撫子のように!

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 野辺見れば  なでしこの花 咲きにけり 我が待つ秋は 近づくらしも

 この和歌は、「万葉集」の中に納められていて、作者不詳ですが、秋の野辺を眺めていた時に、この「なでしこ」が、可憐に咲いていたのでしょうか。きっと作者は、暑い夏を過ごして、少しは[ホッ!]としたかったに違いありません。

 それで秋の到来を待ち望んでいたのですが、ふと目を野辺に向けると、なでしこが咲いているではありませんか。『あっ、もう秋は来ようとしているんだ!』と思わせられたのです。

 秋到来は、景観の美しさ、夏前に蒔いた種が実をつけ、やがて収穫の時がやってきます。柿が実り、たわわに葡萄もなり、何よりもお米が借り入れられる季節です。自然に恵まれ、今では、錦繍の秋、芸術の秋、読書の秋、食欲の秋、そして、スポーツの秋という言うのでしょうか。

 それ以上に、昨日は、これからが春本番なのですが、秋に咲き出す「なでしこ」にちなんで、チーム名を「なでしこJAPAN」にした、女子サッカーチームの活躍に驚かされました。アメリカ、オーストラリア、コロンビア、そして日本の参加4チームによる、〈シービリーブスカップ〉の対戦が、カルフォルニアのサンディエゴで開催されました。昨日は、その最終戦で、「なでしこJAPAN」が、アメリカチームと対戦し、2対1のスコアーで勝利したのです。

 女子がサッカーをするようなことのなかった時代、サッカー自身がまだメジャーなスポーツでなかった頃、いえスポーツ自身が、今ほど盛んではなかった時代があって、こんなにスポーツ全盛がやってくるとは思いもよりませんでした。

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 「なでしこ」は、可憐な花の代表の様ですが、昨日の試合を観戦しているかぎり、可憐どころか、実に果敢なのです。あんなに激しく接触するのにも驚かされます。「なでしこ」のキャプテンの熊谷紗希選手は、頭を負傷をし、試合が中断していました。フィールドから出て手当がなされ、終わるとバンテージを巻いて再びチームの試合に合流したのです。結局、2対1でアメリカに勝ち、優勝したのです。

 この「なでしこジャパン」の前の世代に、キャプテンを務めた、MF宮間あや選手がいました。小柄ながらも、ファイトに溢れた選手だったのです。所属先は温泉で、その従業員をしながら、サッカーの練習に励み、日本代表の優秀な選手だったのです。2012年に開催された、ロンドンオリンピックでは、決勝まで進み、アメリカとの対戦に敗れて、準優勝したのです。その折、彼女のスポーツマンシップが賞賛されてもいました。同時期に、FW大野忍選手もいました。

 今では、十代の若い選手が台頭してきますが、昨日の対アメリカ戦は、バックスの熊谷の他に、MF長谷川唯、FW田中美南、GK山下杏也加、前半戦、長谷川選手からのパスを、FW籾木結花の選手のシュートで最初の得点後半戦、更に後半、唯選手のシュートを拾ったDF古賀塔子選手のゴールで2点目を決めました。そして華やかな攻撃面に関わらないバックス、縁の下の力持ちでチームを支えて、優勝に貢献していました。やはり歴戦の勇者たちの活躍が目立っていました。とくに、長谷川唯選手のボールに食いつく様なプレーには、目を見張るものがあります。

 アメリカチームを愕然とさせる様なaggressiveな戦いをしていたのは圧巻でした。でも、アメリカの選手たちは、新人が多く、これからの選手たちですから、巧みな日本選手たちからの学びは大きかったようです。次回の戦いが楽しみです。それにしても日本女性は、強いなあ!

(ウイキペディアのなでしこ、いらあうとやのじょしサッカーです)

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だれも「私は病気だ」とは言わず

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 学校に行っていた頃には、私たち4人兄弟は、それぞれ運動部に所属して、走ったり、飛び跳ねたり、投げたり、捕ったりしていました。二人の兄も、下の弟も、そして自分も、野球好きの父の影響でしょうか、スポーツに励んでいたのです。

 それほど若さを謳歌し、輝いていたのです。ところが、もう80年も、みんな生きてきて、それが何か霞んで見えてきそうな今なのです。上の兄が、テレビで放映されるアメリカンフットボールの試合に出るというので、父はテレビジョンを買ったほどでした。下の兄の高校野球の東京都の予選試合が、確か神宮球場で行われた時、父は応援に出掛けたと思います。弟の時は、どうだったでしょうか。彼は、少林寺拳法やアイスホッケーや柔道をし、幼稚園生から高校生まで、教師になって体育指導をし、母校の監督までした教師でした。私は、東京都の予選で落ちたクラブに所属していました。

 兄弟たちは、運動部の猛者で、はち切れるような若さで輝いていたのです。上の兄は、東西対抗の大学選手権の優勝チームで、スタメンでした。下の兄は、大学にも推薦される選手でした。弟は、大会で決勝戦に出場しているかも知れません。

 それほどでしたのに、寄せてくる年齢には、今や逆らうことができずに、無理をした結果を招いて、痛さに苛まれたり、服薬しなくてはならない、そんな今を迎えています。

 次兄が弟と、二人で、電車に乗って、我が家を訪ねてくれたことがありました。闘病中の家内の見舞いにでした。しかも二度もです。その時、兄の杖をつく姿を、初めて見て驚いたのです。あんなに元気で活発だった兄の初めて見た姿に、しばし言葉が出ませんでした。

