三国峠は、新潟県魚沼郡湯沢町と群馬県利根郡みなかみ町を境にして、位置する交通の難所です。江戸と越後を結んでいて、冬季の峠越えは大変に難儀したと言われ、数年前に、峠に差し掛かる手前に、かつての「須川宿(みなかみ町)」があって、そこに、家内の退院後初めての遠出をして、2泊したことがありました。
越後の長岡藩をはじめ、越後国の諸藩の「参勤交代」の大名行列があり、佐渡・新潟奉行の行列や、罪人の佐渡送り、江戸への出稼ぎ人、江戸の商人、旅芸人にいたるまで、数知れぬ人が行き来しています。ある冬に、江戸から佐渡へ罪人を護送中に、遭難事故などもあって、越後の天下の険だったのでしょう。その須川宿に、資料館があって、多くの歴史的な民俗的な物品が展示されてありました。
かつては交通の要衝であって、さまざまな思惑を抱きながら、登り下りで、峠道はにぎわったのですが、信越線の開通で寂(さび)れてしまいました。信越線の高崎・横川間が開通し、上越線が開通すると、三国峠は、役割を終えた様に寂れてしまいます。それから30年経ち、昭和34年、国道17号の三国トンネルが、峠の直下を貫通してからは、この界隈は、昔のにぎわいを取り戻してきた様です。さらに高速道路、新幹線の開業で、新潟と東京は往来が激しくなっていくのです。
あの越後人の政治家で、総理大臣も歴任した田中角栄は、『ダイナマイトで、三国峠を吹き飛ばしたい!』と語ったのだそうです(「三国峠演説」でそう語ったようです)。そうすれば、大陸からの雪を運ぶ季節風は、太平洋側に抜けて、越後に雪が降らなくなるからなのです。
そんな風に、越後人の本音を語ったようです。忍耐強い頑張り屋の県民資質は、そういった厳しい自然環境の中で培われたのでしょう。最初の私の職場に、新潟県の出身の方がおいででした。県立高等学校の校長をなさった方で、退職後、息子さんのおいでの東京に住まわれ、嘱託で働かれていて、実に穏健な方でした。昼休みになると、バトミントンを一緒に楽しんだのです。
あの人心掌握に長けた田中角栄とは、違った雰囲気を持たれた方でした。また厚生省で、初めての女性課長を務めた才媛もいらっしゃって、賑やかな職場で、この方々がいることで、職場が落ち着いていたのです。学校を出たての私は、そこで多くを学ばせてもらいました。
面白かったのが、越後弁でした。主に北越地方だそうですが、「え」と「い」が、標準語と違って、発音されづらくて、「苺」と「越後」、「灰」と「蝿」、「米原」と「前原」とが逆になってしまって、話の前後で、聞き分けなければならないのです。そういえば、次男は、新潟県下の高校に学んだのです。
そこは、地方出身の方が多くて、長野県伊那人、長崎県壱岐人、熊本肥後人なども、最初の職場にいて、みなさん、標準語しか喋らなかったのでです。
「お国言葉」と言われる「方言」は、東京弁の自分には、聞くのが面白いのです。母は、出雲出身で、やはり「出雲弁」がありましたから、父が口真似をして揶揄(からか)っていたことがありました。父は、横須賀出身で、きっと相模弁の中で育ったのでしょうけど、それを聞いたことがありません。
今住む栃木県ですが、群馬県、埼玉、神奈川の東京都を囲む県に共通する、『そうだんべ!(そうだろう)』の「べえべえ言葉」が、年配者の間で聞こえます。
もっと興味深かったのは、華南の街にいた時でした。山でしょうか、峠でしょうか、そこを越えると、別の方言があって、『聞き取れますが、喋れません!』と言っていました。それで、北京語が標準語になっていたのです。教会では、北京語で説教がありますと、方言の通訳が立つほどで、驚かされた一つのことでした。
三国峠を越えると、やはり別のことばが聞こえたのでしょうか。こんな狭い日本でも、溢れるほどの方言がありますが、徐々に消えつつある様です。でも、残しておきたいと思うのですが、これから育つ子どもたちの、郷土愛を増すために、そうして欲しいものです。
(三国街道と永井宿の標柱です)