幸福度の高さを願いつつ

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 身長や体重は、新学年には、決まって測定がされていました。中学生の頃は、毎年10cm以上も背が伸びていました。高校2年の身長の測定が173cm、体重が52kgだった様に覚えています。先日、アブレーション手術で大学病院に入院した時の測定は、169cm、68kgでした。それに加え、もう何年も前からは、血圧測定もする様になって、内科医の通院日には、血液や尿も測定される様になっています。

 健康の度合いとして、体温、血圧、血液や尿検査が行われ、最近では血糖値も測定されるのです。これって、「健康異常度」を測っていることなのでしょうか。若い頃は、たまに風邪を軽くひくくらいで、おおかたは健康自慢だったのです。

 在華生活の中で、脂分の多い食事を時々ご馳走になっていました。帰国時には、父を懐かしく思ったのか、その好物だった「きんつば」が、自分の好物になってしまったのです。帰国後は、悪いことに、明治初年の創業の和菓子屋さんが近所にあって、かりん糖やきんつばを買いに行って食べる機会が多くなっていったのです。

 案の定、そんなことで血圧が高くなって、血糖値も心配になって、糖尿病になる危険性を、内科医に言われてしまいました。74歳になって、降圧薬を飲む様になったのです。それから、不整脈、脳梗塞、心房細動と、一気に入院、治療、手術と進んでいきました。

 油断禁物、父がくも膜下出血の治療を経て、六十一で脳溢血で亡くなっています。注意をしながら生きたつもりですが、油断や、怖さ知らずで、不注意があったのでしょうか、心疾患を患う様になっての今なのです。

 今日も、市の中心部から北の方にある、総合運動公園まで散歩に参りました。道々の家々の庭先や、川辺を歩きながら、小川の流れや、小藪や花壇に目をやったりして、スマホを取り出して、写真を撮ったりしながら、公園のベンチに座ったり、ブランコを漕いだりしているのです。

 歳相応の今なのですが、そんな加齢で言い訳などをしないで、健康管理をしなければいけないなと、自分に言い聞かせている、今なのです。父よりも20年近く多い年月を生きてきて、聖書が言う、

『 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(新改訳聖書 詩篇90篇10節)』

の年齢に達して、「飛び去る」年月を、ひしと感じながら、もうどれほどの年月が、自分に残されているのか、思うことが多くなってしまいました。この年月を思い返して、「健康度」から思いを離して、こんどは、自分の「幸福度」を測ってみたいのです。

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『わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。 わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」 まことに、主はこう仰せられる。「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。(エレミヤ32章40~42節)』

 人の願う「幸福」、どれほど幸福かの「幸福度」とは、どんなことなのでしょうか。世界的に比較してみると、日本人の「幸福度」は、だいぶ低い様です。ことのほか若年層の子どもや若者の幸福度が低いことが、大きな問題とされています。“ UNICEF(United Nations Children’s Fund/ユニセフ 国際連合児童基金)”の最近の報告によりますと、「精神的幸福度」が、世界の中で下から二番目ほどに低いのだそうです。

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 この幸福度は、①精神的(生活満足度が高い子どもの割合や自殺率)、②身体的(死亡率、過体重・肥満の子どもの割合)、③スキル(skill 読解力・数学分野の学力・社会的スキル)で測っている様です。この調査によりますと、日本人の子供は、身体的健康度は、抜群に良く、世界一位でした。ところが、精神的幸福度は、極端に低いのです。このギャップこそが問題です。

『力の限り、見張って、あなたのを見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4章23節)』

 厚労省によりますと、去年(2023年)1年間に自殺した人は全体で2万268人と過去最少の水準となった一方で、児童・生徒は527人にのぼり、これまでで最も多くなっている様です。これは由々しき問題です。とりわけ問題なのは、中学生と、女子高校生の自死者が増加していることです。

 その原因や動機を、年代別に見ますと19歳以下は複数回答でみますと、①学業不振や進路に関する悩みなどの学校問題が349件 ②うつ病などの健康問題が284件 ③親子関係の不和など家庭問題が148件でした。どうみても、日本人、とりわけ明日の日本を担う若年層の心の問題は重大なのです。

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『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』

 自分が、偶然生まれたのでも、突然生まれたのでもありません。神こそが人の創造者だと言うことを知るなら、人生の意味や使命を知ることができます。このことを認めないと、人は自らの命を絶ってしまうのでしょうか。

 ここに一つの良き事例があります。明治の初めに、アメリカから、一人の教育者が招聘され、新たに設立された札幌農学校の校務と教育を担当したのが、クラークでした。教頭の任にあったクラークの薫陶と勧めで、この創造者なる神と出会って、生きる意味を知らされた若者たちがいたのです。その若者たちが、やがて教育の分野で、若者を育てる務めに就きました。また日本の近代化のために、多くの分野に生涯を費やしたのです。この教育者の系譜の中で、キリスト信仰を継承して、教師となられた方に、私も教えを受けたことがありました。

 先頃、拓殖大学の佐藤一磨教授(幸福の経済学)は、こう言っていました。『国連が毎年発表する「世界幸福度報告書」によると、幸福の75%は「信頼感」をはじめ「堅調な経済成長」「健康寿命」「良好な人間関係」「寛容さ」「自分に適した生き方をする自由」の6つの要因で決まるとされています。』とです。