 その兄が中学生だった時、家に帰って来ると、長靴に履き替えて、あわてて出て行こうとしていました。『どこへ行くの?』と聞くと、『ケンカ!』と言って走り出て行き、意気揚々として帰って来ました。柔道をやっていて、体の大きい相手と喧嘩したのです。そのことがあったのを、思い出して、驚いたわけです。

 就学前に、肺炎で自分は死にかけました。小3まで病欠児で、家で寝ていたり、母に連れられて病院通いをしていて、出席数の少ない低学年を過ごしていたのです。4年になってから、突如回復して、小6になって体育部長をしたほどに強くされたのです。中学ではバスケット、高校ではハンドをすることができました。ただ一つの自慢は、野球部のキャッチャーよりも、ソフトボールの遠投で勝てるほどでした。

 兄弟たちは、級長をした経歴があるのですが、自分は、一度もありませんでした。とったのは、街の芸術祭で、絵と工作とでの銅賞だっただけなのです。褒賞とか役付けなどとは無縁で過ごしていました。

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『そこ(エルサレム/神の都)に住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。(And the inhabitant will not say, “I am sick”;The people who dwell in it will  be forgiven theiriniquity.)(新改訳聖書 、NKJ訳イザヤ書33章24節)』

 今朝、凄い「みことば」を見つけたのです。何と、『私は病気だとは言わず!』とありました。神の都、神の御名を置いたエルサレムに住む者は、そう告白すると言うのです。病と無縁で生きられるなら、どんな地位も名誉も財産もいりません。

 そればかりではなく、『赦される!』のです。置きっぱなしの母の財布に、いつも小銭が入れられていました。それをくすねては、駅前の駄菓子屋にとんで行って、麩菓子や豆菓子やかりんとうを買って食べたのです。母が作ってくれる蒸かし芋や小麦粉の薄焼きでは満足できなかったからです。

 母は、承知で財布を置き続けていたに違いないのです。10円、20円と持ち出すのが、三番目の私だと知っていたのです。罪深さというのは、そんなくすねる自由さが、かえって怖くなって、いつの間にかやめたのです。それは、持ち続けた私の罪意識、いえ罪そのものでした。
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 いつも心にひっかりのあることが、私にはあります。中学修学旅行で、京都の金閣寺に見学に行った時に、賽銭箱にお金が落ちないでひっかかっていたので、つい母の財布にのばしていた同じ手を、それにのばして失敬してしまったのです。

 それがいつも心に引っ掛かるのです。今までもです。返しに行かなければならないのです。そんな責めを感じますが、クリスチャンになった私は、賽銭は一度もしたことがないので、返すと賽銭になるのでしょうか。さりとて、責められる思いはあり続けているのです。

『子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(1ヨハネ2章12節)』

 神は、エルサレムの住人を「赦す神」ですし、私も、神さまの前で、罪を悔いて「赦された」と信じていますが、人の前で犯した罪は、その人に赦されるべきだとの思いがあるので、母にも金閣寺にも赦されないといけないのだと思い続けているのです。でも母は、もう亡くなってしまいました。

『供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5章24節)』

 主の献金をしてきた私ですが、その前に、すべきことがあるように責められるのです。「行って」とありますから、行かなければならないのです。今朝も、布団の中で、そんな思いにさらされているのです。具体的な行為が必要なのでしょうか。そんなこと言っても、未処置なことが多く、もう忘れてしまった悪行も多くあって、神のみ前で「赦された」確信はあるのに、どうすることもできないのです。

 それは、私と相手との関係なのです。亡くなってしまった相手だって、会社だってありそうです。年をとると、過去を、また疾しい思いが、そう言ったふうに、どなたも思い出させられるのでしょうか。老いとは「人生の精算」の時なのかも知れません。

『神が多くの子たち栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(ヘブル2章10節)』

 病気の話題だらけの今ですが、エルサレムではなく、下野の地に住む私も、『私は病気ではない!』、『赦された!』と言えるのです。この身体は、やがて栄光の姿に変えられると、そう約束されているからです。聖路加院長をされた日野原重明さんは、『 健康というのは病気があるにもかかわらず、健やかな気持ちを保つこと、そして、上手に生きている姿である 。』と言っていました。この方もクリスチャンでした。

 今朝も、健やかな気持ちをもって起きることにしましょう。私は、「赦し」を確信していまして、「救い」は盤石なのです。

(Christian clip artsによるイラスト、ウイキぺディアのエルサレム、金閣寺に冬化粧です)

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生きよ

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 先日、家内が参加している短歌の例会があって、その集いの中で披露された短歌があり、「三日とろろ」と言うことを聞いて、家内が帰って来たのです。ここ栃木や群馬、茨城、そして福島(岐阜県や愛知県でもあるそうです)あたりで、正月の三日に、家族揃って食べる様に、正月の食卓に上る正月料理なのだそうです。

