚くほどに舟運が盛んになっていったのだそうです。

 きっと川辺の河岸までは、馬や牛の背に乗せて運んで、集積されて運び出されたのでしょう。鬼怒川は、陸奥(東北)の諸藩の年貢米の輸送のためにも利用されたのだそうです。宇都宮の北に、氏家という、奥州街道に宿場町だった町がありますが、その流れにある阿久津河岸も、舟運の集積地として栄えた様です。

 車や鉄道が誕生する以前、交通革命が起こるまでの長い期間、全国で、河川は輸送路として、大いに活用されていたのです。時々氾濫しますが、川の恩恵は大きかったのでしょう。静かに流れ下る川の流れを、朝な夕な眺めて、そう思うこと仕切です。

 我が家の窓下の巴波川に落ちる一滴の雨水が、運ばれて江戸湾や銚子あたりに到達するには、どれほどの時間がかかるのでしょうか。そんな研究もなされているのでしょうか。ですから、発泡スチロールで舟か筏を作って、川下りしてみたい様な誘惑に、いまだに誘われている私です。

(ウイキペデイアの栃木県下の河川の様子です)

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