 私たちの造り主は、人が幸せである様にと願っておいでで、永遠のいのちを得られる様にと願っておられます。若い日に、創造者なるご自分と出会う様にとも願われておいでなのです。歳を重ねて、『なんの喜びもない!』と言わないためにです。この「喜び」の多さや充実度こそが、「幸福度」の高さになるのかも知れません。

( “ いらすとや ” のジジとババです)

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anger management

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 “ anger management “ 、怒りの制御のことでしょうか、穏やかさの反対側にいる、怒りやすい人には、どうしても、これが必要です。確かに、感情が豊かで、喜怒哀楽の激しさは、好意的に受け止めることもありますが、やはり好まれないことが多い様です。どうしても、この「怒り」には抑制が必要です。

 昨年のMLBで、あの大谷翔平が、怒りを表したことがありました。穏やかな性格のうちに、豊かな感情表現を見た時、なぜか安心したのです。そう言った一面も持ち合わせていたので、スポーツ、特にプロのスポーツに世界で生きる人には、それがある程度は必要だと思わされたのです。

『愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(新改訳聖書 箴言12章16節)』

 この世の中には、怒りっぽい人が多くいます。いつでも、何かに怒りを向けている人のことです。正直で、直情的なのでしょう。聖書は、その理由を「愚か」だと言っていそうです。その反対側に、常に沈黙を保って、怒りを表さない人がいます。すぐに応答しないで、我慢できる人で、「賢い」のです。こう言う人もいるわけです。

 「義憤」と言われますが、コトバンクでは、「道義にはずれたこと、不正なことに対して憤慨すること。」とあります。故意や悪意の言動に対して、憤ることは、良いことなのでしょう。それとは逆に、長い物に巻かれたり、日和見的に眺めたり、聞いたりして、『しょうがないか!』と、争いを避けているのか、諦めてしまっているのかも知れません。それで黙っている人もいますが、義に反する言動に、憤るのは良いことかも知れません。

 ネヘミヤ書に、次の様にあります。

『彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。(9章17節)』

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 私の信じた神さまは、人のなす悪い所業や罪に対して、すぐに怒ることをなさいません。その代わり、その様子を忍耐して見ておいでです。時至って、見過ごしていた罪を、「義」をもって裁かれるのです。

 私は、生まれてから長い年月に、さまざまな悪いことしてきました。それらを覚えているのです。じっと、この右の拳を眺めていると、怒りを込めて、この右の拳を振るって、何度も人を殴ったことがあるのを思い出してしまいます。人を憎んだり、呪ったり、傷つけた自分が、本当に悪人で、罪人だあると認めざるを得ません。さまざまな悪事の記憶も鮮明でした。『お前は罪深い男だ!』と無言の声を聞いていたのです。

 人からは、いい青年の様に見えたのでしょうけど、心や記憶の内側は真っ黒けでした。きっと、神さまは、その全てを覚えていらっしゃるに違いありません。自分には、赤面する様な、恥ずかしい罪が溢れているからです。それを隠したかったのですが、神さまは全てご存知なのです。きっと、記録帳があることでしょう。

 そんな悶々とした思いにあった若い頃に、この「義」でいらっしゃる神さまのいらっしゃることを、ありのままに自分で信じられたのです。次の聖書のことばによりました。

『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。(1ヨハネ1章8-10、2章1節)』

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 罪を、この赦してくださる神の前で、「告白」するなら(念のためにどんな宗教家も代理者にはなれません)、赦されるのです。母は、赦しの神と裁かれる神の両方を、母の財布から、五円とか十円をくすめていた私に、教えてくれました。その硬貨を握って、駅前の駄菓子屋に飛んで行って、買い食いをしていた私にです。そうし続ける私は、隠れている所で、隠された悪をしている自分をご覧になられる神を恐れたのです。

 でも、赦されることも、母は教えてくれました。神の御子イエスさまが、十字架に、自分に罪の身代わりに懲罰を、代わって受けてくださったことを、幼い日にです。それで時至って、自分の罪深さを告白したのです。そうしましたら、スッと心の重荷が無くなってしまいました。

 怒りを、父の血のせいにしていた自分は、己の怒りに圧倒されていたのです。今でも、毎日、赦されたことを感謝しています。今朝もです。自分を責めたりしません。それで、「怒り」を制御している毎日の自分であります。

(Christian clip arts のイエスさまのイラスト、ウイキペディアの五円札です)

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「孫の手」の様な交流があって

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『孫たちは老人の冠、子らの光栄は彼らの父である。(新改訳聖書 箴言17章6節)』

 私が羨ましく思うことが、まだあります。孫たちが、私たちに4人いるのですが、その孫たちと家内のやりとりなのです。孫息子は二人、孫娘が二人で、彼らは従兄弟・従姉妹同士で、昨年末も私たちの家を、3人の子どもたちが、その子たちを伴って、訪ねてくれました。長女夫婦は、残念ながら来られませんでしたが、とてもにぎやかに十二月生まれの誕生祝いと、私の退院祝いとをしてくれたのです。