 母は、擦り鉢に山芋を入れて、擂粉木(すりこぎ)ですって作って、「とろろ汁」をよく食べさせてくれたのです。それで、よく知っていましたが、これに、「三日」が付く料理とは、どんな料理なのだろうかと、強い関心を示さないままで打ち過ぎていました。ところが、北関東や東北地方でよく食べることが分かって、一人のマラソン選手が、福島県の出身だったのを思い出したのです。

 それは悲しい出来事で知ったのです。上の兄と同じ年に生まれた方で、日本で初めてのオリンピック東京大会が開催れた時に、最終種目のマラソン競技に出場し、銅メダルに輝いた、円谷幸吉が、そう言われたのです。

 彼は、高校生の時に陸上競技を始め、卒業後、陸上自衛隊に入隊し、郡山駐屯地に所属していました。中央大学で学ばれ、体育会の陸上部に選手でした。当時の長距離競技の日本記録の保持者でした。選ばれて、マラソンに参加され、三位で銅メダルを獲得して、日本陸上界を大いに盛り上げた選手でした。

 その記録を持って、四年後にイタリアのローマで開かれるオリンピックの候補者として、大いに期待されて練習に励んでいたのです。ところが練習が激しかったのか、無理をしたのか、椎間板ヘルニアの手術を受けたのです。

 自衛隊の陸尉で、埼玉の朝霞にあった自衛隊体育学校に所属しておられて、精彩を欠いてしまって、走る気力がなくなるのと、周囲の期待の重圧などがあって、円谷幸吉は、『もう走れません!』と、書き残して。自死してしまったのです。当時、日本全体に衝撃をもたらせた出来事でした。

 期待されたスポーツ選手の精神的な重圧というには、大きそうです。柔道の猛者(もさ)と言われる選手が、オリンピックの試合が近づくと、お腹を壊してしまって、力を出しきれなかったりすることもあるのです。期待を担いきれずに、心体の調和のバランスが崩れてしまうことに原因がある様です。

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 『どうにかなるさ!』と思えない心の繊細さを、他の世界で表せるのに、そういった転換ができないのが問題の様です。スポーツのできる時間、活躍期間は短いからです。柔道や、マラソンしかできない人間ではなく、他の世界でも生きていける学びや経験が必要なのです。この円谷孝吉が、書き残した家族親族への遺書に、この「三日とろろ」の記述があったのです。

 去年の暮れに、ある方から、「自然薯(じねんじょ)」を頂きました。ちょうど次女が娘(孫です)と二人で帰省中で、それを使った、とろろ汁を作ってくれて、美味しくいただいたのです。それを正月三日にいただくので、「三日とろろ」と言うのです。この方のお母さんが作ってくれたのを思い出し、感謝したのでしょう。

 聖書で、人の造り主は、『わたしを求めて生きよ(新改訳聖書 アモス5章4節)』と人に呼びかけています。その反面、「死ね!」と、死に誘(いざな)う悪しきものもいるのです。どちらの声に聞くかで、生死が分かれます。どんなに辛くても、生きている限り、慰めや回復があるのです。卒業、入学の時期が近づいています。挫折したり、失敗したりするのありえる季節です。自分の前に開かれていく環境に、従って生きていくのです。

 人生には、挫折があります。どんなに活躍しても、どんなに賞を獲得しても、肩や腕や腰を痛めて、投げたり飛んだり走ったりできなくなってしまうことがあるのです。歳を重ねて、そうなることもあります。23歳の有望な野球のピッチャーだって、腕や肩を負傷して投げなくなって、かろうじて手術をして復帰しても、また負傷しないとは限りません。選手生命は短いのです。いえ、人生そのものが短いのです。


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 三日とろろは、長生きを祈念して食べる伝統食なのでしょう。年越し蕎麦も、長い物を食べて、長寿を願うところから伝わった風習なのでしょう。何でも美味しく、感謝して食べるのがいいに違いありません。父は、そう言った拘りや、風習を、自分の生活の中も持ちませんでした。ただ和菓子の「きんつば」を好んだ人でした。デパ地下などで、私たちを喜ばそうと、さまざまなものを買っては道帰って、『食え!』と言ってくれたのです。それでっhでしょうか、自分も、今や「きんつば党」なのです。

(ウイキペディアの東京オリンピック開会式、すり鉢・すりこぎ、きんつばです)

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悲しんだ後に

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 上智大学での「公開講座」で、「死の哲学」を教えられたデーケン教授から、「悲嘆のプロセス」には、12段階があると教えられれました。

1段階 精神的打撃と麻痺状態
愛する人の死という衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。頭が真空になったようで、思考力がグッと落ち込む。心身のショックを少しでも和らげようとする本能的な働き、 つまり、防衛規制。

2段階 否認
感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 

3段階 パニック 

 身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。

4段階 怒りと不当感
不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。  「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」
※ショックがやや収まってくると「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹き出す。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。

5段階 敵意とルサンチマン(憤り、怨恨、憎悪、非難、妬み) 

  周囲の人々や個人に対して、敵意という形で、やり場のない感情をぶつける。 遺された人のどうしようもない感情の対象として、犠牲者を必要としている場合が多く、また病死の場合は敵意の矛先を最後まで故人の側にいた医療関係者に向けられるケースが圧倒的。 日常的に患者の死を扱う病院側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間に、感情の行き違いが起こる場合が多い。 

