戦後、この様な人がいた

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 戦後間も無く文部大臣をされた方に、森戸辰男がいました。衆議院議員であった森戸を、1948年に総理大臣に就任した片山哲、次いで総理大臣となった芦田均も、文部大臣に任命しています。戦後の教育の舵取りをした方で、教育基本法を制定する、重要な働きをされたのです。

 これ以前、1947年5月3日に、日本国憲法が施行されていますが、その憲法の草案を起草した委員の一人でもあったのです。新憲法に、「基本的人権」、「健康で文化的な最低限度の生活(生存権)」などが盛り込まれたことで、戦後日本の歩みに大きく貢献した人物であったと言えます。

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 その後、新制大学が誕生するのですが、1950年から1963年までの長い期間、広島大学の学長になっています。国会議員、文部大臣、広島大学の初代学長といった役職に就かれた、この森戸辰男は、広島県人で、一高、東大に学んでいます。第一高等学校時代には、新渡戸稲造に学んでいて、同級に、一高の教授をする三谷隆正がいました。この三谷は、内村鑑三の弟子でした。

 『理想を行動に移すことが人生である。理想なしにぶらぶら流れるままに生きているのでは、存在するというだけで、人間の生活をしているとは言いがたい。(「自警録」より)』を、新渡戸稲造から学んだ人でした。

 戦後の教育や政治の世界で活躍した人物の中に、クリスチャンが多くいたのも大きな特徴だったといえます。森戸辰男は、新渡戸の倫理学講座で、人格教育を受けており、『職業的能率ではなく、専門的知識でもなく、人格の涵養にある。』という学んだ理念を、広島大学で実践したのです。

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 青年期に受ける影響というのは実に大きく、その人の一生にわたって感化され続け続けるのです。森戸は、『(新渡戸の教育は)吾々の精神の一般教育(ゼネラル・カルチュア)であった。』としていたと言われています。国立大学でなされた教育に、キリスト信仰の感化が、多くあったというのも、素晴らしいことではないでしょうか。

 それほどの感化を、森戸に与えた新渡戸稲造ですが、一高校長を辞任する時に、dramaticな出来事があったそうです。当時、学生だった矢内原忠雄(森戸より5学年後に入学しています)は、『新渡戸校長と別れがたく、五百人ほどの生徒が「新渡戸校長惜別歌」を歌いながら、ぞろぞろと新渡戸のあとをついて新渡戸邸にまで行ったことは有名なシーンです。(大正2年5月1日)』と言い残しています。

(ウイキペディアの戦前の第一高等学校のキャンパス、森戸辰男、新渡戸稲造です)

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