 血の繋がりでしょうか、家内が優しいのか、老いたり病んだりで弱くなったかも知れませんが、孫ベーたちが、4人で肩をもみほぐし、マッサージをして上げたり、好物を買ってきては、「孫の手」の様にかゆいところに届く気配りを示してくれていたのです。やっかみではないのですが、自分たちのバアバだと言うことで、とても仲良しなのです。

 とくに孫娘たちは、バアバが大好きで、家内はほころび続けてニコニコしているのです。そんな中、いつ頃からでしょうか、アメリカにいる孫娘から、時々、chat が家内にあるのです。まだ日本語の初心者の彼女は、たどたどしく短い日本語でチャットを送ってくると、それにバアバは返信をして、二人で楽しそうに交信し合っています。そのやりとりを見て、実に羨ましいのです。

 おばあちゃん世代の名前に、「子」が付くので、自分の英語名に、「Ko」を付けて自称しているのです。そろそろ進学を考える時期なので、専攻を決めねばならない時期の様です。ずっとHome school で学んできているのですが、前の学年は、公立学校に藉を置きながら、HomeとSchool とで学んで、最終学年は、郡の大学のCommunity College で単位を履修してきているようです。短大の履修単位は、もう一教科だけ残しているのだと、娘が言っていました。向こうの学びは多様で、私には想像がつきません。

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 長男の孫息子は、大学入試試験挑戦中、次女の孫息子は大学2年生、長男の孫娘は、今年は受験を控えています。歳をとるほどに、これからを生き抜けようとしている孫ベーたちを見ていると、彼らの親たちの育った子ども時代の様子とは、ずいぶんと違っているのを感じるのです。

 みんな「スマホ」を持って、21世紀の小道具を、分身の様にしているからです。彼らを取り巻いている社会は驚くほどに進歩でしょうか、もしかすると退歩しているのかも知れませんが、想像もしていなかった、今様な社会に、ちょと翻弄されているかに感じられます。価値が転倒してしまっているからです。

 便利になったのですが、生きづらくなっているのではないでしょうか。あまりにも情報量が多すぎるからです。simpleさが消えてしまって、あまりにも複雑な時代を生きているのでしょう。もしかすると翻弄されている様に思えるのは、私たちの年寄り世代が、もうついていけないからかも知れません。世代間のギャップが広がっているのです。

 そんな中を生きているのです。それでも私たちの安心は、正しく確かな価値観や人生観を身につけていてくれることです。この時代の荒波に翻弄されないで、しっかりと生き抜いていけると、私たちは信じているのです。スマホがもたらす情報やサインだけに煩わされないで、耳をすまして、神さまのみ声を聞いて欲しいのです。古い堅固な価値観に生きている様な、ジジババ世代に、こんな風に触れるのも、きっと好いことかも知れません。

(ウイキペディアの「孫の手」、いらすとやの「おばあちゃん」です)

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台湾と日本との深い関わりが

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 「台湾」に、国立嘉義大学があります。この大学の前進は、嘉義農林という旧制の実業学校でした。甲子園で行われ続けている、全国高校野球選手権は、かつて旧制の中学校の大会で、台湾や満州からも、都道府県の代表に加えられて予選が行われていたのです。日本統治の時に建学されたのが、この嘉義農林学校でした。この学校が台湾代表で、1931年の第17回大会に、甲子園に出場し、決勝まで進み、中京商業に敗れて準優勝したのです。

 この嘉義農林学校の野球部を、指導したのが、簿記を教えていた近藤兵太郎でした。近藤は、松山商業学校で野球部を指導していた監督でした。台湾の原住民の山地族(高砂族)、漢民族、そして日本人の学生の混成チームでした。近藤の他に、台湾に、大きく関わった人に、後藤新平、新渡戸稲造、八田與一を上げることができるでしょうか。
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 後藤新平は、仙台藩の水沢城の城下町で、武家の家に生まれています。17歳で医学を学びます。自由民権運動の板垣退助が、暴漢に襲われた折に、新平は、その治療にあたったのです。その優れた所作に、板垣は、政治の世界で活躍することができる能力を、新平の内に感じた様です。後にドイツの医学校に留学をし、博士号を取得しますが、医者になる道にではなく、病院経営に手腕を働かせていきます。

 さらに明治政府の内務省衛生局長に抜擢され、台湾の統治が行われていく内に、 1898〜1906年まで、第3代台湾総督府民政長官として務めています。台湾の可能性を調査し、台湾の実情にあった施作を行なったのです。その働きのために、新渡戸稲造を招聘しています。新渡戸は、「拓殖計画」を推進し、おもに砂糖きびやさつま芋の栽培や改良を促進させ、製糖事業を起こす施作を推進しています。

 米作りにも手を広げていきます。まず水路建設で、灌漑事業を進展させていくのです。八田與一は、台南の台湾最大の嘉南平野に水を引きました。烏山に、ダム建設をし、その水路を流れる水は、嘉南平野を穀倉地帯へと変えていくのです。

 私は、一度台湾(本島)を訪ねたことがありました。台北から高雄まで、台湾新幹線に乗り継いで、1週間ほど街から街へと、兄と一緒に教会を訪ねたのです。台北の教会の牧師さんの奥さまが、「ビーフン(米粉)」を作ってくださったのですが、あの味は、三十数年も経つのですが、今でも忘れられない味覚でした。