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6段階 罪意識
悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ自分を責める。 「こんなことになるなら、生きているうちにもっとあれこれしてあげればよかった」という心境。 過去の行いを悔やんで自分を責めることになる。

7段階 空想形成・幻想
幻想ー空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞う。
例1:亡くなった子供の部屋をどうしても片付けられず何年もそのままにしている
例2:いつ子供が帰ってきてもいいよう、毎晩ベッドの上にパジャマまで揃えおく

8段階 孤独感と抑うつ
健全な悲嘆のプロセスの一部分、早く乗り越えようとする努力と周囲の援助が重要 葬儀などが一段落し、周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが襲ってくる。 

9段階 精神的混乱とアパシー(無関心)
日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなり、あらゆることに関心を失う。 

10段階 あきらめ・受容
自分の置かれた状況を「あきらか」に見つめて受け入れ、つらい現実に勇気をもって直面しようとする努力が始まる。
※「あきらめる」という言葉には「明らかにする」というニュアンスが含まれている。

11段階 新しい希望・ユーモアと笑いの再発見
ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせない要素で、その復活は悲嘆プロセスをうまく乗り切りつつあるしるし 。
※悲嘆のプロセスを彷徨っている間は、この苦しみが永遠に続くような思いに落ち込むものだが、いつかは必ず、希望の光が射し込んでくる。 こわばっていた顔にも少しずつ微笑みが戻り、ユーモアのセンスも蘇ってる。 

12段階 立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生
愛する人を失う以前の自分に戻るのではなく、苦悩に満ちた悲嘆のプロセスを経て、新しいアイデンティティを獲得し、より成熟した人格者として生まれ変わることができる。 

 この“ grief work ” を十二分にしないと、なかなか立ち上がれません。それがどこから来ているか、なぜ起こるのかが明確にしないでいたり、十分の悲しまないで、心の思いを偽って、誰かのせい、時代や環境のせいにしてしまう傾向が多そうです。死の向こうに、永遠の世界があると言う、聖書の主張に、どう応答するかが大切です。

『悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるからです。(新改訳聖書 マタイ5章4節)』

 主なる神さまは、「悲しむ者」の悲しみの意味を知っておいでです。救い主の前で、苦しみ、悲しみ、泣くのです。悲しみ尽くした者を慰めてくださいます。このキリストは、悲しみを知っていらっしゃるのです。イエスさまが、涙を流して悲しまれたからです(ヨハネ11章35節)。だから、十分に悲しんだら、頭を上げて、涙をぬぐって、天に向かって目を向けて、主ご自身を喜ぶのです。主は、私たちを溢れるほどに慰めてくださいます。そして再び歩み出しましょう。

(ウイキペディアの「今日の涙滴文の起源となった、アーサー王物語に登場する騎士ブランの(涙の)紋章」、白い花です)

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アンテナを高く張り巡らして

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 「所変われば品変わる」と言われます。私が隣国から持ち帰った物の中に、きっと「ただ物」のなさに、驚かれることでしょう。それは、その国の紙幣なのです。タクシーに乗った時に払った料金のお釣りに受け取った20元紙幣でした。何の変哲もない様に見えましたが、実は「偽札」だったのです。

 中国のみなさんは、それが回り回って、自分が手にすると、支払いに紛れ込ませて使ってしまうのです。公安警察に届けたりしないのです。外国人の立場で、これを使って発覚してしまうと、強制国外退去処分を受けますので、怖くて使えずに、私は、どなたかに上げるわけにもいかず、帰国時に持ち帰ってきたわけです。

 私たちの国では、偽札が見つかると、新聞やテレビのニュースに、大々的に取り上げられて、重大事件です。もちろん使った人は警察に逮捕され、厳しく取り調べを受けます。立件されれば、使用者は懲役刑に処せられます。ところが隣国では、平気で、巷で流通しているのです。

 例えば、100元紙幣をレジで手渡しますと、かならず店員さんは、上にかざして、「透かし」が入っているかどうかを確かめるのです。こちらはとても不愉快な気分にされるのですが、それも仕方のないことで、それだけ頻繁に流通しているから、そうせざるを得ないのでしょう。

 欧米諸国のブラエンド品が、隣国のデパートの売り場に山積みにされて売られていました。これも偽物だらけなのです。とても安いのですが、高級品扱いです。それでも構わず、似せて作られた物なので、よく売れるわけです。正規品があれば、必ず非正規品がある社会なのです。

 ところが、今は、ネットによる通信販売が主になってしまい、売り場は展示場で、品定めをしてから、買わずにいて、スマホでネット注文して購入してしまうのです。偽物でも、ブランド品のマークが入ってれば、それでいいので買われるのです。遠くから見たら真偽はどうでもいいからです。

 ですから、全国展開のショッピングセンターやデパートで買うことはなくなってきていて、店内は閑古鳥が鳴くほどです。今や空港でも、中国新幹線駅でも、かつての賑わいがなくなってしまった様です。コロナ騒動以降は、商いは難しくなっています。

 道端のシートの上に、品物を並べて売っているご婦人が多くいたのです。野菜や果物、衣類から鍋釜までです。リヤカーで焼き芋や、餃子などを焼いて売ってる人も多くいました。帰国する少し前から、その代金の支払いが、スマホで決済され始めていました。それで、スリが、その機会を失ってしまったのだそうです。