 台中の教会の信者さんは、お茶に誘ってくださったことがありました。アメリカや日本に輸出する衣料会社の経営者でした。日本統治時代の思い出話を懐かしそうに話してくださったのです。『あの頃は、玄関に鍵などかけなくても、巡査が警らしてくれて、守ってくれていたのです!』と、目を細めて話してくれました。そのおかげで、美味しい台湾料理に預かることができ、歓待されたのです。

 家内を誘って、もう一度訪ねたいと思ったままの今です。親日家が多くおいでの国なのです。人は優しく、食べ物が美味しく、高雄の教会では、集会が終わった後に、屋台村に誘われたりの歓待を受けたのです。かつて、台北の基隆の港から、さとうやバナナが輸出されて、おもに日本の門司港に送られていました。

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 台湾の総統をされた蒋介石は、日本の士官学校に学んだ方でした。台湾のみなさんは、この方への敬慕の思いが強烈でした。奥さまの宋美齢は、大陸の上海で生まれておられ、アメリカに留学して学んだ夫人でした。クリスチャンホームに育った方で、立派な信仰をお持ちだったのです。

 この台湾は、中華人民共和国の地図では、「台湾省」とされていて、厦門(アモイ)から1時間ほどの金門島も、台湾ですが、船に乗るためには、出国審査と入国審査をしなければ上陸できませんでした。極めて微妙な立場にありますが、武力攻勢になるのか、どうしても祈りが必要の様です。

 小さな島ですが、上陸しますと、台湾ですから、ガラリと雰囲気が違うのです。そこには、「自由」があり、中国にあるようなピンと張りつめたものがないのです。バスを乗り逃がして、困っていた私たちに目を向けて、車を私たちの前に止めて、どこに行くのかを聞いてくれるではありませんか。『厦門に帰るのです!』と言いましたら、車で送ってくださったのです。日本旅行から帰ってきたばかりだとも、車の中で言っていました。

 その親切に、もうずいぶん前に、台湾本島を訪ねたことなど話したりしました。私にとっては、素晴らしい思い出の国だと言いましたら、そのカップルは喜んでくださったのです。台湾有事に、最善がなされるようにと祈る今です。そう言えば、「土瓶蒸し」と言う日本料理を、その台湾で初めて食べたので、もう一度食べてみたいと思っております。

(ウイキペディアの台湾全図、嘉義農林野球部、ダム、今の基隆港です)

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いのちの水の川のほとりに立つ

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「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。(「方丈記」冒頭)」

 高校の時に、鴨長明の著した「方丈記」を学んだことがありました。曹洞宗の寺院の僧職の居室を、「方丈」と呼ぶそうです。「丈」とは、和式の長さを表す数量詞で、ほぼ三メートルで、三メートル四方ですから、四畳半より少し広いのですが、寺の大きさに比べると、だいぶ狭かったのでしょう。

 母を産んで、養女に出した生母は、奈良の曹洞宗のお寺に嫁入りをしたのです。有名な藩の菩提寺でした。四人兄弟の私たちにとっては祖母にあたるので、その葬儀の後だったでしょうか、母の父違いの妹に会うために、母に伴って挨拶に伺ったことがありました。生涯三度目の寺泊でした。

 一度は、小学校の林間学校で、3クラス合同で、そのお寺に泊まったのです。悪さをして、一人だけで山門に立たされたのです。墓は見えませんが、あんなに怖いことはありませんでした。フクロウが鳴いていたでしょうか。忘れられたのか、なかなか、赦してもらえなかったので、ずいぶん長い時間、立たされ坊主でした。泣きませんでした。そんな仕打ちをするほどの悪戯ではなかったのですが、隣の学級の担任にでした。

 二度目は、高野山の宿坊でした。道徳教育の研修会があって、その事務担当で、専門委員の研究員の方と一緒でした。研修会から抜け出しを誘われて、山を降りてでしょうか、門徒や観光客のための食堂で、「胡麻豆腐」をご馳走になったのです。大豆の豆腐しか食べたことがなかったので、こんなに美味しい物があるのかと思って頂いたのです。三度ほど、胡麻豆腐で抜け出したでしょうか。

 この方が、短大の教授をされていて、東京に呼び出されたことがありました。『ここに来ませんか?』と誘われたのです。素晴らしい機会でした。でも、私は、宣教師に従って開拓伝道をしている最中だったのです。青果の仲卸をしていた方の手伝いで、早朝から青果市場で働いていた頃で、大きな誘惑でした。でもキッパリお断りして、自分の持ち場に帰ったのです。この方は、有名な哲学者のご長男で、倫理学の学者でした。

 仏法でも哲学でもない、母譲りのキリストに捉えら、召された私は、誘惑を何度か払い除けたのです。でも、多くの素晴らしいみなさんとの出会いがあって、たくさんのことを学ばせていただいたのです。

 母の妹、奈良の叔母さんにはよくしていただいて、すごいご馳走の膳に預かったのです。古の都のお寺ですから、地方都市の単立の教会の伝道者の膳とは大きな差がありました。でも、贅沢はできなくても、感謝な膳を、家内と子どもたちとで囲むことができたのは、素晴らしい時でした。

 さて、その寺院に住む僧職を、曹洞宗では「方丈」とも呼んでいるのです。ここにある「ゆく河」は、特定の河川ではなく、一般的に、「河」と言う書き始めなのです。京都を流れる加茂川でしょうか、高野川でしょうか、その両川の間で、鴨長明が生まれ育っていまたそうですから、その流れを眺めた記憶の中から、「ゆく河」と記して、この書を書き始めたとしてもおかしくありません。

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 私は、生まれた故郷の脇に、小川が流れているのを、大人になって訪ねて知りました。そこから沢違いの村に越したのですが、その家の目の前にも、小川が流れていました。東京に出て住んだ家も、引越し先の家も、また引っ越した家も一級河川の脇でした。川辺は、父が好んだ地だったのでしょうか。中国の華南の街に住んだ時も、しばらく歩くと川幅が驚くほどの大河の近くだったのです。

 帰国した今も、江戸の町と繋いで、舟運の行われた、巴波川のほとりに、また住んでいるのです。川と深い縁(えにし)があると言えるでしょうか。朝な夕なに、流れに目をやると、鴨や白鷺や鯉の姿が見られます。今朝、起き抜けにこの流れ行く水面を眺めて、この流れが、世界中の川に繋がっているのを感じて、不思議な感動がありました。

 長明は、無情を語り、儚さを嘆き、全てが流転(るてん)し、移り変わる浮世を憂えたのです。なんて暗くて、希望がなくて、定まらないのかと、読んで嘆息しました。人の一生は、川の流れに似て、流れに澱(よど)む泡沫の様に、いつも間にか消えていき、そして新しい泡(あぶく)が浮いてくると言うのです。人の一生とは、そんなものなのでしょうか。

 確かに、ソロモンが記したとされる、「伝道者の書」にも、厭世的な風な箇所があって、定められた時が、何事にもあると言います。それは、偶然ではなく、また刹那的でもなく、時を支配される神がいらっしゃると言う意味で、言及しています。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者3章11節)』

 人の一生は、人の願いではなく、神の支配に属しています。神さまが、人の創造者で、いのちの付与者でいらっしゃるからです。生も死も、主が定められておいでなのです。そういえば、自分の一生を思いますに、もう3年、長くて5年ほどで、平均余命の様に思えるのです。でも神を知り得た者には、「永遠」という時が約束されています。

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(新改訳聖書 黙示録22章1~2節)』

 イエスの弟子のヨハネは、パトモスで幻を見て、それを書き記し、諸教会に送りました。やがてくる終わりの日の様子を驚きの中で、幻の内に見たからです。

 その書き残したことが、連続的に、すでに起こり、なお続き、やがて終わります。新しい天と新しいエルサレムが、着飾った花嫁の様に降ってくるのを、ヨハネは目の当たりにします。

 新しいエルサレムの都には、「いのちの水の川」が流れていて、その河岸には、「いのちの木」が生い茂っていて、諸国の民を癒す「木の実」が、毎月成るのです。私の頂いた信仰は、文字通り、その様な川、木、実りのあることを信じさせてくれるのです。贖われた者たちが、喜び楽しんで、永遠に生き続けるためにです。止まることなどない泡沫の様な出来事ではなく、「万物の更新」の時が、やがて来るのです。

 私は、「いのちの水の川」」のほとりに立つ日を待ち望みつつ、この地で待ちます。

(県北を流れる「湯西川」、「巴波川」です)

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ニンジン

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 1950年代の東京都下、久留米村に、自由学園、クリスチャン・アメリカンアカデミー、旧中島飛行機製作所などの近くに、職員住宅があったそうで、その周辺から通学していた家内は、毎朝、近所の子どもたちを連れていった様です。今の集団登校の走りでしょうか。西武池袋線の沿線で、農村だった様です。今は、福岡県の久留米市と混同しない様に、東をつけて東久留米市になっています。

 村立小学校は遠かったそうで、最寄りの駅から、池袋寄りの町の小学校に、電車通学を一緒にしていた様です。学校から帰ると、その子たちを誘って、日が暮れるまで外遊びをしたそうです。その後の、近所の人たちの消息を聞いて、何か謎が解けたのだそうです。家内の家族は、仕事の関係と、敬愛した宣教師の始めた教会に集うために、他の街に引っ越していたのです。

 その時、一緒に登校していた一年生だったけい子ちゃんが、先週、70年ぶりに、訪ねて来たのです。私立の中学から短大に進んで、卒業後に、ドイツ系の会社で働いたそうです。結婚して、お二人のお嬢さんがいて、今は、ご病気で入院中のご主人をお持ちですが、電車を乗り継いでおいでになったのです。

 「積もる話」が、満載で、思い出話に花が咲いて、途切れることがない二人を、交互に眺めて、こういった再会のできる家内が、実に羨ましく思ったのです。ご両親のことお爺さんのこと、近所の方々のこと、あの頃のこと、その後のこと、元気だったご主人とのこと、お嬢さんたちにきと、一気に話されていました。

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 幼い日に、そんな出会いと関わりとがあって、何十年もたっての再会は、そうあることではなさそうです。戦争が終わって、平和な時代になって、日本宣教のためにやって来られた宣教師のみなさんのこと、義母が、その宣教師のみなさんに、『ございます。』調の丁寧な日本語を教えたのです。ある宣教師さんは、習いたてで、『ワタシハニンゲンヲナマデタベマス!』と言って、聞く人を驚かせたのは、「人参🥕」だったことなど、面白おかしく話されていました。