 私たちの国でも、かつては、粗悪品の輸出で、信用を落としてしまったことがありました。ちゅうしょうのこうじょうでは、どさくさの時代の中で、監督や規制が厳しくなかったので、缶詰に全く違ったものを詰めて、輸出していた話を聞きました。[安かろう悪かろう]の日本製品でした。

 今でこそ高品質で、絶対的な信用や評価を、日本製品は受けていますが、かつては、偽りと誤魔化しが横行していて、粗悪品のレッテルを付けられていたのです。

 今のように、日本人の民度の高さは折り紙付きになって誇れるのですが、それ以前に、粗悪品や誤魔化し物を売って、顰蹙(ひんしゅく)を買っていた時代があったことも忘れてはいけないのです。その汚点を拭うためには、大変な時間と努力が払われてきたのです。偽物には気を付けなければなりません。

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 実は、聖書にも、「ニセモノ」が登場しています。

『しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。(新改訳聖書 2ペテロ2章1節)』

 イスラエルには偽者がいたのですが、教会にも「偽教師」がいると言うのです。聖書にないことを言ったりする説教者に、耳を傾けてはいけません。人道に反することを言う者から聞いてはいけません。歴史の事実を改竄(かいざん)している者も認めてはなりません。たくさんの偽教師が、もっともらしいことを言って、惑わすからです。偽りを察知するアンテナを高く張って、判別しましょう。信頼できる聖書教師に、聞いてみてください。

『御霊を消してはなりません。 預言をないがしろにしてはいけません。  しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。 悪はどんな悪でも避けなさい。:平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(1テサロニケ5章19-23節)』

 聖書、イエス・キリストを否定する者や、出版物に、耳を傾けずに、聖霊の導きに従い、このお方に聞きましょう。真理を解き明かして下さるからです。本物の聖書教師から学んだこと、語られたことに聞くなら、騙されたりはしないからです。注意、注意の時代なのでしょう。

(Christian clip artsのイラスト、14世紀の聖書です)

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もう思い出ばかりになって

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 「広場(英語で “ square “  )」、「ひろっぱ」を見つけては、そこを遊び場にして、三角ベース野球や宝島などの集団遊びをした、子どもの頃を懐かしく思い出しています。

 今は、公園とかが整備されて、遊具が置かれたりしていますが、子どもの頃に遊んだのは、ただの「空き地」でした。野球をやって、向こうの家の窓ガラスを割ってしまって、『ごめんなさい!』を言って、そこで窓ガラスの大きさを測って、ガラス屋に行って、寸法通りに切ってもらって、それを持ち帰って、サンを外して、それを自分で入れたりしたのです。サッシ枠でなかったのでできました。

 時々古い遊んでいる写真を、見る機会があって、同じ様に、馬乗りとか女の子のゴム跳びとか隠れんぼとかしたことを思い出します。また夕方になると、ラジオが、子ども番組を放送していて、それが聞きたくて、広場の隅に時計なんかないので、腹時計かなんかで、時間を見計らって家に帰ったりしました。

ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
誰が吹くのか 不思議な笛だ
ヒャラリ ヒャラリコ
ヒャリコ ヒャラレロ
音も静かに 魔法の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
たんたんたんたん
たんたんたんたん
野こえ山こえ

ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
どこで吹くのか 笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
金と銀との 蒔絵の笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
たんたんたんたん
たんたんたんたん
蒔絵の笛だ

ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
誰も知らない 笛吹童子
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
どこで吹くのか 不思議な笛だ
ヒャラーリ ヒャラリコ
ヒャリーコ ヒャラレロ
たんたんたんたん
たんたんたんたん

 これは、NHKのラジオ番組で、新諸国物語の「笛吹童子」の歌です。いつも遊んでいた「ひろっぱ」の集まっては、そこを遊び場にしていました。男の子も女の子も一緒だったり、別々だったりの時もありました。
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 テレビが放映される前に、昭和20年代、おもに小学生のわれわれ世代に向けて、夕方の時間をさいて、日本放送協会が、子ども枠を設けてラジオ放送してくれたのは、すごい時代だったなと、今になって思うのです。非行化防止などの言葉のない頃、、大人だけの独占番組ではないものを、企画し、作り上げてくれたのは、どんな人たちだったのでしょうか。

 冒険時代劇を、音楽と声優のみなさんが登場して、人物ごとに、話をしながら進めていくのですから、想像力を養い育てるには、もってこいでした。耳から聞いて、聞いている子どもが、それぞれに思い描くわけです。主人公ではない、「五升酒の猩々(ごしょうざけのしょうじょう)」の名前を、俳優で声優をしておられた方の名前が、大友柳太朗だったことも覚えていて、「紅孔雀」に登場していたのも覚えています。

 時代劇の真っ盛りの時代で、別世界や架空の世界の出来事と、今の現実のギャップを超えて、ワクワク、ハラハラと手に汗を握りながら聞き耳を立てていた自分を、はるかに思い描く今です。正義が勝ち、悪が滅びて、夢が養い育てられた、「夢多き夕方」だったでしょうか。テレビ、ゲーム機器、スマホで育たなかった子どもたちの特権でした。

 あの遊びは、ずっと受け継がれてきたものだったのでしょう。お爺さんやお婆さんから、お父さんやお母さんから、ずっとやり続けてきて、新しい遊びも、どうも全国区的に展開していた様です。童歌(わらべうた)も、地方地方で、ほとんど同じですが、歌詞がちょっと違っていた様です。肩を組んだり、腕を組んだり、ゾロゾロ、ソロソロと歩いて、川遊びとか里山遊びもあったのです。

 ウサギは追いませんでしたが、ハヤやバカッパヤなどは釣ったのです。柿やグミやイチゴやイチジクの実を採っては食べました。蒸したり焼いたりした芋や栗もオヤツだったのです。10円玉を握っては、子ども相手の店に飛んで行き、紙芝居のおじさんが巡回してきて、味付け昆布やウエハースみたいな煎餅を買っては見ていました。

 ♪ ああ、だれにも故郷がある ♩、あったのです。兄たちを追いかけてはついて行き、山や川も遊び場でした。冬場には、兄がソリを作ったり、春になると、バッサリと言う、鳥を捕まえる仕掛けをしたこともありました。弟とも遊びました。都会では、なかなかできなかったのを、田舎だったからできたのでしょうか。もう思い出ばかりになりました。

(ウイキペディアの真空管のラジオ、横笛です)

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蒸気機関車を思わせてくれて

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 主の働きに献身した若いテモテに、パウロが、真心から情愛を込めて書き送った手紙が、聖書の中に2通おさめられています。それを読みまして感じるのは、この二人の間には、実に麗しい関係が育まれていたことであります。

 そのパウロが、愛をもって勧めている言葉の1つに、「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが・・(新改訳聖書  1テモテ4章8節)」と言う言葉があります。テモテの健康を願ってのことでしょうか。この言葉の「いくらかは」と言うのは、「少しの間」と言う意味をもっている言葉なのです。キングジェムス訳ですと「little」とあります。

 私に聖書の読み方を教えてくれた宣教師さんは、『ここは、《この地上にある間は有益です》、との意味でしょうか!』と言っておられました。としますと私たちが肉体を鍛錬することは、意味のないことではないことになります。初代教会の時代、ギリシャにはオリンピックがあって、走ったりボクシングをしたり、レスリングもあり、パウロは「賞を受けられるように走りなさい(1コリ9章24節)」と、霊的に当てはめています。

 ずいぶん昔のことですが、アテネ・オリンピック出場をかけた女子バレーの予選の試合が行われていた頃、それをテレビに誘われて観戦していました。その時、日本チームの練習風景が、中継の合間にビデオで流されていたのです。

 監督さんが、19才の高校を出たての様な選手たちに、『バカヤロー!』、『出て行け!』、『お前なんか使わない!』と罵声を飛ばしていました。ああ言った言葉に耐えないと試合に出られない、勝てない、オリンピック大会に出場できないのでしょうか。国の名誉を賭けた、熾烈な競争に勝つには、精神を鍛えなければならないのでしょうか。

 『なにくそ!』という跳ね返す心がないとだめなんです。相手に勝つ前に自分に勝たなければならないし、チーム・メイトにも勝たなければならないのです。根性がなければ駄目なんです。そのためには、暴言も暴力も必要悪なのだ、そういった蛮風な風潮がみられたのです。

 ずいぶん前に、高校の運動部にいた私は、その様子を見ていて、『ちっとも変わっていないな!』と感じること仕切りでした。その五十代の監督さんの選手時代は、われわれと同じ「しごき」の時代だったのです。私たち送球部の練習内容は、ものすごいものがありました。インターハイや国体の優勝校で、その決勝戦への常連校でしたから、その名誉を維持するためには、常識的な練習では駄目だと言うのが結論でした。

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 予科練帰りの旧日本軍の規律で訓練された先輩たちにしごかれたと言う、卒業生のおじさんたち、そのおじさんたちに鍛えられたOBが、入れ替わり立ち代わりやって来るわけです。ビンタは当然でした。殴られると、今度は下級生にビンタで焼きを入れるといった悪連鎖があったのです。

 あの監督さんは、暴力はしていなかったのですが、あの言葉は心に痛かったでしょうね。社会全体が軟らかいソフトムードで、そこで育って来た若者たちの中で、一流選手のいる、スポーツ界は変わっていなかったのです。何時でしたか、ある力士が相撲の稽古をつけている様を、テレビで観ていました。竹刀(しない)で焼きを入れていました。その相手は、彼よりも年令は上で、大学出の人気力士でした。その世界は、年令も学歴も関係ないのですね。番付が上なら天下なのです。

 《悲壮感》、そう言ったものがないとスポーツの世界では、出られない、勝てない、オリンピックには出場できないと言う空気なのです。まさに日本型のスポーツの世界の伝統であります。

 いつでしたか、アルカイダの訓練の様子が放映されていました。またアメリカ海兵隊やイギリス軍の新兵訓練も放映されていたことがあります。戦場の最前線に遣わされる兵士には、非人道的な訓練が、世界中、どこでも行われているのです。そこにあったのは、私が若い頃にやっていた、松涛館流空手の稽古の中に感じた「殺気」です。躊躇のない一撃必殺が要求されるのです。逡巡していたら、殺されてしまうからです。 