 私たちの家族は、よく引越しをしたので、そういった機会はありませんでした。自分だけ地元の中学校ではなく、電車通学で、別の学校に行きましたたので、なおのことそんな機会はなかったのです。その代わり、ずいぶん広い範囲に級友ができたのは感謝でした。

 会うは別れの初めなのでしょうか。その反対に、再会があるのも人生の妙味の様です。様々な理由で没交渉になってしまった何人もの旧友に、もう一度会いたい思いが、家内を訪ねて来られたけい子ちゃんの訪問で、湧き上がってきました。

 と言いいますか、『もう一度会っておきたい!』と言う思いがあるのです。《天国での再会》に、驚くほどの期待感が溢れているからです。そのために、話しておきたいことがあるのです。

(ウイキペディアの西武池袋線車両」、 “ いらすとや ” の人参です)

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異邦人

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『また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」 また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」 さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」 さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15章9~13節)』

 聖書で、パウロは、旧約聖書を引用して、神に選びの民、イスラエル以外の諸国民、「異邦人」に向けて、こう言うのです。神なき民の子孫の私たちに、「この方に望みをかけ」る様に勧めています。

 久保田早紀が歌った「異邦人」の歌詞では、「シルクロード」をイメージして、アラブ世界の様子を漂わせた意味で歌われたのですが、それとはちがって、イスラエル人、ユダヤ人以外の人を意味して、パウロは、「異邦人」と言います。

 パウロが、イスラエル人である、民族的な優越感によって、蔑(げす)んで、そう言うのではありません。太陽や月や星や、鋳たり刻んだりした像に向かって、『神よ!』と呼び続けてきた、異教世界の人たちに向け言うのです。

 若かった時に、住んでいた町の一廓に神社がありました。人通りがありませんでした。その神殿に祀られている御神体と言われるものが何か見たくなったのです。それで、辺りを見回して、人のいないのを確かめて、その祠の部分を開けたのです。何があったとお思いでしょうか、「石ころ」でした。宝石でもなんでもなく、道端で見かける様な小石でした。

 それは、どう見ても、御神体にふさわしくありませんでした。ある部落に、神社がなかったのだそうです。それで、みんなでお金を出し合って、神社を創建したのです。建物はできたのですが、御神体がありません。そこで、何を神にするかを協議したそうです。それで意見が一致したのは、村の脇に流れる、川に行って、朝一に流れてくる物を御神体にしようと決めて、代表者たちが、身を清めてでしょうか、川に出かけたのです。

 何と流れてきたのは、「草鞋(わらじ)」、しかも、使えなくなって捨てたとしか思えない様な物でした。でも、取り決めたことでしたから、その草鞋を持ち帰って、神殿に納めたのだそうです。 

 草鞋に、藁をないで、作った作り手がいるのですから、そんな作業をした人を造られた神がいるに違いありません。このパウロは、

『それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。(ローマ1章25節)』

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と言っている通りです。群馬県人だった内村鑑三という人は、子どもの頃から、道を歩いて、神社仏閣の前を通る時に、必ず立ち止まって、習慣的に拝礼をしていたのだそうです。ところが札幌の農学校で学び始めた時に、同級生の新渡戸稲造らが、イエスをキリストと信じたことをきっかけに、彼らに勧められて、彼もまた信仰を告白して、クリスチャンになったのです。ただお一人の神を信じ、この神に仕えて生きたのです。

 私は、クリスチャンの母に育てられ、母の生き方、あり方を見続けて、教会学校に連れて行かれ、自分の周りに神と称されるものがあっても、神とは認められませんでした。母が信じ続けてきた、聖書の神こそが、神だと思っていたからです。

 やがて、その母の信仰を継承して、クリスチャンとされました。聖書に記される神こそが神であると、八十路の今に至るまで、「望みある者」として信じ続けてまいりました。それは、ただに神さまの憐れみによる以外の何ものでもありません。今朝も、目には見えない神をほめたたえていられるのです。

(ウイキペディアの「アラビヤの隊商」、群馬の「赤城山」です)

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心が弱まらないためにも

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 「誤解」、 日本国語大辞典」によると、「[名詞]相手が言ったことの意味をとりちがえること。また、ある事実について、誤って思いこむこと。思いちがい。[初出の実例]「子は希臘の語を知らざるによりて、経中の文句を誤解すといひしかば」(出典:西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉八)」とあります。

 今日のお昼にNHKラジオニュースに、大きな被害をもたらせた、阪神淡路大震災が起こってから、三十周年にあたり、兵庫県の斉藤元彦知事が、記念式典で次の様に述べました。

『災害はいつどこで起こるか分かりません。このことを今、改めて胸に刻みつけなければならず、必要なことは、災害の記憶やこの30年間の歩みを決して風化させないことです。』

 そう語っておいででした。そのお話を聞いて、この斉藤知事の不信任決議が、昨年の9月に、県議会で全会一致で可決されたのを思い出したのです。それに至るまでマスコミ各社の論調は、知事のパワハラや不正を取り上げ、糾弾していました。私は、その報道を聞いて、『ずいぶんひどい知事だ!』と憤慨したのです。