 あの監督に罵声を飛ばされていた選手が、試合に出してもらって活躍していました。スパイクを決めた時に見せたのは、実に素晴らしい笑顔でした。『監督さんの愛情からの言葉なんだ!』と思って感謝しているのでしょうか。

 でも、『勝たなくってもいいんだ!』、そういった気持ちで、スポーツを楽しめたら素晴らしいのではないか。そうしたら、肉体の鍛錬にも有効なのだと言う、パウロの願いが、実現されるからです。

 欠点だらけの私を訓練してくださった宣教師さんは、私を、殴ったり、威嚇したり、蔑んだり、罵倒したりしませんでした。彼や、彼の友人の神学校の教師から、聖書の読み方から学び方、時事問題、教会史、そして、家庭建設の仕方、妻と共にどう歩むかまで教えてくださったのです。そして、いつも祈ってくれたのです。

 もう一人の宣教師さんは、20歳違いでしたが、同じ兄弟や友の様に接してくれました。私が家庭を持ってからも、家内も子どもたちも、家族ごと家に呼んでくれ、子どもさんたちと一緒にテーブルを囲んで食事をとり、テニスまで打ち合いました。あの家の匂いも雰囲気も、すべてが懐かしいのです。

 この方の時計の手首への付け方も誕生日も、私と同じでした。何か優しい穏やかさを感じさせてくれ、それでいて力強い蒸気機関車をも思わせる様な方でした。彼は天に帰り、同じ蒸気機関車の様な、あのテーブルに着いていた彼のご子息も、先週、この地上を走り抜けて、「天の故郷」に帰って行かれました。寂しさを禁じ得ません。

(ウイキペディアの蒸気機関車に牽引される列車です)

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別れといえば人の世の常なるを

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 私たちの国の詩には、七五調で詠んだものが多くあります。現代の様な口語体ではなく、文語体の文章によくみられました。その筆頭は、「万葉集」にある和歌でしょうか。私たちが住んでいる栃木に、「三毳山(かもやま)」があり、この山にちなんだ和歌が、万葉集に収められています。ここに古代に敷かれた「東山道」の関所が置かれていたそうです。

しもつけぬ みかものやまの こならのす まくはしころは たかけかもたむ

〈漢字入り表記〉 下野の 三毳の山の 小楢のす 目(ま)細(ぐは)し児ろは 誰が笥(たがけ)持たむ

〈意味〉 下毛野国の 三毳山の コナラの木のように かわいらしい娘は だれのお椀を持つのかな(だれと結婚するのかな 私の嫁になるのだ)

 どなたが詠んだのかの記録はない和歌ですが、下毛野に住んでいる若者なのでしょうか。これほどの文才や表現力があったのですから、教育を受けた人であったことでしょう。詠み人は、人の行き来の多かった地だったでしょうから、都からやって来た、若い役人だったのかも知れません。この里のみめ美しい娘に恋心を抱いて、そう詠んだのでしょうか。
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 古来、日本人は、この七五調の表現を好んだ様です。詠む人も、それを読む人も、聞く人も、強く印象付けられたからです。明治になって、信州から東京に出て学んだのが、島崎藤村でした。木曽の村の庄屋の子で、子どもの頃には、お父さんから「論語」などを学んでいたそうで、東京に出てから、今風の進学予備門に学んだ後、明治学院の本科で学んでいます。

 この藤村が、「惜別の歌」を詠みました。

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

 詠んでも歌っても、見事な七五調が際立っている詩で、文語体の文章で、日本語の美しさ、簡潔さを知ることができます。この歌を、よく歌っていた級友がいました。卒業して、結婚式に呼ばれて、一度、新婚世帯を訪ねたっきりです。どうしていることでしょうか。

 これからの季節は、涙や笑いや、様々な感情の交錯する季節ですね。「別れ」があり、「出会い」や「再会」が、私たちの人生にはありますが、この時候の行事がまもなくやって来ます。バス停で止まったバスの中から見掛けたと言って、わざわざ降りて、懐かしい顔を見せ、どうしてるか語り掛けてくれた、何年も前に教えた教え子がいました。けっこう満員電車の中で、背中合わせになる人の中に、懐かしい人がいるかも知れません。

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 家内と二人が、お隣の国で13年の間過ごさせて頂き、素晴らしい出会いがあり、そんな人たちと別れて帰国して7年になろうとしています。その間、私たちの激励者であった宣教師さんが、先週召され、昨日告別式があり、息子に代理出席してもらいました。

 家内の母が、アメリカから来られる宣教師さんご家族に同行し、一才だったその方をおんぶして羽田に降り立ったそうです。宣教の奉仕をして駆け抜けて、59歳で、天におられる父なる神のもとに帰られました。親子二代でお交わりがあった方との「別れ」でした。Zoomで式に参加し、家内は泣き続けていましたが、この方への感謝に溢れていました。夫と父とを送られたご家族、そしてお母さまと兄弟姉妹に、主の慰めを祈りました。

(ウイキペディアの三毳山、中山道馬籠宿、Jさんが誕生されたアラババマ州に咲く百合の花です)

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物みな上がるこの世で

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 2025年2月9日、神奈川県の小学校の2年生の「ほりうち君」が、NHK「子ども科学電話相談室」の相談者でした。この世代の子どもたちも、物価高の影響を受けているのだそうで、『給食のおかずも少なくなっています。』と言っていました。