 県議会がこぞって、反知事の主張を唱えたのです。ところが真相が明らかにされていくにつれて、陥れられたのは斉藤知事で、有る事無い事が暴力的に語られていたのです。中央官庁から、出世前の業績づくりのために、地方で知事を経験している、根っからの悪徳官吏だと、私は思い込んでいたのです。

 まさに、マスコミの言うことを、そのまま信じてしまいました。それが「誤解」だと、やっと分かったのが、出直し知事選で、斉藤知事が、111万3911票を支持を得て、再選したことでした。この段階で、斉藤元彦氏を支援した、斉藤知事を信じ支援した兵庫県民が、多かったことで、私は、「誤解」していたことを恥じたのです。真相ではなく、県幹部がこぞって反斉藤をかかげた、作り上げられた悪意の世論に、そう決め込んで誤解していたからです。

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Himeji Castle in may 2015 after the five year renovation

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 自分の心の中で、『めんなさい!」と繰り返したのです。真剣に調べた上で判断したのではなく、間違った世論に、全く耳を傾けてしまい、同調してしまったのです。かつてナチス政権を担ぎ上げ、支持したドイツ国民を糾弾していた私でしたが、本来裁かれるべきは自分だと言うことが分かったのです。

『そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。(新改訳聖書エレミヤ51章46節)』

 怒涛の様に、「うわさ」が、イスラエルの国に押し寄せてきたのです。今もまた、「うわさ」話が闊歩して、巷を行き来しています。まさに、「うわさ戦争」の渦中にあります。聞き分けずに、信じてしまわない様に、殊の外注意深くなくてはと、p思わされた、今日のお昼でした。「心の弱まり」を避けなくては!

(ウイキペディアの「県花ノノジギク」、「姫路城」です)
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三島通庸の功罪について

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♬ 花は霧島 煙草は国分
燃えて上がるは オハラハー 桜島
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

🎶 雨の降らんのに 草牟田川濁る
伊敷原良の オハラハー 化粧の水
(ハ ヨイヨイヨーイヤサット)

見えた見えたよ 松原越しに
丸に十の字 オハラハー 帆が見えた
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

さつま西郷どんは 世界の偉人
国のためなら オハラハー死ねと言うた
(ハ ヨイヨイヨイヤサット)

桜島には霞がかかる
私しゃおはんに オハラハー 気にかかる
(ハ ヨイヨイヨイヤサット) ♬

 これは有名な鹿児島小原節です。この鹿児島は、一度訪ねたことがありました。桜島とおはら節と西郷どんは三大名物でしょうか。島津藩の街で、長州と共に、幕末から明治にかけた日本の大きなうねりの中で、中心的な役割を演じています。多くの人材を生み出していますが、その中に三島通庸(みちつね)がいて、少なからず栃木と関わりがありました。

 この三島は、1835年(天保6年)、薩摩藩の下級武士の子として生まれています。やはり賢かったのでしょう、大久保利通の高い評価を得て、中央政府に呼ばれました。最後は警視庁の警視総監を務めています。

 薩摩藩は、長州藩と双璧で、明治維新を推し進めた人材を多く出しています。その薩摩藩の西郷隆盛と会談をした勝海舟が、江戸を戦乱から守る立役者でもありました。明治新政府が誕生した時、無傷の江戸に、天皇を迎えて、大東京が誕生していきます。

 三島は、県令(知事です)として、山形、福島、そして栃木で、おもに土木事業を推し進めて貢献しました。栃木では、未開拓の荒地に、那須疏水、水路を引いて、農地を開拓し、主に牧畜業に貢献しています。自らも、那須の地に農場を経営しています。維新政府の重鎮は、栃木県下に、農場や別荘を持ったのです。

 昨年、長女が訪ねてくれた時に、那須に参りました。初めて那須の地に立って、明治の新日本建設のお膳立てをした長州人材が、那須に別荘を設け、農場を持ち、開拓を主導したのは、大きな貢献だと思ったのです。戦後、多くの農業青年を集めた山梨県の清里と同じ様なImpactを与えられたのです。その時は、ポール・ラッシュの果たした貢献は大きかったのです。そこにあった清泉寮のsoft creamを口にした時と似た、感慨が那須の地にあったのです。

 さて、栃木県が、宇都宮県ではなく栃木県とされたことに、いくつかの背景がありました。通常、県都にある町の名が、県名になることがほとんどの中、やはり栃木は異例だったことになります。同時期に、板垣退助が掲げた自由民権運動が全国的な広がりを見せる中、その運動が盛んだったのが、栃木市でした。

 明治維新が発生させた一つのことは、士族の維新政府への不平不満でした。その反乱士族を抑え込んだのが、この三島でした。栃木市は、その運動が盛んであって、三島は、そういった強い思いがあって、県都を移動させた様です。
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 明治維新政府が、「廃藩置県」を掲げ、藩が県になっていきます。当初、栃木県の県都、県庁所在地は栃木市とされました。ところが、1884(明治17)年1月21日、政府官報により、栃木町から宇都宮町への栃木県庁移転が布告されてしまうのです。その立役者となったのが、3代県令の三島通庸でした。