 そういえば、Mサイズの「みかん」が一個で、150〜200円ほどしていますし、いつも生協に注文している、農薬使用の少ない「お米」が、2600円で買えていましたのに、米騒動後には、もうずっと3500円ほどに高騰しているのです。どうなってしまったのでしょうか。

 昨夏の高温の異常気象の影響で、果物も野菜も、お米も不作だったとか、多くの農産品がその影響を被ったわけです。ところが、秋の収穫期以降、病虫害の発生や生育不良で、収穫が少なくなり、製品として集荷できなくなった様です。

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 そんな自然界の異変と共に、いつも思うのは、流通に問題があって、幾重にもある中間の仲買や卸が、同じ様に儲けを得るために、高くなった分を生産者と消費者が強く影響を受けているのでしょう。机に電話一台の卸の仲買いがいて、右と左のものを動かしているのです。今では、運送業者や宅配業者が、卸と小売で物を動かすので、パソコン上でパソコン操作で商いをしているのです。

 スーパーが、生産者グループから直接買い付けて、本部で仕入れて、各支店に、運送業者に配送を依頼しているのですから、もっと安くなるはずですが、どこかで儲けを一定基準に定めて、売価が決められているのでしょうか。小売店でも、大手のスーパーマーケットでも、値段の高さに違いがない様です。

 物みな上がる昨今の煽りで、「ほりうち君」が、動物園の動物たちの食糧事情を、わが事の様に心配して、その相談だったのです。自分の育てられている家庭の台所事情、給食事情を敏感に感じるだけではなく、動物たちの食卓を心配していたのです。

 そんな子どもが一人、令和の代にもいることを知って、その優しさに、涙が浮かんで感動してしまいました。歳をとって涙もろくなっただけではなさそうです。「感動」しての涙です。利己主義のニュースばかりの大人たちの時代の只中に、その様な子どもがいて思ったのは、『21世紀は大丈夫だ!』と、安心したわけです。

(ウイキペディアの多摩動物公園、動物の餌のりんごです)

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悲しい出来事の先に

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 この1ヶ月ほど、私の唇に登ってくる賛美の歌詞があります。今朝も、思いの内に登ってきています。

♫・・・やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♬

 学校出たての22歳の1968年の3月に、作詞がサトウハチロー、作曲が加藤和彦で、ザ・フォーク・クルセーダズが歌った「悲しくてやりきれない」が発表されました。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか

深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか

 みんなが悲しむので、この気持ちは本物で、正直な感情なのです。ところが、教会に行き直す1970年頃に、「喜べ」というコーラスなどを、一人のニューヨークの聖書学校の教師で、多くのアフリカへの宣教師を派遣し、そのお世話をしていらっしゃる方が、私たちの教会に来られて、紹介してくれたのです。

♬ よろこべよろこべ 主の民よ よろこべよろこべよろこべ 主の民よ ♫

 とても簡明で、単調な賛美コーラスでした。

 悲しい出来事で、気の滅入っていた人類に、永遠のいのちの約束を持って、イエスがキリストとして、父なる神の元からおいでになられたのです。このキリストが、約束された赦し、救い、解放、癒し、自由、永遠、栄光、力を、私たちにもたらしてくださったのです。闇と絶望と滅びと死を打ち砕いてくださって、神の子としてくださいました。

 だから、手を打ちたたいて、この救い主イエスさまを喜べと言われたのです。それでも、いつも喜んでいた私たちに、たびたび、「召された知らせ」が届いてきました。昨晩、早めに床についたのですが、2時頃に、家族間のチャットを見ましたら、若き友人が、ICUに搬送されたとの知らせが、在米中の次女からあり、『祈って!』と言ってきたのです。しばらくして、上の息子から、『天の主の元に召されたそうです!』と知らせが入りました。

 やはり突然のことで驚いてしまいました。家内は、『一番素晴らしいと永遠の住まいに帰られたのですから、そのことを認めましょう!』と、今朝になって言いました。そうですね。人のいのちの支配者は、その付与者でいらっしゃる創造主なる神さまでいらっしゃるからです。

 聖書には、

Precious in the sight of the LORD is the death of his saints.(『主の聖徒たちの死は主の目に尊い。詩篇116:15』)
とあります。

『主の元に帰られたのですね。主の慰めを、奥さま、息子さん夫妻、お嬢さん、次男のJ君、お母さまやご兄弟姉妹のみなさんの上に祈りましょう。そして彼の全てを主のみ手に委ねましょう。』と、子どもたち家族にチャットを送りました。

 彼は、私たちの13年の在華中、帰国後も、ずっと主の愛を示してくれた方でした。とくに家内の闘病にも、いつも激励を寄せてくれました。一昨年は、ご家族で、私たちを訪ねてくれたのです。まさかの出来事と驚くのですが、主のみ手を認めます。

 主にある聖徒の死は、凱旋です。この地上の生涯を終えて、神さまのいらっしゃる天に凱旋したのです。だから、悲しみ過ぎないでいたいのです。そう、今も、

♫・・・やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♬

が、私の唇に登ってきています。

 主の慰めを、ご家族のみなさんの上にお祈りします。

(Christian clip arts のイラストです)

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