 政治的剛腕で知られた三島通庸は、県令になって3ヶ月で、栃木県庁を、栃木から宇都宮を移転させてしまいます。その後押しをしたのが、宇都宮の豪商たちの拠出金があったからだと言われています。

 力関係、経済的な理由、人的な問題が、やはり複雑にあった時代、少々強引な行政が行われたのは、ここ栃木県だけではなく、全国的にそうだったのでしょう。職安などなかった明治の御代、武士は失職して、大変な時を迎えていたのです。商人、教師、警官、兵士などになっていった様です。

 大きな政治的な変化のあった時代、この日本の土台が据えられていきます。様々な動機があって、それが日本を動かしました。その一人が、三島通庸だったのです。那須野が原開拓は、特記すべき業績でしょうか。人を、よくもてなした人で、家族や使用人以外にも食客を多く抱え、食堂には長机を並べて家族や親戚、知人が集めて食事を一緒にしていた、苦労人だったのです。

(ウイキペディアの広重の桜島、那須疏水です)

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峠を越えると、そこは

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 三国峠は、新潟県魚沼郡湯沢町と群馬県利根郡みなかみ町を境にして、位置する交通の難所です。江戸と越後を結んでいて、冬季の峠越えは大変に難儀したと言われ、数年前に、峠に差し掛かる手前に、かつての「須川宿(みなかみ町)」があって、そこに、家内の退院後初めての遠出をして、2泊したことがありました。

 越後の長岡藩をはじめ、越後国の諸藩の「参勤交代」の大名行列があり、佐渡・新潟奉行の行列や、罪人の佐渡送り、江戸への出稼ぎ人、江戸の商人、旅芸人にいたるまで、数知れぬ人が行き来しています。ある冬に、江戸から佐渡へ罪人を護送中に、遭難事故などもあって、越後の天下の険だったのでしょう。その須川宿に、資料館があって、多くの歴史的な民俗的な物品が展示されてありました。

 かつては交通の要衝であって、さまざまな思惑を抱きながら、登り下りで、峠道はにぎわったのですが、信越線の開通で寂(さび)れてしまいました。信越線の高崎・横川間が開通し、上越線が開通すると、三国峠は、役割を終えた様に寂れてしまいます。それから30年経ち、昭和34年、国道17号の三国トンネルが、峠の直下を貫通してからは、この界隈は、昔のにぎわいを取り戻してきた様です。さらに高速道路、新幹線の開業で、新潟と東京は往来が激しくなっていくのです。

 あの越後人の政治家で、総理大臣も歴任した田中角栄は、『ダイナマイトで、三国峠を吹き飛ばしたい!』と語ったのだそうです(「三国峠演説」でそう語ったようです)。そうすれば、大陸からの雪を運ぶ季節風は、太平洋側に抜けて、越後に雪が降らなくなるからなのです。

 そんな風に、越後人の本音を語ったようです。忍耐強い頑張り屋の県民資質は、そういった厳しい自然環境の中で培われたのでしょう。最初の私の職場に、新潟県の出身の方がおいででした。県立高等学校の校長をなさった方で、退職後、息子さんのおいでの東京に住まわれ、嘱託で働かれていて、実に穏健な方でした。昼休みになると、バトミントンを一緒に楽しんだのです。

 あの人心掌握に長けた田中角栄とは、違った雰囲気を持たれた方でした。また厚生省で、初めての女性課長を務めた才媛もいらっしゃって、賑やかな職場で、この方々がいることで、職場が落ち着いていたのです。学校を出たての私は、そこで多くを学ばせてもらいました。

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 面白かったのが、越後弁でした。主に北越地方だそうですが、「え」と「い」が、標準語と違って、発音されづらくて、「苺」と「越後」、「灰」と「蝿」、「米原」と「前原」とが逆になってしまって、話の前後で、聞き分けなければならないのです。そういえば、次男は、新潟県下の高校に学んだのです。

 そこは、地方出身の方が多くて、長野県伊那人、長崎県壱岐人、熊本肥後人なども、最初の職場にいて、みなさん、標準語しか喋らなかったのでです。

 「お国言葉」と言われる「方言」は、東京弁の自分には、聞くのが面白いのです。母は、出雲出身で、やはり「出雲弁」がありましたから、父が口真似をして揶揄(からか)っていたことがありました。父は、横須賀出身で、きっと相模弁の中で育ったのでしょうけど、それを聞いたことがありません。

 今住む栃木県ですが、群馬県、埼玉、神奈川の東京都を囲む県に共通する、『そうだんべ!(そうだろう)』の「べえべえ言葉」が、年配者の間で聞こえます。

 もっと興味深かったのは、華南の街にいた時でした。山でしょうか、峠でしょうか、そこを越えると、別の方言があって、『聞き取れますが、喋れません!』と言っていました。それで、北京語が標準語になっていたのです。教会では、北京語で説教がありますと、方言の通訳が立つほどで、驚かされた一つのことでした。

 三国峠を越えると、やはり別のことばが聞こえたのでしょうか。こんな狭い日本でも、溢れるほどの方言がありますが、徐々に消えつつある様です。でも、残しておきたいと思うのですが、これから育つ子どもたちの、郷土愛を増すために、そうして欲しいものです。

(三国街道と永井宿の標柱です)